第60話 希望
あさぎりではなぜ酸素濃度が低下しなかったのか。
牧野はこの大問題を高梁と二人で検討した。
夜が更けて、時間が深夜に及んでもラボでの議論と追加の実験は続いた。
「あさぎりの侵略者、地球とは別種だけど、もしかしたら地球の種ほど酸素を消費しないだけってことはないよな。進化の過程でその能力を失ったか、あるいは逆に地球に来た種だけが持っている能力ってことはないだろうか」牧野は言った。
だが、その仮説は酸素の放射性同位体を使ったトレーサー実験で否定された。
「やっぱり酸素を活発に消費して、硝酸イオンにして放出してるね。地球の種と変わらないぐらいの消費率だね」高梁が言った。
つまり、侵略者の違いではなく、地球とあさぎりの生態系にある何らかの違いが惑星の運命を左右したのだ。
地球において酸素濃度が14%まで低下したメカニズム、その全貌は完全に解明されている訳ではなかった。全地球的な大気や水の流れ、炭素、窒素、酸素といった各元素の物質循環、そして植物や微生物の代謝反応まで、マクロからミクロまで様々な次元で無数の要因が関連しあうその全体像はあまりにも複雑で、長年にわたり議論が続いていた。
だが、基本的な大筋は次のようだったということで概ね意見が一致していた。
まず侵略者が大気中の窒素分子をアンモニアとして固定した。固定した窒素を使って侵略者は自らの細胞の材料を作り、またはアンモニアを酸化させることでエネルギーを取り出した。まずその過程で酸素が大量に消費された。
酸素を消費するかわりに、侵略者が大量に放出したのが硝酸塩だった。
侵略者がアンモニアを酸化した後の反応生成物である硝酸塩は植物にとって良質な肥料だった。陸上では草が、水中では藻類が爆発的に増えた。植物が増加すれば光合成により酸素が増えそうに思えるが、そうはならなかった。植物自身が呼吸によって酸素を消費する上、植物の遺骸を分解するバクテリアがさらに大量の酸素を消費し、二酸化炭素を吐き出したからだ。
それは二十世紀に多く見られた赤潮と同じプロセスだった。
赤潮は生活排水などに含まれる硝酸塩などの栄養塩類が流入することで海域が富栄養化し、植物プランクトンが大発生して海が赤く染まる現象だ。植物プランクトンの死骸はやがて海底に沈み、それがバクテリアに分解されるときに海中の溶存酸素を消費しつくし、魚や水生生物を窒息死させた。
二十世紀の人類が窒素を含む排水により海を酸欠にしたように、侵略者は地球全体の酸素濃度を低下させたのだ。
だが、酸素濃度低下はこれで終わりではなかった。
深海底において次なる段階が始まった。
バクテリアにより全世界の海底が無酸素化すると、それがまた別の微生物の活動を活性化させた。硫酸還元細菌だ。それは酸素がある場所では生きていけない絶対嫌気性細菌だった。太古の昔に地球の大気が酸素で満たされて以来、その細菌は酸素の届かない海底の堆積物中でひっそりと生きてきたが、海底が無酸素化したことでそれはかつての勢いを取り戻した。それは海底から海洋全体に広まり、海水中に豊富に含まれる硫酸イオンを還元して硫化水素に変えていった。
何より厄介だったのがその硫化水素だった。海中で発生した硫化水素は大気中に拡散された。それ自体の毒性も問題だったが、硫化水素が酸化されることでさらに大量の酸素が消費されていった。
侵略者、バクテリア、硫酸還元細菌。これら三種類の微生物の働きで地球の酸素は奪われたのだ。
海洋の無酸素化と硫化水素の発生による大量絶滅は地球史上はじめての事件ではなかった。同様の現象は古生代ペルム紀末にも起きていた。その時、生態系崩壊の連鎖反応の引き金を引いたのは地殻変動や巨大噴火の影響だと考えられている。
そもそも、シアノバクテリアがはじめて光合成を始めるまで地球の大気にはほとんど酸素が含まれていなかった。何らかのきっかけで生態系のバランスが崩れると、地球は酸素のなかった時代にたやすく逆戻りする傾向があるのかもしれない。
それに対し、あさぎりの生態系はバランスが崩れにくく、外来微生物や地殻変動などの外部からの攪乱に対する耐久力が強い可能性がある。
それはたとえば植物の光合成のエネルギー効率や生産性が地球よりも優れていて、つねに消費されるよりも多くの酸素を放出できるのかもしれない。また、海底の堆積物中に硫酸還元細菌に相当するような微生物が存在せず硫化水素の放出が起きていないのかもしれない。
牧野はもう一つの可能性に思い至った。超巨大生物の関与だ。
「超巨大生物が大量の植物を食べるからかもしれない。それで腐敗する植物の残骸が減り、バクテリアの発生量が抑えられているんだ」
