第66話 深海
脱皮したギガバシレウスはどこに消えたのか。
牧野は端末上に表示させた地図を指し示しながら言った。
「爆心地、そして体の一部が落ちていた島々。これらを結ぶとほぼ一直線上に並びます。おそらくギガバシレウスは爆心地上空で恒星船のプラズマを浴びた後、外殻を少しずつ脱落させながらこの直線に沿って落下してきたのでしょう。そして、この先の海域に墜落した」
地図には海底の地形も表示されていた。
ギガバシレウスが墜落したと推測される海域のすぐ先には海溝が走っていた。
「海溝の水深は最大で七千メートル。全長千メートルの奴でもこの中なら姿を隠すことができるでしょう。この二ヶ月間、奴はまったく姿を現さなかった。もしかしたら海溝の底にじっと身を潜め、恒星船との戦いで負った傷を癒やしているのかもしれません」牧野は言った。
「なるほど。可能性は高いな。この海溝に海中ドローンを沈めて調査してみよう。だが、その前に、この抜け殻をもう少し詳しく調査したい。組織が残っているかもしれないからな」向井が言った。
向井は無人機からサンプル採取用ロボットを下ろした。ロボットは昆虫型で、四本脚で歩行し、ハサミのような二本のマニピュレーターには各種のサンプル採取用ツールを装備していた。向井はロボットを操縦して抜け殻の表面を至近距離から観察した後、内部に侵入させた。
抜け殻の表面を覆う鱗は耐熱パネルのように整然と隙間なく並んでいた。鱗は一枚の大きさが三メートルほどもあり、結晶状の表面が日光を乱反射してキラキラと光っていた。成分はケイ素を主体とした化合物のようだった。切り取ろうとしたが、当然、採取ロボットのちっぽけなカッターやレーザートーチではまるで歯が立たなかった。
「なんて固い鱗なんだ。是非ともサンプルが欲しかったんだがこれでは諦めざるを得ないな」向井がため息をついて言った。
抜け殻の厚さは二メートル以上あった。一番外側の鱗の層の内側には、それぞれ構造が異なる層が何十も積み重なっていた。ギガバシレウスの異常に高い耐久力の秘密はこの層状構造にあると思われた。
抜け殻の内部はまるで果てしない大洞窟のようだった。無人機の観測で判明したとおり、中はほとんど空っぽだった。脱ぎ捨てられてからおそらく二ヶ月は経過していたが、殻の中は湿っていて、表面は粘液に濡れていた。高さ三十メートルの天井からは水滴が滴り、繊維状の組織の切れ端が垂れ下がっていた。筋肉と思われる軟らかい組織がわずかにへばりついていたので、ロボットはそれらを採取した。
ロボットを回収した無人機は再び空に舞い上がり、他の断片が発見された島々をたどっていった。予想通り、どの断片も抜け殻だった。
いくつかの島々の岸辺には、最近津波が押し寄せた形跡が残っていた。
「ギガバシレウスが海に落ちた衝撃で発生した津波だろうな。何しろあれだけの巨体だ。海に落ちれば津波が起きるだろう」伊藤が言った。
無人機はさらに飛行を続け、ギガバシレウスが墜落したと思われる海域へと向かった。しだいに周囲からは島影が消えていった。
やがて、海溝の上空に到着した。
その海域は風が強く、飛ぶような速さで雲が空を流れていた。高波から波飛沫が吹き上がり無人機の機体を濡らした。白い大きな飛行生物が強風に吹き飛ばされるようにして飛び去っていった。
無人機は海中ドローンを切り離した。小さな潜水艦のようなドローンは瞬く間に泡立つ波間に沈んでいった。
海中を沈んでいくドローンからの映像が届き始めた。
海面から差し込む日光に照らされ、海中を泳ぐ生物たちの姿が見えた。魚に似た生物。クラゲに似た生物。甲殻類に似た生物。地球のどんな生物にも似ていない生物。
海中を岩のような塊がいくつも漂っていた。曲がりくねった管が無数に絡み合い、ひと塊になった物体だった。それぞれの管からはイソギンチャクのような生物が触手を伸ばしていた。おそらく浮遊性の群体生物なのだろう。中心部の浮遊嚢の浮力を調整し、適切な深度を保ちながら海中のプランクトンを捕食していると思われた。
塊の表面には様々な種類の付着生物や海藻がびっしりと固着し、脚が長い甲殻類のような生物が二体ずつのペアで生息していた。
