第80話 容疑者
「これはこれは。さぁどうぞ、お入りください」
意外なことに、近藤は笑顔で乾を迎えた。
近藤の腕の中では赤ん坊がスヤスヤと寝息を立てていた。息子の大樹だ。
「子供の世話ってほんとに大変なんですよ。でも、この寝顔を見ているとすべてが許せる、そんな気がしてきます」近藤が穏やかな表情で言った。先日の話し合いで見せた激しい態度が嘘のようだ。
近藤の怪我はまだ治りきってなかった。失った右耳と砕けた右手はまだ再建の途中で、顔の半分は再生したばかりの真新しいピンク色の皮膚で覆われていた。治療の邪魔になるためか伸ばしていた髭はきれいに剃られていた。
乾は単刀直入に聞くことにした。
「向井の事件を再捜査している。あの夜、あんたは何をしていた」
「あの後、わたしは村上さんや成瀬さんたちと一緒に食事をしました。その後、ラボで仕事を少しだけ片付けて、それからすぐに部屋に戻りました。夜中にこの子が夜泣きをしたので、一度、ミルクを作るために給湯室に行きました」
給湯室とラボの前には監視カメラがある。映像に記録が残っているので嘘をつけばすぐにわかる。おそらく本当のことを言っているのだろう。ラボに寄ったというのはいかにも怪しかった。向井の飲料ボトルに混入させるために薬品を取りに行った可能性がある。
「向井の部屋に行ったことはあるか」
「最近はありませんね」
本当だろうか。ドアに記録されているのはロック解除と開閉だけで、誰が室内に入ったかまでは知りようがなかった。近藤の発言を裏付けるには船内数箇所の監視カメラの記録を確認する必要があるだろう。
仮に近藤が犯人だったとして、事件に使った薬品をまだ持っている可能性は低い。だが一通り調べておく必要はある。乾は総隊長から与えられた捜査権限で、本人立ち会いの下、部屋の中を隅々まで調べた。
当然、薬品は出てこなかった。
「向井のことはどう思っていた。憎んでいたんじゃないのか。あの時、あさぎりを捨てて撤退する人間は許せないと言ったよな」
「ああ、そのことですね……。疑われるのも仕方がありませんね。確かに私はそう叫びました。まったく恥ずかしい限りです。妻を亡くして以降、私は感情を抑えるのが難しくなってしまいました。些細なきっかけで感情がどんどんエスカレートし、心にもないことを叫んでしまうのです。自分がどう見られているかはわかっているつもりです。ですが、止められないのです。恒星船に戻って以来、ドクターのセラピーも受け始めました」
乾は考えた。自分の感情を抑制できない。つまり、カッとなって殺人に及ぶ可能性はきわめて高いと思える。だが、それは突然殴りかかったり、刃物で刺したりといった突発的で短絡的なものになるはずだ。薬品を用いた計画的な殺人とは結びつかなかった。
「どんなセラピーを受けているんだ」
「それは向井さんの事件と何か関係が?」
「あるかもしれない。今は少しでも情報を集めたい。それに、あんたにかかってる嫌疑を晴らすことになるかも知れないしな」
「わかりました」近藤はしぶしぶ話し始めた。
近藤の受けているセラピーは、カウンセリングと投薬を併用したものだった。近藤の症状は脳の器質的病変ではなく、愛する者を失ったことによるPTSDだったので、万能医療機を使った脳内マイクロ手術では治療することができなかった。
ドクターから処方されている薬を見せてもらった。それは向精神薬の一種だった。
「これを飲むと気分が落ちつくのですが、やたらと喉が渇くんです」
これを聞いて、乾の脳裏にある考えが浮かんだ。
近藤への聴取はこれくらいで十分だろう。そろそろ切り上げよう。
「捜査への協力、感謝する。プライバシーに関わることをいろいろ聞いて悪かったな。この事は当然誰にも話さないと約束する。それに、PTSDの治療は俺も受けたことがある」
