第79話 捜査
万能医療機の蘇生処置で、向井は息を吹き返した。だが、長時間の血流停止で彼の脳は深刻なダメージを負っていた。
「本当に残念だ。彼の人格と記憶が元に戻る可能性はかぎりなく低いだろう」
それがドクターが下した結論だった。
向井の前頭葉および海馬のニューロンは広範囲で死滅していた。失われたニューロンを再生するため神経芽細胞が移植されたが、そこから新たに形成される神経回路のパターンが元と同じになる保証はまったくなかった。
向井という一人の精力的な絶滅生物学者は死んだ。彼の肉体は生きていたが、それはもはや抜け殻だった。彼はラウンジのカウチに体を固定されて、宙の一点をぼんやりと見つめているだけだった。
向井の端末から遺書めいた書置きが見つかった。
その中で彼は「この失敗に終わった探検」と、絶滅を繰り返す人類の性に絶望していた。そして、その絶望は暗黒兵器によって「偉大なる種族」が次々に惨殺されるのを見て頂点に達し、これ以上悲惨な光景を見ることに耐えられないので自ら死を選ぶことにしたと述べていた。
端末はロックがかかっており、この文章は彼本人が書いたものと断定された。
向井が自殺に使ったのは彼が研究に使っていた薬品だった。
致死量を上回る薬品を一気に口から摂取したことで彼は瞬時に昏睡状態に陥った。そして嘔吐物が気道に詰まって窒息し、心肺停止状態になった。発見されるまで二時間以上、彼はその状態で室内を漂っていた。
これらの証拠から、今回の事件は向井の自殺未遂で間違いないと判定された。
しかし、その判定に納得していない人物がいた。
それは他でもない、清月総隊長だった。
清月はある隊員を船長室に呼び出し、再捜査を命じることにした。
「あの向井が自殺するとは、私にはどうしても信じられないのだ。そこで、君にはこの件をもう一度よく調べ直してもらいたい」清月は言った。
「了解しました」安全保障班の乾が言った。
安全保障班の任務は戦闘や防衛だけでない。その範疇には警察活動や犯罪捜査も含まれていた。乾もそのことは承知していたが、出発してからのこの九年間、隊内では窃盗や性犯罪などの軽犯罪さえ一度も起きていなかった。犯罪捜査など今回が初めてだった。慣れない仕事に、乾は内心で少し戸惑っていた。
「昨日の議論の後も、向井はまだ私に反論する気だった。その彼がたった数時間後に自ら命を絶つとは。あまりにも不自然すぎるとは思わないか」清月は言った。
「たしかに、向井らしくないですよね。あれは大人しく自殺なんかするタマなんかじゃない。それどころか、あさぎりの生物を守るためなら、恒星船を爆破するくらいの過激な事をやりかねなかったと思います」乾が言った。清月もうなずいた。
「ところで、どうして俺なんです。井関さんや平岡ではなく」乾は聞いた。
「安全保障班の中で、君がもっとも適任だと思ってね。平岡には悪いが彼は適性がない。井関や橘は捜査の過程で容疑者になる可能性もある」
乾は驚いた。橘については理解できる。彼女は向井と交際していたのだ。痴情のもつれという可能性は排除できない。だが、なぜ井関班長が容疑者になるのだ。
「さっき君が言った通りだ。向井は過激な行動に走る危険性があった」清月が言った。
「……なるほど、そこで隊を守るため、先手を打って井関さんが始末した、と」
「その通りだ。実際、彼は地球で暗殺の訓練も受けていた。犯人である可能性はゼロではない」
たしかに井関班長なら必要とあらば仲間でも冷徹に殺してのけるだろう。
「君も向井の危険性は認識していたようだな。だが、人一倍仲間思いの君が向井を殺すのは考えられない。あくまで私の勘だが、間違ってはいないはずだ。そうだろう」清月は乾の目を見て言った。
「ええ、俺は絶対に仲間を殺したりはしない。どんな理由があろうと、そんな事は絶対に許せない。必ず犯人を見つけ出して裁きを受けさせてやりますよ」
「うむ。期待している。向井の無念を晴らしてやってくれ」
総隊長のもとを辞した乾はさっそく捜査を開始した。
最初にとりかかったのは関係者への聞き込みだった。まずは第一発見者の橘からだ。
橘はラウンジにいて、物言わぬ向井に付き添っていた。
向井の目からはかつての輝きや意思の強さはすっかり失われ、しまりなく開いた口の周りはよだれで濡れていた。乾が声をかけても、まったく反応が返ってこなかった。
橘が口を開いた。
「……ドクターの話では、ニューロンが再生するまで何か月もこんな状態だそうだ。でも、いろんな刺激を与えればそれだけ回復が早まるらしい。だからこうやって向井さんの手を握ったり、話しかけたり、彼が好きだった動物の映像を見せたりしている」彼女は向井の手を撫でた。彼の日焼けして節くれ立った手はピクリとも動かなかった。
「悪いが、あの夜のことを教えてほしい」乾は言った。
「もう詳しく話したんだけど……」橘はそう言ったものの、素直に応じてくれた。
あの夜、橘は向井の部屋を一人で訪れた。その時間に彼と会う約束をしていたのだ。
