第70話 小さき者たちの戦い
二体の超巨大生物の激闘で周囲の土地は完全に蹂躙されていた。
森は泥濘と化し、空は舞い上がった塵埃で灰色にかすみ、昇り始めた太陽は塵の向こうから黄色いぼんやりとした光を投げかけていた。
その弱々しい光もギガバシレウスの巨大な翼に遮られ、オニダイダラの上は影に包まれていた。
その影の中、サソリ型生物たちはギガバシレウス目指してオニダイダラの外殻を登っていった。おびえる様子は微塵もなく、自分の百倍もある巨大な敵に敢然と向かっていった。
そのうちの一体が牧野のそばを通り過ぎた。全長は十メートル以上。強力なハサミ状の付属肢を前方に突き出し、十三対の多脚を整然と波打たせるように動かして進んでいく。全身の甲殻には毬栗のように鋭い棘がびっしりと生え、長い尻尾の先には鋭い剣のような武器が突き出していた。まさに生きた重戦車だった。
牧野はサソリ型生物たちの向かう先、背部外殻の上方に目を転じた。
ギガバシレウスはオニダイダラの外殻を引きはがしにかかっていた。
差し渡し三十メートルもある鉤爪が外殻の割れ目に食い込む。巨竜が力を込めると分厚い外殻がべりべりと音を立てて皮下組織から剥がれた。やがて幅五十メートルの外殻の断片が胴体から完全に切り離された。巨竜はそれを無造作に投げ捨てた。外殻は放物線を描いて落下し、地響きを立てて地面に激突した。
むき出しになった赤い肉に巨竜は大きく口を開けてかぶりついた。
その時、うめき声が聞こえた。向井だった。頭を打ったらしく額と鼻から出血していた。
「大丈夫ですか」牧野は向井に歩み寄り、助け起こした。
「ああ、何とか生きてるよ。他の皆はどうだ」
牧野は生存者たちのいる方を見た。
多くの者はすでに立ち上がり、頭上にのしかかる巨大なギガバシレウスの姿を怯えた目で見ていた。座り込んで呆然としている者もいる。横たわったまま動かない者が三人いた。
「俺たち、今度こそ終わりだな」諦観した口調で堀口が言った。
「向井さん、どうする。このままここにいても食われるのを待つだけだぞ」伊藤が言った。
「脱出しましょう。オニダイダラが動かない今なら、地上まで降りていくことができるかもしれません」ヨヴァルトが言った。
「おいおい、この急斜面を降りるのか。無理だろ」下を見下ろして平岡が言った。地上までは百メートル以上ある。しかしゴツゴツした外殻には手掛かりになりそうな突起や出っ張りがたくさんあった。
「恐怖心さえ克服できれば可能でしょう。私は降ります。下山に最適なルートがないか探します」ヨヴァルトは歩き出した。彼はあの大騒動の後でも傷一つ負っていなかった。
「……そうだな。奴がオニダイダラに気を取られている今がチャンスかもしれん。脱出しよう」向井は決断した。
男たちは脱出の準備に取り掛かった。衝撃でばらばらになった小屋の残骸からロープや動けない重傷者を運ぶための担架の材料を手分けして探しはじめた。
作業の合間、牧野はオニダイダラの頭部を見た。
それはだらりと力なく地面に横たわっていた。まだ息絶えてはいない証拠に、巨大な喉があえぐように上下していた。
自分たちは彼女を見捨てて逃げるのか。自分たち人間のせいで戦いに巻き込まれ、瀕死の重傷を負ったというのに。これまで庇護してもらってきたのに冷たすぎないか。牧野は釈然としない思いを抱いた。これではまるで宿主の死を察知して慌てて逃げ出す寄生虫同然ではないか。だが、現実的に考えて、死にゆく彼女のためにできることは何もなかった。テクノロジーの恩恵がなければ、人間とはなんとちっぽけで無力な存在なのだろう。
「ごめんな。これまで世話になったのにな」牧野はつぶやいた。
それに対して、サソリ型生物たちは勇猛だった。
彼らは愚直なまでに共生生物としての務めを果たそうとしていた。
彼らは集団でギガバシレウスの後足から体の上に這い上がり、尾端の剣を巨竜の外皮に突き立てようとしていた。だが硬い外皮はその攻撃を一切受け付けなかった。
それでも諦めることなく、彼らは繰り返し攻め立て続けた。
ギガバシレウスはオニダイダラの肉に歯を立てながら、ときおり煩わしげに巨大な鉤爪をふるってサソリ型生物を体から叩き落した。鉤爪の一撃を受けたサソリ型生物は甲殻が潰れ、ハサミが千切れた。それでも彼らは攻撃をやめなかった。体が動く限り何度でも何度でも這い上がり、巨竜に挑み続けた。その様は狂気さえ感じさせるものがあった。
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、巨竜は首を伸ばすと体にしがみつくサソリ型生物を口に咥え、四つの顎で嚙み潰した。牧野は思わず目を背けた。だが、硬い甲殻が嚙み砕かれる音ははっきりと耳に届いた。
