第71話 臆病者と裏切者
巨竜は激怒した。
触手のようにうねる七本の尾部の先端をくるりと前方に向けたかと思うと、噴射口から高温ガスを迸らせた。背部外殻の上に残っていた着生植物がたちまち燃え上がった。サシツルギは炎を避けながら背部外殻の上を逃げ回っていたが、炎と煙に巻かれて姿が見えなくなった。ギガバシレウスはなおも炎を振りまき続けた。
「やばいぞ。早く逃げないと俺たちも焼き殺される」伊藤が言った。
「私は残って戦います」ヨヴァルトが言った。
「はぁ、おまえ何言ってんだ」伊藤が驚いた。
「サシツルギの一撃が流れを変えました。あれでわずかながら勝機が見えてきました。もしかしたら奴を倒せるかもしれません」ヨヴァルトが言った。
「どういうことだ。説明しろ」向井が言った。
「さっき、あいつの目をサシツルギが貫きました。あの傷は確実に眼球内にまで届いています。その傷口から近藤さんの毒を押し込めば良いのです」ヨヴァルトが言った。
「だが、あいつはもう頭を高く上げてしまった。眼までどうやって毒を運ぶ」向井が聞いた。
「そうだ、防衛ドローンに運ばせれば!」堀口が言った。
「残念ながら防衛ドローンはネオビーグル号の防御に回してしまった」向井が言った。
「じゃあ、北方群島の調査に使った無人機は……」
向井は無言で首を左右に振った。調査に使った無人機は爆風と衝撃波で破壊されガラクタと化していた。
堀口はため息をついた。
「残っている飛行機械は戦闘用ヒト型重機だけです。……平岡さん」ヨヴァルトは平岡を呼び止めた。
「な、何だよ」
「私に協力して、戦闘用ヒト型重機を飛ばしてもらえませんか。今、あれを操縦できるのはあなただけなんです」
「断る。絶対嫌だ。俺は逃げさせてもらうからな」平岡は背を向けて去っていこうとした。
その手首をヨヴァルトの力強い手がしっかりと握りしめた。
「おい、離せよ。痛いだろ」抗議する平岡の耳元に素早く口を寄せ、ヨヴァルトは何事かをつぶやいた。
平岡は目を見開いた。
十秒後。平岡は大きくため息をついた。
「…………くそっ。クソッタレが。畜生」平岡が小声で毒づいた。
「……」ヨヴァルトは無言でそれを見つめる。
「わかったよ。仕方ない、やってやる。……向井さん、あんたたちは先に脱出してくれ。俺とヨヴァルトは後から行く」平岡はほとんどヤケクソ気味に言い放った。だが、その表情はどこか晴れやかに見えた。
平岡は村の奥に駐機していたヒト型重機に乗り込み起動させた。そしてヨヴァルトはそのアームの上によじ登った。
「行くぞ。落っこちるんじゃねぇぞ」平岡が言った。
「了解した」ヨヴァルトは返事した。彼は操縦席の平岡と通信するためにマイクを装着していた。
戦闘用ヒト型重機は上空に舞い上がった。
平岡はVRゴーグルを通して周囲の景色を見た。
眼下に巨大なオニダイダラの全体像が一望のもとに見渡せた。向井たちが首筋に沿って一列になって歩いているのが小さく見える。
背部外殻は放射状に大きくひび割れ、爪でズタズタに引き裂かれ、剥がされ、焼かれていた。着生植物の柔らかい緑で覆われていたかつての面影はなかった。
「……酷いな」平岡はつぶやいた。
そして、傷ついたオニダイダラの上に大きく翼を広げ、超巨大生物ギガバシレウスが鎮座していた。
平岡の動悸が激しくなる。
もう一体のギガバシレウス、ニーズヘッグに居住区が滅ぼされた日の記憶が蘇る。死に物狂いで攻撃する仲間たちのヒト型重機を、あの邪竜はまるで煩わしい蠅でも叩き潰すようにして破壊していった。恐怖で何もできず凍り付いたように宙を漂う平岡の機を、あいつは明らかに嘲りのこもった視線で一瞥し、そして背を向けた。破壊する価値さえない存在だと言わんばかりの態度だった。
平岡はその後頭部にミサイルを撃ち込んでやろうと思った。だが、指が動かなかった。どうしても発射ボタンを押せなかった。代わりに平岡は邪竜に背を向け、その場から逃げ去った。