向井の部屋の生体認証システムには彼女のデータも登録されていたので、彼女はドアを開けることができた。そして部屋の中で意識を失った向井を発見したのだった。
その日の早い時間に一緒に食事をしたとき、向井は落ち込んでなどいなかったらしい。それどころか、清月や他の撤退反対派と議論し、必ず説得してやろうと息巻いていたという。
「向井さんはみんなを説得できる自信があった。全然絶望なんかしていなかった。あんなの絶対おかしい」橘は言った。
「向井の部屋を調べさせてほしい」
乾は橘とともに向井の個室に向かった。他の乗組員用個室と変わらない小さな部屋だった。壁の一面に固定された寝袋と、収納戸棚。モニター。
壁面のパネルを操作し、ドアロックの解除履歴を調べた。あの夜、向井が入室し、その後、橘が入室するまでの三時間、ロックは一度も解除されていなかった。向井が薬品を飲んだ推定時刻、部屋は密室だったことになる。
戸棚を開けてみると、中は本やノートがぎっしり詰まっていた。
乾はそのうち一冊を取り出してぱらぱらとめくった。あさぎりで見つかった様々な生物のスケッチが鉛筆で描かれていた。オニダイダラの頭部、居住区に侵入した鳥型生物、そしてギガバシレウスなど、乾のよく知っている生物の絵もそこにはあった。どれも描写は巧みで、特徴を的確にとらえ生き生きと描かれていた。
「これは向井が描いたのか」
「そう。彼は絵が上手だった」
向井がこんな特技を持っていたとは知らなかった。別のスケッチブックには、隊員たちの姿や居住区の日常の一コマが描かれていた。髪を短く刈った女性の絵が何枚か。橘だ。乾はスケッチブックを戸棚に戻した。
端末はやはりパスワードでロックがかかっていて乾には開けられなかった。ソフトウェア担当の三浦に協力してもらい、後で中身を調べさせてもらおう。
くず入れの中を確認する。小さなゴミがいくつか残っているだけだ。ふと、ある物が目にとまった。後で詳しく調べるため乾はそれを回収した。
「協力感謝する。向井、はやく良くなるといいな」
「ありがとう……」橘が言った。しかし、彼女はその望みが限りなく薄いことを知っていた。
次に乾が向かったのは医務室だった。向井の診断と治療にあたったドクターに話を聞くためだ。
「状況的に自殺未遂以外の可能性は低いと思うが、いいでしょう。お話ししますよ」ホロ映像のドクターが言った。
ドクターの話では、向井の血液から薬品の代謝産物が検出されたらしい。それは生物の液浸標本に使われる特殊な有機溶剤だった。ホルマリンやアルコールよりも保存性に優れ、瞬間的に組織に浸透して半永久的に有機物の変質を防ぐらしい。だが、毒性が強く取り扱いには注意が必要だった。
「そこそも、そんな薬品どこから入手したんだ。この船の実験室か」乾は聞いた。
「いや。最近、恒星船のラボの薬品庫から誰かが出庫した形跡は一切なかった。気になって私も調べたが、居住区にあった研究棟の薬品管理記録が見つかった。研究棟のネットワークは恒星船のサーバを利用していたからね。ネオビーグル号で南方探検に出発する直前、向井がまとまった量を出庫していたよ。おそらく、その時の残りを個人的に所持していたのだろう」
乾はその薬品を見せてもらった。
見た目は水と変わらない無色透明の液体。匂いもない。向井が発見されたとき、室内を漂っていた飲料容器の中にこの薬品が残っていたという。
「向井以外にこの薬品を入手した可能性がある人物は思い当たるか」
「ネオビーグル号で南方探検に参加した者全員かな。特に生物学者たちなら取り扱いにも詳しいし、向井から譲り受けることも可能だっただろう」
「該当するのはたしか、牧野、高梁、そして近藤か」
「そういう事になる。だが、私としては向井の事件はほぼ百パーセント自殺だと確信しているよ。人間の精神というのは複雑だからね。外から見える部分と本人の心の内側が必ずしも一致するとは限らないし、精神状態が突発的に予測不能な変化を示すこともある。君も人間だから思い当たる節が多々あるんじゃないかね。向井はタフで行動的だったが、一面として脆い部分もあった。過去の健康診断での心理分析結果もそれを裏付けている。医師として守秘義務があるから詳しく語るわけにはいかないがね」ドクターが言った。
そんなもんだろうか。乾は釈然としなかった。
「他に何か質問は?」
乾はドクターにあることを確認しようとした。だが、ふとそれを思い止まった。
「何か気になることがあるのかね。遠慮はいらないよ」
「……いや、いい。何でもない」
「まあいい。いつでも声をかけてくれたまえ」ドクターが言った。
乾は医務室を去った。その背後で、空間に投影されたドクターの映像がフッと消えた。
次に乾は近藤のもとに向かった。
これまでの証拠を総合して推測すると、一番怪しいのは近藤だった。
撤退をめぐる議論では向井の主張に真っ向から反対し、感情的な態度を見せた。そして、犯行に使われた薬品を入手し、使用できる立場にもいた。動機も手段も揃っている。
しかし、向井は密室状態の自室で薬品を飲んでいた。近藤がその時、向井の部屋にいた可能性は低い。
何らかのトリックがあるのだろうか。