第81話 158人目の隊員
「ドクター、そっちこそ何の用だ」乾は平然と言い返した。
乾は舌打ちしたくなるのをこらえた。
早くも感づかれたか。おそらく雑用ロボットの中に警戒プログラムが仕組まれていたのだろう。三浦の解析作業がそれに引っかかったのだ。
ドクターはまるで重力があるかのように壁面に足をつけてまっすぐ立っていた。投影映像には重力の有無など関係ない。白衣のポケットに手を突っ込み、ワイヤーフレームの眼鏡の下から鋭い眼光を投げかけてくる。明らかに乾を威圧する態度だった。
だが、こんなものはつまらんハッタリだ。こいつはただのホロ映像にすぎない。手足になる医療ロボットがなければ、殴るどころか彼を止めることさえできないのだ。それらは今、近くにいなかった。
「用がないのなら行かせてもらうぜ。俺は用事があるんでな」
乾はそう言うと、堅固な実体を備えているかに見えるドクターの映像に向かって真正面から突っ込んでいった。
「……止まりたまえ」ドクターが静かに言った。
その直後、乾の全身に激痛が走った。
まるで身体の内側を無数の剃刀でずたずたに切り刻まれているかのような凄まじい痛みだ。
「が、がは、がああ、あがががが」
乾の口から言葉にならないうめき声が漏れた。全身の筋肉がでたらめに痙攣し、体がねじ曲がる。呼吸さえまともにできない。
「忘れたのかね、君の脳内には無数のインプラントが埋め込まれていることを。そして、その手術を執り行ったのが誰だったのかを。無論、この私だ。操縦者の脳とドラゴンスレイヤーを接続するための装置だが、このように痛覚中枢を直接刺激し、苦痛を与えることにも応用できる」ドクターが言った。
全身を責め苛む激痛が突然消えた。
乾は嘔吐した。吐瀉物が無重力の通路に飛び散った。胃の中が空になった後も吐き気が収まらない。呼吸を繰り返し、必死に平静さを取り戻そうとする。
「辛いだろうね。同情するよ。これは私からの警告だ。黙って捜査から身を引きたまえ。それなら二度と君に痛い思いをさせないと約束しよう。だが、あくまで意地を張るつもりなら……次は容赦しないよ。今回とは比較にならないほどの苦痛が君を襲うことになるだろう」
「……は。白状しやがったな。やっぱり、てめぇが、犯人だったんだな。なぜ、向井を殺そうとした」乾はとぎれとぎれに言った。激痛の余韻でまだろれつが回らない。
「やれやれ、飲み込みが悪い男だ。さあ、約束通り極上の苦痛をプレゼントしよう。繰り返し罰を受ければ、そのうち嫌でも学習することになる。心理学でいう所のオペラント条件付けというやつだ」
しくじった。まさか敵がこんな手段を持っていたとは。自分はうかつにもその罠の中に踏み込んでしまったのだ。乾は自らの軽率さを悔やんだ。彼は歯を食いしばり、襲い来る苦痛に備えた。
だが、何も起きなかった。見るとドクターが怪訝な表情を浮かべていた。
「何だ、外部へのアクセスが遮断されている。馬鹿な、私の権限がすべて失効しているだと……まさか、清月の仕業か」ドクターは困惑した表情で周囲を見回した。まるで見えない壁で四方から閉じ込められているかのように、ドクターはその場から動けなくなっていた。
その時、通路を仕切るドアが開いた。
向こうから姿を現したのはまさに清月総隊長だった。
「乾、無事だったか」清月が言った。
「ええ、まあ何とか。それよりも総隊長、向井殺害未遂の犯人はドクターでした」
「うむ。やはりな」
「……知っていたんですか」
「ああ。疑ってはいた。だが、確証がなかった」
動きを封じられたドクターが口を開いた。
「くっくっく。おそらく総隊長殿は君を餌にして私を釣ろうとしたんだよ。それが再捜査を命じた本当の動機だろう。まんまと一杯食わされたよ。こうして犯行現場を押さえられてしまったことだしな。やれやれだ」
おそらく、ドクターの推測は当たっているだろう。乾は思った。自分はドクターをおびき出す囮にされたのだ。だが不思議と怒りは沸いてこなかった。
「危険な目に遭わせて済まなかった、乾。だが、君のおかげでようやく彼の尻尾をつかむことができた。ドクター、いや、デヴィッド陳、君を拘束する」
「……すでにそこまで把握していたとはね。恐れ入るよ」ドクターが言った。
「デヴィッド・チェン……?」乾は困惑した。
「乾、ドクターはAIではない。人間、小惑星出身のアップロード人格だ」
「なんだって」
人間の意識の機械へのアップロード。その技術はすでに実用化されていた。
五十年前、非侵襲式コネクトームスキャナーという画期的な装置が開発された。この装置により脳内の全シナプス接続のパターンをデータ化することが可能となり、精神のアップロードが実現した。
しかし、地球においてその技術は拒絶された。地球人たちは機械の上で走るアップロード人格を人間だとは認めなかった。生身の人間とアップロード後の人格の間にアイデンティティの連続性があるという科学者の主張にも疑念を抱いた。それらは単なるシミュレーションと見なされた。