円錐形の殻をもつ生物がくるくると回転しながらそばを泳ぎ去った。
さらに沈むと海中に届く光の量は減少し、海の色は深い青を帯びはじめた。
ドローンは魚のような生物の群れに遭遇した。
かなり大きい。体長は五メートルはあるだろう。鰭が多く、どことなくシーラカンスを彷彿とさせる姿だった。互いに距離を保ち、ほの暗い海中をゆったりと漂うように泳いでいた。ドローンは群れの中を通り抜け、まっすぐ下に向かって沈んでいった。そばを通り過ぎる時、一体があくびをするように大きく口を開けた。あさぎりの生物に多い四方向に開く口だった。
海中映像の画面の端には、ドローンが到達した深度が表示されていた。
百メートルまで潜った頃には海中はすっかり暗闇になっていた。
地球の海では二百メートル程度まで太陽の光が届く。しかし、あさぎりの海はプランクトンの生息密度が高いせいで、それに遮られて光が地球の海ほど深くまで到達できないのだろう。
海中ドローンはライトを点灯した。
泳ぐムカデのようなものが通り過ぎた。ライトの光を反射して体が銀色にきらめいた。それは脚の代わりに体の両側にならぶ無数のひれを波打たせて素早く泳いでいた。鋭い歯がならぶ顎を見れば捕食者であることは一目瞭然だった。
深度七百メートル。ドローンはぐにゃぐにゃと伸縮するオレンジ色の生物とすれ違った。
深度千二百メートル。電飾のように点滅する長い触手を引きずって泳ぐ発光生物と遭遇した。
深度二千五百メートルでカブトガニに似た大型生物と遭遇した。体長は十メートルはある。体は真っ赤で、目がなかった。それは甲羅の下側から突き出たギザキザした付属肢や触腕で大きな魚型生物の死骸を引き裂いて食べていた。
深度三千八百メートルで螺旋状の殻をもつ生物と遭遇したのを最後にしばらく何も見つからない状態が続いた。マリンスノーの降る暗黒の深海をドローンは静かに沈んでいった。
深度七千百メートル。ついに海中ドローンは海底に到着した。ここが海溝の最深部だった。海底には一面に柔らかい泥が堆積していた。ドローンが着底した衝撃で沈泥が巻きあがり一時的にカメラの視界を閉ざした。
泥が収まった時だった。
「何かいるぞ」向井が言った。
海中ドローンのライトの届くぎりぎりの範囲を巨大な物体がゆっくりと動いていた。かなりの大きさだ。ぼんやりとライトに浮かび上がる皮膚はまるで壁のようだった。全体像は闇に溶けて判然としない。
「ギガバシレウスでしょうか」牧野は言った。
「いや、たぶん違うな。表面がのっぺりしている。接近してみよう」向井が言った。
ドローンは巨大物体にむかって進んでいった。
近づくにつれて、暗闇の中から巨大物体がその全貌を現した。
確かにそれはギガバシレウスではなかった。
それはウナギのように細長い巨大生物だった。体長はおそらく二百メートルを超えるだろう。全身をゆったりと左右に波打たせ、海底のすぐ上をきわめてゆっくりと泳いでいた。のっぺりとした黒い皮膚のあちこちから、細い触手のようなものが伸びている。その先端がぼんやりと青白く発光していた。
ドローンは進路を変更し巨大生物の頭部の方向へと進んだ。
ドローンの片側には、ぶよぶよとした巨体が壁のようにどこまでも続いていた。やがてドローンは巨大生物の頭部に達した。
そこにあったのは大きな口だった。上下に開いた顎には歯がなく、ただ黒々とした口腔がすべてを飲み込むかのように大きく開いているだけだった。それはドローンの存在など意に介さず、永遠の闇に包まれた海溝を巨大な亡霊のように悠然と泳いでいた。
「不気味ですが、あまり凶暴そうには見えませんね」牧野は言った。
「水と一緒に大量の小型生物を丸呑みにして食べる、ろ過食性の動物なのかもしれない。かなり代謝率が低そうだが、ここまで大きく成長するまでいったい何年くらい生きてきたんだろうな」向井が言った。
「たぶん何百年、いや何千年もかかったでしょうね」
海中ドローンは巨大生物と並行して進むのを止め、その場に留まった。巨大生物はドローンを追い越し、長い尾びれを左右に振りながらゆっくりと海溝の奥の暗闇へと帰っていった。ドローンはそれを静かに見送った。
