第46話 天上の戦い
恒星船と高速で飛来するギガバシレウスの軌道が交錯した。
その瞬間、竜王の巨大な顎門が恒星船の船体に食らいついた。
それは巨体を捻るように回転させ、船体の一部をごっそりと引きちぎって飛び去った。破壊されたのはトーラス型をした自転区画だった。
デスロールだ。乾は思った。
乾は昔、ワニを見たことがあった。中国のとある武装勢力の将軍が邸宅の池で飼っていたものだ。でっぷりと太ったその将軍はワニの群れに生きた餌を与えるのを趣味としていた。餌はふだんはヒツジでしばしば捕虜も与えているという話だった。ワニの顎の噛みつく力は非常に強いが、歯の構造が肉を噛みきるようにはできていない。そこでワニは獲物に噛みつくと、水中で体ごと回転して肉をねじ切るのだ。これがデスロールと呼ばれる行動だった。乾がその将軍を池のほとりで射殺した後、ワニどもはたっぷりとデスロールを披露してくれた。
ギガバシレウスの一連の動作は、まさにワニのデスロールと同じだった。
ブリッジでは警報が鳴り響いていた。
「自転区画に重大な損傷発生、大半が消失しました」
「大規模な空気漏れが発生しています。現在、自転区画につながる全通路を緊急閉鎖中」
「補助リアクターの配管系統にも損傷を確認」
「船内通信エラー発生。システムの一部が制御不能になっています」
「補助システムを起動中」
ブリッジのモニターが大量の異常報告のリストで埋め尽くされていた。航宙士たちはそのひとつひとつに素早く決断して対応していったが、リストが短くなる気配は一向になかった。それどころかエラー表示と警告は秒単位で追加され膨れ上がっていく一方だった。
「この船はまだ航行可能か」清月総隊長が言った。
「非常に難しいです」操船担当の吉崎が言った。
「できるのか、できないのか、どっちなんだ」
「……可能です」
「よし。ただちに星系内航行用のスラスターを100%の推力で噴射、惑星あさぎりに対しスイングバイを行え」
「いくら何でもこの状況で無茶です。損傷箇所の応急処置と…」
「そんな悠長な事を言ってられると思うか。外の映像を見ろ」
自転区画を食いちぎってはるか彼方に飛び去った超巨大生物が再び戻ってこようとしていた。
それは進行方向にブースター型の尾部を向けて噴射し、すさまじい勢いで減速をかけて軌道修正を行っていた。もし宇宙船があんな急減速をしたら中に乗っていた人間は一瞬で真っ赤なジャムのように潰れていただろう。やがて軌道修正を完了した超巨大生物は、恒星船が巡る低軌道めがけて急降下してきた。
「わかったか。次の一撃を受けたら、この船は終わりだ」
「りょ、了解しました。ただちに準備に入ります」吉崎はそう言うと操作に没頭した。
「まもなく本船はスラスターの最大出力で加速する。全員、着席してGに備えろ」清月が声を張り上げた。
これまで自由落下状態で浮かんでいた隊員たちは、慌てて手近のシートに収まると安全ベルトを装着した。約一分後、船体に猛烈なGが加わり、それまで無重量状態だった船内に突如として上下が生じた。隊員たちは全身にのしかかってくる重量に耐えた。
恒星船は超巨大生物を振り切るため、あさぎりの重力を利用したスイングバイを開始した。
恒星船はあさぎりに向かってダイブするように急接近していった。眼下をあさぎりの表面がすさまじい勢いで流れ去っていく。恒星船は明暗境界線を越えて惑星の夜の側に入り込んだ。
船体後部のカメラには、後ろからぴたりとつけてくるギガバシレウスの姿が映っていた。それは青い弧を描く惑星あさぎりの上で陽光を反射してギラギラとまばゆく星のように輝いていた。まもなく恒星船を追って超巨大生物も惑星の影に入ると光は消えた。代わりに尾部から噴射される青白い炎の光が宇宙の闇の中でその存在を示していた。
青白い炎は見る見るうちに距離を縮めてきた。いまや炎を逆光にしてその形がはっきりと見分けられるほどだった。