戦闘用ヒト型重機は後ろから回り込むようにしてギガバシレウス、テュポーンに静かに接近していく。
平岡の全身がわななきだした。顔面を滝のように冷や汗が流れ落ちた。
彼はヨヴァルトに言われた言葉を思い出した。
「臆病者のあなたと、裏切り者の私。今こそみんなからの信頼を取り戻す絶好のチャンスです。それに、あなたが誰よりも竜王を憎んでいるのはわかってます。一緒にぶちのめしてやりましょう」
あんな言葉に乗ってしまった自分が馬鹿だった。彼は今、心の底から後悔していた。
「進路がぶれています。操縦に集中してください」マイクからヨヴァルトの声が聞こえた。
「う、うるせぇな」平岡は言った。
こんなのは狂気の沙汰だ。今ならまだ逃げられるかも……。
だがその時、彼の心を読んだかのようにヨヴァルトが言った。
「もし逃げ出したら、外部から操縦席のハッチを強制開放し、その場であなたを殺します。戦って死ぬか、逃げ出して死ぬか、好きな方を選んで下さい」ヨヴァルトは何気ない口調でさらりと言ってのけた。
平岡はぞっとした。あいつなら本当にやりかねない。
「な、何言ってんだよ、逃げるつもりなんてねぇよ」
「なら良かった。どのみち、この作戦が失敗すれば我々は死ぬでしょう。今は任務に集中し、作戦の成功確率を少しでも上げて下さい。それが生存への唯一の道です」
「り、了解した」
そうだ。俺はただ操縦に集中すればいい。何も考えるな。後はヨヴァルトに任せればいい。
戦闘用ヒト型重機は少しずつ巨竜に接近していった。間近で見るそれは信じられないほど大きかった。ヒト型重機は巨竜の広大な白い背中に小さな影を落としながら飛んでいく。
その後ろ脚や腰のあたりに何か小さな物が何本も刺さっていた。平岡はその正体に気づいた。あれはサソリ型生物尾の剣だ。折れた剣が刺さったままになっているのだ。結局、あいつらも傷一つ付けられなかったわけじゃないんだ。
ギガバシレウスの頭部が目前に迫ってきた。明らかに奴はこちらの存在を把握していた。攻撃してくるか、それとも無視するのか。目標までの距離は百メートル、五十メートル……。
その時、巨竜の頭部がくるりと振り返り、まっすぐにこちらを向いた。
そして上下左右に大きく口を開き、鋭い歯がびっしり並ぶ巨大な口腔をむき出しにした。
丸呑みにされる。
「緊急回避。しっかりつかまってろ!」平岡は叫んだ。
平岡はヒト型重機を左方向に急加速させ、ギガバシレウスの頭部の側方に回り込んだ。
次の瞬間、寸前まで平岡のいた空間でギガバシレウスの四つの顎が音を立てて嚙み合わされた。
「……危なかった」平岡は額の汗をぬぐいながら言った。
ヒト型重機のすぐ横を巨竜のばかでかい横顔が流れていく。前後に細長いワニのような頭部だけで五十メートルは超えるだろう。これに比べたら自分たちはまるで蚊だと平岡は思った。
「目標の個眼まであと少しです。速度を緩めてください」ヨヴァルトが言った。
「了解」
ヨヴァルトは強風吹きすさぶヒト型重機のアームの上でその瞬間に備えていた。そこは目も眩むような高さだったが、恐怖心を抑制した彼は完全に平静だった。絶対にやり遂げる自信があった。
背嚢から金属容器を取り出し、ふたを外す。
中には白い粉末。これが竜を殺す毒だ。
あと十メートル、五メートル、三メートル。ギガバシレウスの傷ついた個眼が迫ってくる。
眼はヒト型重機よりも大きかった。巨大な皿のような眼は表面のレンズに放射状の亀裂が走り中央に穴が開いていた。傷には黄色い体液がにじみ出て凝固しかけていた。亀裂の向こうから緑灰色のどんより濁った瞳がこちらを睨んでいた。
眼を通過する瞬間、ヨヴァルトは右腕を伸ばし眼の中に毒の容器を押し込んだ。そして左腕に握る黒い槍で眼球の奥深くまで容器を突き込んだ。金属容器が潰れる感触があった。これで毒は容器から押し出され、体内に注入されたはずだ。