あの巨大生物はこれから先、何千年、何万年も変わらない生活をこの深海の底で続けていくことだろう。あの生物にはそう思わせる雰囲気があった。
だが、意外なことに、ほどなくその予想は覆されることになる。
ドローンのマイクが激しい音響をとらえた。何かが激しく衝突する音。重く響く衝撃音。ごろごろと崖が崩れ落ちるような音。明らかに前方の闇の中で何かが起きていた。
「いったいなんだ。何が起きてる」向井は叫んだ。
向井は全速でドローンを海溝の奥へと向かわせた。そしてライトの照度を最大に上げて前方を照らした。
そこは両側から切り立った崖が迫る狭い峡谷だった。峡谷では、海底に堆積した泥が雲のように激しく湧き上がっていた。
突然、泥の雲を突き抜けて黒い巨体がぬうっと現れた。
先ほどの巨大生物だった。
巨大生物は激しくのたうち回っていた。その長大な体が海溝の斜面に激突するたび、海溝の斜面が崩れ、海底に岩石が転がり落ちた。平たい尾が海底に打ち下ろされるたび、大量の堆積物が巻き上がり、泥の雲となった。先ほど見せた悠然とした姿とは一変した豹変ぶりだった。
いったいなぜこいつは急に暴れだしたんだ。
「いや、違う。……暴れてるんじゃない。もがいてるんだ。何かから逃れようと、こいつは死に物狂いでもがいてやがるんだ」向井が言った。
「何かから逃れるって、いったい何からです」思わず牧野は口にした。だがその答えは明白だった。
巨大生物の尾びれの強烈な一振りで海水がかき混ぜられ、一時、峡谷をおおう泥の雲がすべて吹き払われた。
そこで起きていたすべてが海中ドローンの前にさらけ出された。
ウナギのような巨大生物の長大な胴体に、強力な顎が喰らいついていた。そこに並ぶ鋭い牙は巨大生物の表皮と肉を切り裂き、胴体をほとんど切断する寸前まで深く食い込んでいた。巨大生物がどれだけ激しく身をよじらせようと、その戒めが緩む気配は微塵もなかった。
上下左右四方向に開くその恐るべき顎の持ち主は、水深七千メートルの高水圧の下でも、地上や宇宙空間と同様に何不自由なく活動しているように見えた。
「ついに出やがったか。化け物め」向井が言った。
そのギガバシレウスは醜悪だった。全身を覆っていた外殻を脱ぎ捨てたため、まるで人体模型のように皮下組織がむき出しになっていたのだ。赤黒い筋肉の上を紫色の脈管が網目状に覆い、銀色の線維の束が走っていた。再形成途中の外皮らしき薄黄色の組織がまだら模様のように点在していた。それが体を動かすたび、筋肉がひくひくと収縮し、全身の至る所から微細な気泡が立ち上るのが見えた。
「……生きていたんですか。あれが」
ドローンからの映像を食い入るように見つめていた牧野と向井の背後からかすれた声が聞こえた。
牧野は振り返った。「近藤さん」
近藤の目は血走っていた。
「ふ、ふふふ……。あれは死んでなかったんですね。くふっ。いいじゃないですか。これであの腐れ化け物に復讐することができる。なんとも都合のいいことにあの硬い殻を脱いで剥き身になってるじゃないですか。これならきっとレーザーも核も通じますよ。恒星船が戻ってきたら、あらん限りの武装であの畜生をなぶり殺しにしてズタズタに切り刻んでやりましょうね。うふふふ……」近藤の様子はどこか常軌を逸していた。
オニダイダラに移住してから、近藤は息子や生存者たちと一緒に、つねに笑顔を絶やさず前向きに生きているように見えた。だがその温和な顔の裏側には妻である飯塚を奪われた悲しみと怒りと激しい憎しみが隠されていたのだ。
全長二百メートルを超える巨大生物は、抵抗もむなしくギガバシレウスに海溝の奥へと引きずりこまれようとしていた。その全身はずたずたに引き裂かれ、灰色の肉が露出していた。
ギガバシレウスは激しい動きで体を一ひねりすると、肉の塊をごっそりと食いちぎった。
竜王のおこぼれに預かろうと、どこからともなく無数の深海生物たちが集まってきていた。その中には餌食となったウナギ型巨大生物の同種らしき生物まで混ざっていた。それらはギガバシレウスが散かした肉片に我先に群がった。深海の供宴が始まった。
その時、狂ったように獲物の肉を食いちぎる巨竜の目が一瞬、ドローンに向けられたような気がした。
その視線はカメラを通してさえ見る者の背筋を冷たくさせるものだった。