「……いや、違うぞ。これは逆なんだ。侵略者が窒素を供給するおかげであさぎりの植物は活発に成長し、それを餌にすることで超巨大生物が生きていられるんだ。俺が前にした話、覚えてるか。あさぎりの生物が巨大化した仮説」
「うん、覚えてるよ。あさぎりは栄養塩やミネラルの供給量が多いから植物の生産性が高くて、餌がたくさんあるから超巨大生物は大きくなれたって話でしょ」
「ありがとう。簡単に言えばそうだ。その話の中でミネラルやリンは浸食された岩石から供給されるけど、窒素だけは大気中に窒素ガスとして豊富に存在している。だが、そのままでは大半の生物は利用できない。もしかしたら、侵略者が大気中の窒素を固定することでさらに植物の生産性が上がって、この星の生物の巨大化を加速したのかも知れないぞ。いや、たぶんきっとそうだ」
「伊藤さんに聞いてみないとね。昔の生物が今よりも小型だったら証拠になるね。化石の研究、進んでるかな」
この惑星の生態系はまだまだ未知の要因だらけだ。
まだ到着して三年しか経っていないのだ。無理もないことだが、わかっていることの方が圧倒的に少なかった。何が地球との違いをもたらしたのかを本当に知るためには、この星の生態系全体を理解しなければならないだろう。
そして、あさぎりで酸素濃度低下が起きなかった理由が判明すれば……。
この時、牧野は雷に打たれたような衝撃とともに悟った。
――その知識が地球を救うかもしれないのだ。
突如として、牧野は自分たちの双肩にかかっている責任の重さを感じた。
自分たちがこれからもこの惑星で生き残り、生態系を解明していくことは地球人類の存続、いや、酸素に依存して生きる地球の全生命体の命運がかかっているのだ。かなりの種がすでにこの世から消えた。だが、すべての酸素呼吸生物が滅びたわけではないのだ。ドーム内の動物園や施設で保護されている種もいる。まだ救うことができるかもしれないのだ。
牧野はそのことを高梁に伝えた。
「皮肉なものだな。ヨヴァルトが侵略者をばら撒いていなかったら、俺たちはこの星に侵略者がいることにさえ気付いてなかったんだからな」牧野が言った。
「怪我の功名ってやつだね」高梁が言った。
「それにしても、大変なことになってきたぞ」牧野は震えていた。重大な使命を自覚した事による武者震いだった。
「そんなことできるのかな。私たちだけで、この星の生態系を解き明かすなんて」
「俺たちだけじゃ無理だろう。この先、何世代もの研究が必要だろうな。絶対にこの星で生き延びて、子孫を残していかないとな。お互い頑張ろうな、高梁」
「そうだね、頑張らないとね。私も牧野さんも……子孫を残すの、人任せにはできないね」高梁が言った。うつむく彼女の耳は赤くなっていた。
「そ、そうだな。人数がかなり少ないし、できるだけ遺伝的多様性は確保した方がいいからな。できればみんなが子供を持つのが理想だろうな」牧野は少しうろたえながら言った。
何だろうこの話の流れは。自分が言いたかったのは、何世代にもわたって研究を続けることを頑張るのであって、子孫を残すことを頑張るという意味じゃなかったのだが……。誤解して受け取られてしまったか。
「でも、みんなはだいたい相手が決まってるよね」
「そうだな」
「たぶん、そういう……活動に貢献してないのって、私たちだけ……かもね」
「そうかもな」
居住区壊滅でパートナーを失い、まだその悲しみが癒えていない者を除き、生存者のほとんどは交際相手がいた。やはり命の危機に晒されると子孫を残そうという本能が働くのだろう。中には複数の相手と関係を持っている者もいた。
牧野は高梁がこの場を借りて何を言おうとしているか痛いほどわかっていた。
彼女が自分に好意を抱いているらしいことは前から感じていた。今も恥ずかしさに耐えて伝えようとしてくれている。この先まで彼女に言わせてしまっていいのか。自分は高梁のことをどう思ってるんだ。けっして嫌いでない。好きだと言ってもいい。ならばここで覚悟を固めるべきではないのか。
牧野は唾を飲み込んだ。
「高梁……」牧野は彼女の名を呼んだ。高梁はうつむけていた視線を上げた。
その時だった。
オニダイダラが動いた。一日数度かならず襲ってくる揺れだが、今回の揺れは大きかった。牧野と高梁はよろめいた。ネオビーグル号全体が激しく揺れ動き、ラボでもサンプル容器や実験器具がぶつかり合って音を立てた。大きな機器は固定してあるので大事には至らなかった。
揺れが収まると、牧野の胸に高梁がしがみついていた。二人の体は密着していた。
「大丈夫だったか」「うん、何ともないよ」
そのまま彼女は離れようとしなかった。
牧野はその背にぎこちなく腕を回して優しく抱きしめた。
そしてそのまま夜は更けていった。