だが、小惑星帯に住む人々は違う捉え方をした。彼らはアップロード人格を人間と認め、法的な権利を与えた。そして、彼らの多くが進んで生身の肉体を捨て、自らの意識を機械にアップロードした。古い人間性からの脱却と進歩の追求こそが彼らの教義だったからだ。今日では小惑星帯の人口は、生物学的に生きている人間よりもアップロード人格のほうがはるかに上回っているという。
「そういうことか。AIは人間を傷つけられないようにプログラムされているが、アップロード人格は違う。人間だから、その思考と行動にはいかなる制限も課されていない。だから向井や俺を攻撃できた」乾は言った。清月はうなずいた。
「彼は医療AIを装い、この船に密航していたのだ」清月が言った。
「やれやれ、密航者扱いときたか。私はこれまでこの探検計画の成功に人知れず尽力してきたのだよ。せめて158人目の隊員と呼んでもらいたいね」ドクターが言った。
「何が隊員だ、このウイルス野郎が。こんな奴さっさと削除してやりましょう」乾は言った。
「待て。まだ犯行動機も、彼がこの船に乗っていた目的も不明だ。私は裁判を開こうと考えている。その場でドクターに証言させてから彼の処遇を決定しようと思う。……わかったか、ドクター。お前は船内のネットから隔離された。もはやどこにも逃げられん。お前は一体何者で、何の目的でこの船に乗っていたのか。それを全員の前で説明してもらう」
「仕方ない。君たちにすべてを語ろう」ドクターは肩をすくめた。そして映像が消えた。
「船長室に行こう。手当が必要だ」乾は清月に支えられながら通路の先へと向かった。
「気ぃつけてください。その辺、俺のゲロが浮かんでますんで」乾は言った。
六時間後、裁判が始まった。ラウンジで開かれた裁判にはほとんどの隊員が出席した。
今回のドクターの逮捕劇の裏では、ソフトウェア担当の矢崎の活躍があった。乾に再捜査が命じられた直後、彼女は清月からネットワーク上でのドクターの監視を命じられた。そしてドクターを捕えるための準備を着々と進めていった。乾への攻撃を探知した直後、矢崎は全システムに対するドクターのアクセス権限を失効させて彼を隔離、拘束した。
ドクターの姿はラウンジの大型モニターに映し出されていた。今では自らの映像をオンオフする権限も剥奪されていた。だが、その様子に悄然としたところはなく、いつもと同じ冷笑的な態度を崩していなかった。
「氏名と生年月日、出身地を述べよ」清月がドクターに言った。
「デヴィッド・チェン。地球標準歴で2377年4月3日生まれ。小惑星エウノミアの技術開発系コロニー、蓬莱ADK2出身」
それを聞いて、傍聴する隊員たちはざわめいた。
「驚いたかね。私は魂なきAIなどではなく人間なのだよ。これまでドクターの仮面の下からずっと君たちを見守ってきたのだ」ドクターが言った。
「なぜ向井を殺そうとした」清月はドクターに質問した。
「簡単なことだ。彼が撤退を進言したからだ。しかも、その発言は君たちの間で一定の支持を集めた。危険な兆候だった。この計画を守るため、私は速やかに危険因子を排除する必要があった」ドクターが言った。
「だからって、何もこんなことをする必要なかったじゃないか!」橘が叫んだ。
「いや、向井の思想には伝染性があった。私の予測では彼の説得により最終的にこの惑星への植民が中止されることになる可能性は五十パーセントを超えた。到底容認できない確率だ。しかし、早期に彼を排除することでその可能性を二十八パーセントにまで減じられることがわかった。時間をかければ絶対に発覚しない方法で彼を排除することは可能だったが、事態は一刻を争った。そこであのような粗雑な手段によらなければならなかった」
「なぜそこまであさぎりへの入植にこだわる。もちろん、それはこの探検計画の一部だった。だが、計画当初より入植が不可能だと判明した場合の代替プランも用意されていた。殺人を犯してまで、君があさぎりへ入植を推し進めようとした理由はいったい何だ」清月が質問した。
「惑星あさぎりへの人類の入植の成功、それこそが私の真の任務だったからだ。私がドクターとして隊員たちの健康を維持し、非常時においては生命保護プログラムとして君たちを守ってきたのもその一環だ」
「その任務は誰に命じられたのだ」
「太陽系人類統合体の上層部だ」
太陽系人類統合体とは、無数に存在する小惑星人の都市国家や組織が参加する、ゆるやかにまとまった連合のことだ。その謎めいた組織の詳細は地球人にはあまり知られていなかった。
「なぜ太陽系人類統合体はあさぎりへの入植を望む」
「人類を多惑星の種にする。それこそが古より続く我々の最重要ミッションだからだ」ドクターは言った。