「えっ、乾さんもですか?」
「そうだ。ずっと前、民間軍事会社で働いてた時だ。仲間たちを失ったことがきっかけで精神がまいってしまってな。みんな家族同然、いやそれ以上の仲だった。それで傭兵から足を洗うことにした。あれはつらい経験だった。だから、あんたの気持ちもある程度は理解できるつもりだ」
「そうでしたか……」
近藤の抱く赤ん坊が目を覚まし、ぐずり始めた。
「起こしてしまったようだな。そろそろ失礼させてもらうよ」
「あの」近藤は乾を呼び止めた。
「なんだ」
「向井さんをあんな目に遭わせた奴を、絶対に見つけ出して下さい。あの人はとても素晴らしい方でした」近藤は言った。
自室に戻った乾は、これまでに集まった証拠を総合して検討した。
乾の頭の中で、一つの可能性が形をなし始めていた。
そのカギを握るのは近藤のセラピーと、向井の部屋のくず入れから回収した小さなゴミだった。乾はそれをポケットから取り出した。
プラスチック製の錠剤の包装。裏面のアルミ箔には「栄養補助サプリメント0052」と印刷されていた。
隊員たちのなかには健康のためサプリメントを摂取している者がいた。どうやら向井もその一人だったようだ。検索して成分を調べたが、各種ビタミンやミネラルばかりで、特別変わったものは配合されていなかった。
だが、向井の部屋で見つかったその包装の中身は本当にサプリメントだったのだろうか。
一方、近藤は向精神薬を処方されていた。その薬は飲みすぎると意識がもうろうとし、なおかつ激しい喉の渇きに襲われる副作用があった。だから服用が許されているのは一回に一錠だけだった。
もし向井のサプリメントがその向精神薬にすり替えられていたとしたら。そして、飲料水ボトルの中身が標本保存用の溶媒にひそかに入れ替えられていたら……。
犯行の数時間前、何者かが向井の部屋に侵入した。そしてサプリメントと向精神薬をすり替えた。そして飲料水ボトルの中に薬品に入れた。その後、向井はいつものサプリメントだと思い込んだまま数錠の向精神薬を服用した。向井は意識がもうろうとし、同時に激しい喉の渇きに襲われただろう。そして手近にあった飲料水ボトルの中身をがぶ飲みした。中身が毒性の強い薬品だと知らずに……。
あくまで仮説に過ぎない。それが事実だと証明するにはさらに証拠を積み上げる必要がある。
乾は牧野の部屋を訪れた。
包装の中に入っていた成分を分析してもらうためだ。目では見えないが、おそらく包装の内側に微量の成分が付着して残っているはずだ。それがサプリメントなのか、それとも乾の推測どおり向精神薬なのかを判定するのだ。牧野の話では、ラボの成分分析装置を使えばすぐに判別できるという。
一時間後に牧野から連絡が入った。
やはり包装の内側から検出されたのは向精神薬の成分だった。
さらに、乾は監視カメラの映像を確認した。その結果、恒星船に回収されて以降、近藤は向井の部屋に至る経路を通っていないことが判明した。近藤は真実を話していた。
では、いったい誰が犯人なのか。
乾は船内の監視カメラの映像を集め、過去数日間の船内の人の動きを追うことにした。向井の部屋に出入りした可能性のある人物をすべて洗い出すのだ。だが、さすがにこれは乾一人の力では手が余った。
乾は清月総隊長に行動履歴解析AIの使用の許可を求めた。隊員たちのプライバシーの侵害に繋がるので、その使用はきびしく制限され、総隊長の許可が必要だった。清月はその使用を了承した。
行動履歴を解析した結果、浮かび上がった人物はたった一名。橘だった。
しかし、彼女が犯人だとは考えにくい。薬品や向精神薬を入手できないからだ。近藤から入手した可能性はあるか。いや、橘と近藤の間に結びつきはない。そもそも橘には向井を殺害しようとする動機がない。
