第53話 ナノ合成機
乏しい水と食料、一日に数度襲ってくる揺れ。それに潜在的な脅威となりうる恐ろしげな共生生物。オニダイダラの背中の上はけっして楽園ではなかった。
そんな過酷な環境で、生存者たちの生活を支えていたのが調査用飛行艇ネオビーグル号だった。それは現在、惑星あさぎりに生きる五十八人にとって唯一残されたテクノロジーの拠点だった。
採水などで使う場合を除き、ネオビーグル号は尾部高原に駐機されていた。空から見つかるのを避けるため機体は着生植物の葉で覆い隠されていた。
生存者の大半は村で時間を過ごしていたが、何人かはここでしかできない仕事のため長時間にわたって機内に滞在していた。
パイロットの小林は惑星間宇宙を接近中の恒星船と通信を続けていた。機械整備担当の松崎はなんとかナノ合成機を復旧させようと悪戦苦闘していた。地質学者の伊藤も時間があれば戻ってきて、南方探検で集めた標本やデータの分析を再開していた。
そして、救助の日以来、体調を崩したままのヨヴァルトは寝台に横たわり、簡易版ドクターから治療を受けていた。そのサポートのため、高梁をはじめとして医学、生命科学の心得のある隊員が交替でここを訪れていた。
そして、彼らの仕事の進捗状況を把握するため生存者たちの暫定リーダーを務める向井も一日に何回かここを訪れていた。
「松崎、ナノ合成機の調子はどうだ」向井が松崎に声をかけた。
松崎はナノ合成機の立方体型の筐体の前に座り込んでいた。
ナノ合成機は外装カバーが取り外され、黒い円筒形の合成セルを取巻く精密機器や基板が露出された状態になっていた。右半分のフレームが大きく歪んでおり、そちら側に強い衝撃を受けたことがわかる。内部機器からは外に向かってスパゲッティのようにケーブルの束が伸び、まわりに雑然と置かれた周辺機器や端末と接続していた。松崎が端末に操作コマンドを打ち込むと、内部機構でLEDがチカチカと点滅した。
「あともうちょいで何とかなりそうだ。さいわい、装置の中枢であるナノ制御部はほぼ無傷だった。あそこが壊れてたらもう完全にお手上げだったよ。故障していたのはどうも周辺部の制御系統のようだ。今、居住区から回収した他の機械から互換性のありそうな部品を組み込んで上手くいくか試しているところだが、今のところ順調に進んでる。……お、行けるか。行け……。よっしゃ、E58はクリア。次はE59、と」
それから二時間後、すべてのチェックをクリアして、ナノ合成機は非常時モードで起動した。松崎は立ち上がってガッツポーズを決めた。
彼は合成セルの蓋を開けると、その中に機械部品をいくつか並べた。
「まずは材料の補給だ。分解機が修復不能だったので、合成機のプログラムを書き換えて、プロセスを逆転させることで分解機としても使えるようにしたんだ。まずはこのガラクタを分解して材料となる元素をカートリッジに回収しよう」
松崎は合成機を分解機モードで始動させた。合成セルの蓋の隙間から青い光が漏れた。数分後、合成セルの扉を再び開けると、中に並んでいたガラクタは影も形もなくなっていた。松崎はこの作業を何回か繰り返し、元素カートリッジに原料を蓄積していった。
カートリッジの残量インジケーターを確認して松崎は言った。
「よし、これだけ貯まればいけるだろう。いよいよ合成開始だ」
松崎がまず最初に合成を開始したのは、分解機を含むナノ合成機の純正品パーツだった。
応急的に組み込んだ代替部品を使いマニュアル操作で無理矢理動かしているため、途中で何度もエラーが発生し、その都度合成は中断を余儀なくされた。
結局、すべてのパーツの製造が完了したのはそれから二日後だった。正常な合成シーケンスで製造した時に比べて倍以上の時間を要したことになる。
だが、ともかくもナノ合成機を完全復旧させるのに必要な部品はすべてそろった。
松崎は応急処置で取り付けた代替部品や周辺機器をすべて取り外し、新造した純正品パーツと取り替えていった。そして最後に白い外装カバーをすっぽりと被せた。「よし、これで修理完了」松崎が言った。
その後、松崎は向井を呼び、ナノ合成機の復旧を報告した。
「よくやってくれた。これで我々の生活の質もかなり改善するだろう」向井が言った。
「ところで、一番最初に作りたい物は何だ。何でもいけるぞ。材料となる元素は事前に補充しておいたからな。炭素や水素や酸素だけでなく、金属やハロゲンやレアアースも十分ある」
「そうだな。まずはこれを作ってもらいたい」