「もっと速度は出せないのか」清月が言った。
「これが最大出力です。これ以上の加速は無理です」吉崎が言った。
モニターではなおも無数の異常報告リストが点滅を続けていた。加速に耐えられず、船体から自転区画の残骸が脱落した。
「くそ、ダメなのか。これでは追いつかれるぞ」乾が高Gにうめきながら言った。
「まだあるだろう……恒星間航行用駆動が」清月は絞り出すようにして言った。
「まさか、本気ですか」吉崎は冷や汗にまみれた顔で思わず清月総隊長を見た。
だが、真剣そのものの総隊長の表情を見て、吉崎は言葉を飲み込んだ。
惑星のこんな近傍でスタードライブを点火したら大変なことになる。
宇宙飛行に関してはド素人の乾でもその程度のことは知っていた。船尾から噴出する巨大なプラズマの尾が惑星の表面や付近の天体を焼き焦がしてしまうのだ。だからこの星系に来るときも、わざわざスラスターで数週間かけて太陽系の果てに到着してからはじめてスタードライブに点火したのだ。
それに、スラスターの最大出力をはるかに上回る加速度に耐えるには、高粘度の液体を満たした耐G槽に潜ってやり過ごすしかない。ただ座席についただけの状態でそんなGに晒されて果たして生きていられるだろうか。
医療AIのドクターも同意見のようだった。
「ついに恐怖で気が狂ったのですか、総隊長どの。あなたたちの軟弱で繊細な肉体が耐えられるわけないじゃないですか。もしスタードライブを使えば、それは後ろから追ってくる超巨大生物よりも確実にあなたを殺すでしょう」モニターに出現したドクターの映像は感情もないくせにわざわざ嘲るような薄笑いを浮かべていた。
操船に関わる艦載AIたちもいっせいに無数の警告表示を点滅させて反対意見を表明していた。
「……現時刻をもって総隊長権限により、AI群の疑似人格を停止し、同時に航行システムの制限装置をすべて解除する。コード……」清月は十桁のアルファベットと数字を読み上げた。抗議の声を上げようとしたドクターが消え、艦載AI群の警告表示も消えた。
一転して静まりかえったブリッジに、清月の声が朗々と響き渡った。
「我々には使命がある。人類の先遣隊として、この未知の惑星に文明社会の礎を築くという使命が。そのために我々は地球での残りの人生をすべて投げ打ち、すべての過去を断ち切って、ここまでやって来たのだ。そうだろう諸君。知能を持たない怪物にむざむざ殺されるためではないはずだ。後に続く人類のために、我々はこの危機を乗り切り、絶対に生き延びる必要がある。……スタードライブを起動せよ。全責任は私が負う」
「了解しました、総隊長」吉崎をはじめとした航宙士たちは覚悟を決め、スタードライブの起動手順に取りかかった。
「清月総隊長殿、万歳!万歳!万歳!」井関が叫んでいた。
みんな狂ってやがる。だが、それがいい。
そうだ、極限状況での狂気と正気のギリギリのせめぎ合い。この感じこそ本当に俺が求めていたものかもしれない。乾はそう思った。
ギガバシレウスは恒星船のすぐ後ろに迫っていた。
またもや口を大きく開き、ギザギザの歯列をむき出しにして船体に噛みつこうとしている。その顎門がまさに船尾の推進ノズルを捉えようとした瞬間、ついにスタードライブが点火し、竜王の顔面めがけてプラズマの炎を噴き出した。青く輝く巨大な炎が竜王の巨体全体を飲み込んだ。
だが、驚いたことにギガバシレウスはまだ追跡を諦めなかった。押し寄せる超高温のプラズマの奔流に逆らって飛び、体の表面が溶融していくにも関わらず、なおも船体に歯を立てようとしていた。
「こいつ、マジもんの……化け物か」乾は言った。目の前で黒い斑点が踊り、今にも意識が飛びそうだった。
「……人間を、なめるなぁ!!!!」
清月が絶叫した。そしてスタードライブの推力をさらに二段階上昇させた。
推進ノズルから一段と激しいプラズマが噴出して超巨大生物を弾き飛ばした。同時に、ブリッジの全員が瞬時に意識を喪失した。