他に誰かいないか。何か見落としていないか。乾は必死に考えた。だが、条件に該当する人間は誰もいなかった。順調に進んでいるかに見えた捜査は壁に突き当たった。
その時、乾の部屋の外で軽いチャイム音がした。
雑用ロボットだ。
雑用ロボットは船内を自動巡回して、清掃や日用品の補充、ゴミの回収などのサービスを行っている。恒星船だけでなく、地球の日常生活でも百年以上昔から広く普及しており、今日では大半の人間はその存在を意識することすらほとんどなくなっていた。
ロボットは個室の管理も行っていた。ドアプレートに入室禁止タグを付けておかないかぎり、一日に一回、部屋を訪問しゴミの回収や飲料水の補給を自動的に行ってくれる。
「そうか……こいつか」
乾は部屋に入ってきた四角い箱型のロボットを見ながらつぶやいた。
確かに容疑者の条件に該当する人間はいない。だが、人間以外ならいる。答えは最初から明白だった。
飲料水のボトルに薬品を入れ、サプリメントと向精神薬をすり替えたのは雑用ロボットだ。これなら誰にも怪しまれずに向井の部屋に入ることができる。犯人はロボットを操作し犯行におよんだのだ。ハッキング技術をもつ者のしわざに違いない。
ハッキングならば雑用ロボットに外部からアクセスした形跡が残っているはずだ。
乾はソフトウェア担当の三浦を呼んで協力を求めた。
この男も雑用ロボットをハッキングしようと思えばできるだろうが、犯人である可能性は薄いだろうと乾は判断した。
三浦は雑用ロボットを一時停止させると、外部端子に端末を接続して解析をはじめた。
「何か記録が残っているか」三浦の作業を覗き込みながら乾は聞いた。
「アクセスログは残っていませんね。でも、削除を実行した痕跡があります。この削除命令がどこから来ているのか。……何台もの機器を経由して発信元を特定しにくくしていますが、そんなもので誤魔化される僕じゃないですよ」三浦は一人でつぶやきながら解析作業を続けた。
やがて、三浦は端末から顔を上げた。
「特定しました。でも、これ変です」
「何が変なんだ」
「発信元が医務室になっています」
「どういうことだ」
「この操作を実行したのは医療AIのドクターです」
「なんだと」
まさか、ドクターが犯人なのか。
だが、そう考えると辻褄が合う。
向精神薬はドクターによって厳密に管理されている。ナノ合成機での製造も禁止されている。隊員が入手しようと思えば、ドクターの診断を受けて治療目的で処方されるしかない。
向精神薬だけでなく、サプリメントを提供しているのもドクターだ。向井はドクターから手渡されたからこそ疑うことなくサプリメントを服用したに違いない。つまり、向井がドクターからサプリメントを受け取った段階で、その中身はすでに向精神薬だったのだ。
だが、本来すべてのAIは人間を傷つけないようにプログラムされている。
何者かにドクターがハッキングされている可能性はあるだろうか。
しかし、単純な雑用ロボットなどとは異なりドクターをハッキングするのは高度な専門技術を持つ者でも困難、いや、事実上不可能だろう。それが三浦の見解だった。
「ドクターを作成したのはこの恒星船を建造したのと同じく小惑星人です。連中は地球よりも数十年は進んだテクノロジーを持っています。地球のソフトウェア技術者が束になってかかっても適わないでしょう」三浦は言った。
プログラムのエラーか、それともハッキングか。
いずれにせよドクターは異常をきたしている。
清月総隊長に急いで報告する必要がある。乾は自室を出て船長室に向かった。
乾が通路を移動していたときだった。
通路の前方の空間がぼんやりとかすみ、そこに人の姿が顕れた。
「えらく急いでいるようだね、どこに行くつもりかな」
古風な眼鏡のレンズをきらめかせ、ドクターが言った。