松崎は向井から要望された品目をカタログから選択し、コードを入力した。ナノ合成機の内部で分子レベルの製造工程が開始された。白い立方体の筐体から聞こえてくるのは冷却ファンの静かなうなりだけだった。
十分後、合成セルの蓋が開くと、中にはベージュ色をした四角形の物体の山ができあがっていた。松崎はそのうちの一本を取り出すと、向井に手渡した。
合成の余熱でほかほかと湯気が上がっている。食欲をそそる良い香りがした。
「ご要望の非常用携行食だ。タンパク質やビタミンを豊富に含んでいる。試食してくれ」
向井は勧められるままバーを口に運んだ。
カレー味だ。歯ごたえがあるが、噛んでいると口の中でほろほろと崩れていく。
「……うん、美味いな。はやくみんなにも食わせてやろう」
これで生存者の食糧の問題はほとんど解決したも同然だった。
次に向井が作らせたのは衣服だった。
地下シェルターに緊急避難する時、居住区の生存者たちは下着を含め、着替えを準備する時間などなかった。ギガバシレウスの襲撃から一週間近くが経過し、彼らの衣服はかなり汚れ、不衛生な状態になっていた。そのため着替えが欲しいという強い要望が女性隊員を中心に出されていたのだった。
三十分後、できあがったのは下着と靴下を含む隊員の標準作業服一式、二十人分だった。
衣服はアイロンをかけた直後のようにしわ一つなく布地に温かみが残っていた。
初日に作らせたこれらの品物を村に運ぶと、お祭り騒ぎのようになった。
生存者たちは次々に泥と垢にまみれた古い服を脱ぎ捨て、肌触りの良い新しい服に袖を通した。そしてトレイに山盛りにされた非常用携行食を貪るように食べた。
「なんて美味さだ。涙が出そうだ。非常用携行食がこんなに美味いとは思わなかった」
「これでブロンの臭い肉ともおさらばだな」
「これ、違う味も作れるのかな」
「おい、そんなにがっつくなよ」「悪い、つい手が伸びてしまって」
「これでようやく人間らしい生活が取り戻せるね」
「ナノ合成機様々だな」
「松崎さん、ナノ合成機を治してくれて本当にありがとう。感謝してもしきれないよ」
生存者たちは口々に偉業を達成した松崎を褒めちぎった。
「いや、どうってことねぇって」ぶっきらぼうな性格の松崎は少し照れくさそうに言った。
次の日から、ナノ合成機のフル稼働がはじまった。
次にナノ合成機で作ったのは大量の樹脂製パネルと配管だった。
これらは雨水貯留槽や排水管の材料だった。
合成セルの内径は1.2メートル、高さも同程度しかないので、一度の合成で製造できる品目の大きさは最大一メートル程度だった。それより大きな物の場合は複数回に分けてパーツを合成し、その後、手作業や工作ロボット等を使って完成品を組み立てる必要があった。
生存者たちはパネルを貼り合わせて容量一立方メートルほどの雨水貯水槽を作り、オニダイダラの背部の数カ所に設置した。
そして、それらに配管をつなぎ、貯まった水が村に流れてくるようにした。これで水汲みのためにネオビーグル号を飛ばす回数も大幅に減るだろう。同時に濾過、浄化装置も製造し、飲み水を確保できるようにした。
さらに、村の衛生状態を改善するため排水管を設置した。
これまで、村で発生した汚物は非常に原始的な方法で処分されていた。
土壌に乏しいオニダイダラの背中では、汚物を土に埋めて処分することができなかった。そこでやむを得ずバケツに汚物を溜め、いっぱいまで溜まったらバケツの中身を崖下に投棄していた。そのため、バケツが設置された便所小屋の周囲にはつねに悪臭が漂っていた。ネオビーグル号には完全循環浄化式のトイレが設置されていたものの、わざわざ用を足すために村から五百メートルも歩いてくる者はいなかった。
樹脂製パネルやロープは小屋の強化や改築、増築にも使われ、さらにネオビーグル号へと至る道を整備するのにも使われた。樹脂の需要は増大する一方だった。
大量の樹脂製品や合成食を作るのに必要となる元素はおもに着生植物から供給された。刈り取り部隊が組織され、毎日オニダイダラの背中を歩き回っては大量の着生植物を持ち帰った。植物は切り刻まれて分解機の投入口に押し込まれ、炭化水素に分解されてカートリッジに貯蔵された。
こうして、オニダイダラの背中に密生する着生植物の森は少しずつ減少していった。
環境保護主義の向井はこの状況を快く思っていなかったものの、最近は生存者たちの勢いに押されて渋々黙認する状況となっていた。
時間が経つにつれて居住区壊滅のショックから立ち直り、さらにナノ合成機から安定供給される栄養満点の合成食を食べて健康を取り戻した彼らをリーダーの意志に従わせるのは、以前ほど簡単ではなくなりつつあった。