第44話 天秤座の竜王
小林はパネルの表示を淡々と読み上げた。
「物体の速度は時速ニ千キロ。現在、西南三十五キロ、高度三万メートル付近を南から北に向かって飛行中。約一分後に当機の進路と交差予定。物体の全長は……約千メートル」
「千メートルだと、大きいな。隕石か」伊藤が言った。
「それにしては遅すぎます。……物体が急降下を開始しました。こちらに向かって加速しています」小林が言った。
「何だと」伊藤は絶句した。
機内に緊急警報が鳴り響いた。
「上空を高速飛行物体が通過する。みんな衝撃に備えろ」
伊藤が機内放送で叫んだ直後、周辺一帯に巨大な影が落ちた。
次の瞬間、耳を聾する轟音とともに強烈なソニックブームが襲いかかった。機体が悲鳴を上げ窓に亀裂が走り収納されていなかった道具類が吹っ飛び隊員たちの全身の細胞が激しく揺さぶられた……。
荒れ果てた機内に埃が舞っていた。
衝撃波のダメージからなんとか立ち直ると、牧野は恐る恐る窓の外を見た。
そして信じがたい光景を目にした。
成層圏にまでそびえ立っていた巨大な積乱雲がまるごと一つ消し飛び、ドーナツ状の雲になって他の雲を巻き込みながら水平方向に急速に拡散しつつあった。どうやら急降下してきた飛行物体はあの雲の真ん中をぶち抜いたらしい。
そして、そのはるか上空。
青空に二筋の飛行機雲を引きながら、信じがたいスピードをもつ何かがロケットのように再び高空を目指して急上昇していた。天高くに遠ざかっていくその姿を肉眼で捉えるのはすぐに困難になった。
「これを見ろ」向井が機体備え付けカメラの望遠映像を端末に呼び出した。
画面には大気の揺らめきを通して、天空を駆け上がるその威容が映し出されていた。
体の両側に広がる巨大な翼、後部から伸びる七本の長大な尾、背部に突出する鋭い棘、陽光を照り返してまばゆく輝く白銀の皮膚。そして、巨体全体にみなぎる力強さ……。
その超巨大生物の姿は恒星船テレストリアル・スター号に乗ってこの星系を訪れた全隊員がよく知っているものだった。
否、彼らだけではない。地球および周囲数光年に薄く広がる人類文明圏に暮らす何十億という人々は、人生において少なくとも一度はその生物の映像を目にし、驚異の念に打たれた経験があるだろう。
それこそは約百七十年前、大型移民船セドナ丸の乗組員が遭遇し、その姿を最後の映像に残したあの規格外の超巨大生物だった。あの映像が放つ強烈な謎と魅力が、牧野たち157名の探検隊を約七十光年の距離を超えてこの地に導いたと言っても過言ではないだろう。
非公式だが、その生物には次のような学名が与えられていた。
リブラドラコ・ギガバシレウス。
天秤座の巨大な竜王を意味する名だ。天秤座は惑星あさぎりが地球から見てその方角に位置する事にちなむ。竜王については一目瞭然、説明は不要だろう。背中の翼と四本の脚、長い尾、そして鱗状の皮膚。それは伝説のドラゴンを彷彿とさせる姿だった。
「ついに現れたか、セドナ丸の巨大生物」牧野はつぶやいた。
「これまでいったいどこにいたのでしょう」近藤が言った。
「それにしても……何という美しさだ」向井が陶然として言った。
映像をよく見ると、ギガバシレウスは口に何かをくわえていた。
それは黒い物体だった。信じがたいほど巨大なギガバシレウスとの比較で小さく見えるが、かなりの大きさだ。
「あれはひょっとして、積乱雲の中に隠れていた巨大浮遊生物じゃないか」向井が言った。
山脈を越える往路で、隊員たちは積乱雲の中にイカのような姿の巨大生物が潜んでいるのを目撃していた。積乱雲の中で瞬く雷光に不気味なシルエットを浮かび上がらせていたそれは今、ギガバシレウスの顎門に捕らわれてもがいていた。
イカ型の生物は長大な触手を竜王の頭に巻き付けて必死の抵抗を試みていた。時折、その先端からアーク放電の青い光が閃いた。雷雲の中で暮らすこの巨大生物は体内に膨大な電気エネルギーを蓄積し、それを武器として使う能力を持っているようだった。あの電撃を受ければ普通の生物なら黒焦げになっていただろう。
にも関わらず、それは竜王の圧倒的な力の前に無力だった。超音速飛行で発生する衝撃波で巨大浮遊生物の体はずたずたに切り刻まれ、少しずつ千切れて肉片を落下させていた。
そんな断片の一つがネオビーグル号に向かって真っ逆さまに落ちてきた。長さ百メートル近い一本の触手だ。それは機のすぐそばをかすめると、雲海を突き破って下界に消えていった。
獲物をしっかりと顎門にくわえ込んだまま、天翔る竜王は蒼穹の彼方に消え去った。
隊員たちはしばし虚脱したように、青空だけを映し出す端末画面を眺めていた。
千メートルにおよぶ巨体で超音速飛行する生物。牧野はいまだ自分が目にした物が信じられなかった。本当にこんな生物が実在して良いのだろうか。つい先ほど彼が展開した惑星あさぎりの生態系と超巨大生物の理論の範疇を超えていた。ただ単に惑星上の栄養塩が豊富で、植物の生産性が高いだけでこんな生物が進化しうるのだろうか。これまで牧野が積み上げてきた仮説もギガバシレウスという規格外の存在を前にして瓦解していくように思えた。