「任務完了!」ヨヴァルトが言った。
「よし、全速で離脱する」平岡が言った。
巨竜は一目散に逃げ去るヒト型重機を追ってくることはなかった。
平岡はギガバシレウスから距離を置いて飛びながらその様子を見守った。
無事に毒を打ち込むことはできたが、巨竜に変化は見られなかった。
「やっぱり効かなかったのか」平岡は言った。
「効果を発揮するまで時間がかかるのかもしれません。もう少し様子を見ましょう」ヨヴァルトが言った。
だが、さらに待っても毒が効いている兆候は一向に現れなかった。
それどころか、ギガバシレウスは動きはじめた。
背部外殻の前方へとにじり寄り、下に向かって首を伸ばした。その先にいるのは徒歩でオニダイダラから脱出しようとしている仲間たちだった。パニックを起こした彼らは蟻のように逃げまどっていた。
「くそっ、何てことだ」平岡は呻いた。
気づいた時には戦闘用ヒト型重機を仲間に襲いかかる巨竜に向かって急行させていた。
全武器システムを立ち上げる。高出力レーザー、重機関銃、ミサイル、全て異常なし。全弾発射可能。
今度こそ俺は戦う。逃げたりなんかしない。たとえ奴に通じなかったとしても。
「悪かったな、ヨヴァルト。巻き込んじまって」
「いいえ、そもそも私が言い出したことです。付き合いましょう」
平岡はミサイルの発射ボタンに手をかけた。
その時だった。
ギガバシレウスの動きがぴたりと止まった。口を半開きにしたまま、動作の途中で凍り付いたかのようにじっと動かなくなった。
巨竜の全身に震えが走った。全身の鱗がざわざわと蠢いてささくれ立ち、口と眼から黒緑色の膿汁のようなものが流れ出た。
永遠に思えた十数秒後、その姿勢のまま巨竜の体が少しずつ横に傾き始めた。
「まさか……毒が効きはじめたのか」平岡はつぶやいた。
わずかだった傾きは時間が経つにつれ加速度的に大きくなり、ついにその巨体はオニダイダラの背部外殻の上から横向きにずれ落ちるようにして地上に崩れ落ちた。落下の衝撃でまたもや大地は波打ち、周囲に波紋を広げた。
ギガバシレウスの白い巨体は満身創痍のオニダイダラに寄り添うように長々と横たわった。
「え……。た、倒した、のか?」平岡が言った。
「は、はは。はははははは。やった!やりましたよ!」ヨヴァルトは歓喜していた。
「俺が、俺たちがやったの?嘘だろ……」平岡は喜びよりも戸惑いの方が大きかった。
「そうです。私たちみんなの力です。人間だけではない、サソリ型生物やサシツルギなど、オニダイダラに寄り添って生きる小さな者たちの力が一つに合わさり、巨大な敵を倒したのです。そして何より、平岡さん、あなたの勇気のおかげです」ヨヴァルトは言った。
「…………」平岡は沈黙していた。
「さあ、早くみんなの所に向かいましょう」ヨヴァルトは言った。
「……そ、そうだったな。了解した」平岡は鼻をすすりながら言った。
戦闘用ヒト型重機は仲間たちのいるオニダイダラの頭部に向かってゆっくりと降下していった。
オニダイダラの頭の上で男たちは手を振り歓声を上げていた。
着陸したヒト型重機から降りた二人を仲間たちはいっせいに取り囲んだ。
「二人ともよくやってくれた」向井が言った。
「すげーなおい。まさか本当にあいつを倒しちまうとはよ」伊藤が言った。
担架に乗せられた近藤が絞り出すようにして言った。
「……よかった。あの毒が…ちゃんと効いて。でも、あそこまで…劇的な効果は……想定外でした」
「サソリ型生物の剣が刺さっているのが見えました。あの生物の毒と組み合わさり相乗効果になったのかもしれません」ヨヴァルトが言った。
「平岡さん……すごいです。まさに英雄ですよ」三浦が涙ぐみながら言った。
「はは、やめてくれ。こういうのは苦手なんだよな」平岡は言った。