「牧野、行くぞ」向井が牧野の肩を叩いて言った。彼は包帯代わりに頭にボロ布を巻いていた。布は早くも血に染まっていた。
男たちはヨヴァルトに先導され、脱出ルートに移動し始めた。
ヨヴァルトが見つけた脱出ルートは背部外殻からオニダイダラの首筋に沿って降りて行く経路だった。この経路だと、途中までスロープのように地面に向かって傾斜する頸部の上を歩いていくことができるので最も安全だった。だがその道は最後に巨大な岩塊のような頭部で行き止まりになっていた。頭部は切り立っているので、最後の三十メートルほどはロープにぶら下がって崖のようなオニダイダラの横顔を懸垂下降していく必要があるだろう。
その時、列の後方にいた伊藤が叫んだ。
「おい、ここで誰か倒れてるぞ。……近藤さんじゃないか!大丈夫か」
男たちは騒然となった。
「おい、しっかりしろ。聞こえるか」
「あんた一体なんでこんな所にいるんだ!脱出組だろ。まさか乗り遅れたのか」
「担架だ。誰か担架を用意してくれ」
近藤は全身ボロボロで血まみれだった。だが、かろうじて意識を保っていた。
「近藤さん、いったい何があったんです」牧野は言った。
「……です。奴を倒す……、ついに、見つけましたよ。ふふ」近藤はささやくような小声で言った。
聞き取ろうとして顔を近づけた牧野はぎょっとした。近藤の右手はぐちゃぐちゃに砕け、肉と砕けた骨片の塊と化していた。側頭部にもひどい傷を負い、右耳がなくなっていた。衝撃波の直撃を受けたのだろう。
血塗れの肉塊と化した右腕で近藤はカバンを大事そうに抱えていた。
「毒です。細胞内の……電子伝達系を阻害する。致死量は……ごく微量。理論的にはたった1.5キログラムであいつを殺せるはず……」近藤は言った。
地球の自然界に存在する最強の毒素、ボツリヌストキシンの半数致死量は体重一キログラムあたり0.0003マイクログラム。もしこの毒素が巨竜に通じると仮定すれば、推定体重十万トンの巨竜を殺すのにたったの30グラムしか必要としない計算になる。近藤が見つけた毒にそこまでの強さはなかったが、1.5キログラムであいつを倒すことができるのであれば十分な毒性であると言える。
近藤のカバンの中には金属製のケースが入っていた。近藤の話ではこの中にナノ合成機で生成した毒が入っているとのことだった。持ってみた感触では二キロ以上はありそうだった。量としては十分ということになる。
「これを使えば本当にあいつを倒せるんですか」三浦が言った。
「経口投与でも効果ありそうか」向井は聞いた。
「何とも言えません。……皮下注射が理想ですが」近藤は応急手当を受けながら言った。
「どうせ無理だって。早く逃げようぜ。あいつが俺たちを狙う前に」平岡が焦りながら言った。
平岡の言い分はもっともだった。近藤が作ったばかりの毒が実際に効く保証はまったくなかった。なにせ生物を使った毒性試験も行っていないのだ。効果を発揮しない可能性の方が圧倒的に高かった。それに効果を発揮させるにはギガバシレウスの鋼鉄よりも硬い外皮を貫き、その下の組織に直接打ち込む必要があるのだ。ほぼ不可能な話だった。
「どうします向井さん」牧野は言った。
「そうだな……」向井は悩んだ。
「……私がやります。お願いがあります……戦闘用ヒト型重機を貸してもらえますか」近藤が言った。
「だめだ。却下する。その体で操縦できるわけがない。自殺行為だ」向井は即答した。
人間たちをよそに、ギガバシレウスはオニダイダラの外殻をさらに剝がそうとしていた。今度は鉤爪だけでは上手く剥がせないらしく、鋭い歯も動員していた。
その時だった。逆行にシルエットとなって浮かび上がるオニダイダラの背中の輪郭の上を、一陣の風のように影が走り抜けた。それに気づいたのは牧野とヨヴァルトの二人だけだった。
「あれは……」牧野は言った。
「サシツルギですね」ヨヴァルトが後を続けた。
頭部に長く鋭い一本角を持つ、ユニコーンとメカジキと昆虫のハイブリッドのような共生生物。それは宿主モリモドキの幼生を守護しながらオニダイダラの上に住み着いていた。
疾風のように走るサシツルギがまっしぐらに向かう先は、オニダイダラの外殻に歯を突き立てるギガバシレウスの巨大な頭部だった。
接近に気づいたギガバシレウスが頭を動かそうとした瞬間、サシツルギは大きく跳躍した。そしてその鋭い角でギガバシレウスの個眼を突き刺した。角は直径十メートルの眼球表面を覆う透明な保護レンズに蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、眼球本体を貫いた。