その時、端末の着信音が鳴りだした。目に前に置かれた向井のものではない。他の誰かのだ。
「あ、すいません、私のです」近藤が慌てて鞄から自分の端末を引っ張り出した。
通信を開くと、それは居住区にいる彼の妻、飯塚美竿からだった。
近藤は毎晩欠かさず家族と通話していたが、昼間に、それも向こうからかかってくるのは珍しかった。
「どうしたの、みさちゃん」近藤が言った。
「今さ、ちょっとこっちでびっくりするような事が起きててね。ついにあれが現れたのよ、セドナ丸の超巨大生物が。今、居住区の上空に大きな輪を描いて飛んでるわ。それにしてもすごい大きさで、見たときは本当に信じられなかったわ」飯塚が息せき切って言った。
「うそ、ついさっき僕たちもそいつと遭遇したところなんだけど」近藤が言った。
「え、そうなの。……でも、そんなことってあるのかな。この三年間、一度も目撃されなかった超巨大生物がいきなり同時に何体も現れるなんて」飯塚が言った。
画面の向こうで飯塚は赤子を胸に抱き、混み合った室内にいた。すぐ背後に新人類ヨヴァルトの特徴的な後ろ姿が映っていた。たぶん基村だろう、大声で何かを説明している声が聞こえる。通常、催し物や定例会議など人が集まるイベントで利用される公会堂の中ではなかった。
「ところで、今どこにいるの」牧野は近藤の横から、端末画面の中の飯塚に言った。
「あ、牧野くん。ここは地下シェルターよ。今、清月さんの命令でみんなここに避難してきてる最中。安全保障班の平岡さんたち数名は地上に残って、戦闘用ヒト型重機で警戒に当たっているわ」
モリモドキと鳥型生物の襲来後、居住区には超巨大生物からの避難用に地下シェルターが作られていた。地下十メートルの深さに掘られたシェルターは堅牢で、全員に行き渡るのに十分な量の食料や水が備蓄され、換気装置で常に新鮮な空気が送り込まれていた。通常の出入り口が使用不能になった場合に備え非常脱出通路も用意されていた。
「みんな心配しすぎよね。あんな大きな生き物がこんなちっぽけな居住区を襲うわけないのに。そうだよね」飯塚は言った。しかし彼女の表情はどこか不安げだった。
「あ、ああ。俺もそう思う。彼らの餌になるには人間は小さすぎる。ライオンが蚊を襲って食べようとするようなものさ。あれはきっと、もっと大型の生物を狩るように進化した生物だと思う。だから心配はいらないと思うよ」牧野は言った。
「そうだよね。そう言ってもらってほっとしたわ」飯塚が言った。
理論的には間違っていないはずだ。だが、飯塚に語った言葉とは裏腹に、牧野はなぜか嫌な予感がしていた。
その時、飯塚が抱いていた息子、大樹がぐずりだした。
「おっぱいが欲しいのかな。今からちょっと授乳してくるね。じゃあまた後でね」飯塚は通話を切った。
「本当に大丈夫でしょうか」近藤が深刻な顔をして言った。
「きっと大丈夫ですよ。たまたま近くを通りがかっただけですよ」牧野は言った。
「情報が足りないな。恒星船にいる連中はすでに居住区の事態を把握してるようだが、こっちにも情報が欲しい。……伊藤さん、恒星船の清月総隊長に問い合わせてくれないか」向井が言った。
「オーケー。すでに情報を請求中だ。……お、きたきた。みんなの端末にも転送する」
牧野は自分の端末に送信されてきた動画データを開いた。
それは地上から撮影された居住区上空を舞うギガバシレウスの映像だった。
それは空を覆い尽くすような巨体だった。
垂れ込めた雲よりも低い場所を飛んでおり、さらに地上の建物との対比で余計に巨大に見える。だだっ広い腹部は屋根をこすりそうだ。昼間にも関わらず、巨竜が落とす影につつまれて居住区全域が薄暗かった。
映像を見て、牧野の希望的観測は打ち砕かれた。
このギガバシレウスは、明らかに居住区に関心を示していた。
どこかに飛び去る気配はなく、まるで何らかの機会を伺うかのように上空に輪を描いて滑空しつづけていた。
「清月総隊長からの説明では、現在、惑星あさぎり上で合計六体のギガバシレウスが確認されているそうだ。そのうち一体が居住区の上にいるやつで、もう一体が俺たちが遭遇したやつだと思われる。他の四体もアルファ大陸北半球付近を飛行しているらしい。念のため、今から恒星船を居住区上空を通る軌道に移動させ、防衛兵器を起動するらしい」伊藤が言った。
「防衛兵器か」牧野はつぶやいた。
航行中に天体との衝突を避ける等の目的で、恒星船には強力な兵器が搭載されているという話を聞いたことがあった。おそらく強力なレーザー兵器だろう。
その時、近藤が小さな声で言った。
「……あれ、おかしいぞ。通話が繋がらない」




