第42話 あさぎり生態学試論
北上を続けるネオビーグル号の行く手には巨大山脈が立ちふさがっていた。
大陸横断山脈。アルファ大陸の南北を分断するこの障壁を再び越えなければ居住区には帰れない。
山々に近づくにつれ空は分厚い雲に覆われ始めた。南から吹いてきた湿った風が山の斜面に沿って上昇し、冷却されて大量の雨雲を生み出しているのだ。
機体は高度を上げ、雲の中に突入した。窓の外は白く染まった。
「この先、揺れるのが心配なの?酔い止め薬もってこようか」
険しい表情でうつむいている牧野に、高梁は声をかけた。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。ちょっと考え事をしてただけだよ」そう言うと牧野は再び手元の端末に視線を落とした。
「考え事って、何か悩みでもあるの」
「そうじゃないんだ。ずっと以前から生態学者として考えてたテーマがあってね」
端末の画面に開いたメモには、思考の断片らしき文章が箇条書きで並んでいた。
「……この星の生態系の仕組みや、なぜ生物がこんなにも巨大化したのか、とか。今回の旅でいろんな証拠が集まって、それが今、なんとか形になりそうなんだ」
「へえ、面白そうだね。よかったら教えてよ」
「そうだなあ、まだ仮説とも呼べないレベルなんだけど。試しに説明してみるよ。途中でおかしな所や疑問があったら遠慮無く言ってほしい」
高梁はうなずいた。
「私も聞かせてもらっていいですか」近藤が言った。
「俺も頼むよ」少し離れて別の作業をしていた向井も近くに寄ってきた。
「構いませんよ。皆さんもどんどん突っ込んでください。さて、どこから始めようかな」
牧野はそう言って窓の外に目をやった。雲の奥に進むにつれ外はますます暗くなり、ときおり巨大なクラゲのような浮遊生物がそばを通り過ぎていった。
「そう、浮遊生物もこの星の謎を解く鍵の一つだったんです……」牧野は話し始めた。
大気中を気球のように浮遊する生物は、地球には存在しない生態的地位だ。
なぜ地球の大気中には浮遊生物が存在しないのか。
まず考えられる第一の理由が食物がないことだ。
大気中とは対照的に、地球の海中にはクラゲなどの数多くの浮遊生物が生息している。それは海がプランクトンという豊富な食物で満たされているからだ。
しかし地球の大気中にはほとんど生物がいない。まれに湖などでユスリカなどの昆虫が大発生し集団で飛翔することはあるし、クモの子供が糸をパラシュートがわりにして風に飛ばされ空高くまで舞い上がることもある。しかしそれらをすべて集めてもその生息数は海のプランクトンとは比べものにならないほど少なく、おまけに発生する地点も季節も限られている。だから、それらを餌にして浮遊生物が生きていくのは不可能であり、地球の大気中には浮遊生物は存在しないのだ。
しかし、あさぎりの空にはかなり発達した浮遊生物の生態系が存在した。
その存在を最初に教えてくれたのは砂漠に降る雪、デザートスノーだった。それは大気上層を浮遊する微生物、すなわち空中のプランクトンの死骸が集まって地上に降ってきたものだった。
デザートスノーは砂漠地帯において、まさに地球の深海に降るマリンスノーと同じ役割を果たしていた。
海洋表層に生息するプランクトンの死骸や糞が寄り集まったマリンスノーは食物に乏しい深海に生きる生物にとって貴重な栄養源となっていた。
同じくデザートスノーも植物の生育できない過酷な砂漠の生態系を根底から支えていた。おそらく年に数回、季節風とともに空中プランクトンを豊富に含んだ雲が砂漠の上空に吹き寄せて大量のデザートスノーを降らせるのだろう。それを糧として砂中に生息する小型生物スナアミが爆発的に増殖し、そして超巨大生物サバククジラはそれを餌にする。サバククジラがその巨体を維持できることから考えて、スナアミの生物量は莫大に違いない。ひいてはその餌となるデザートスノーすなわち空中プランクトンの生物量も。
「そこで当然の疑問が浮かぶと思います。この惑星の空の生態系をこれほど豊かにしている要因は何なのか、と」
近藤や高梁の分析から、空中プランクトンを構成する生物の種類が判明していた。
もっとも多いのが植物性のものだ。それは地球の植物が放出する花粉や胞子ほどの大きさの微細な生物だ。近藤が遺伝子を解析したところ、意外なことにそれは積層巨木林に生育する着生植物の一種に近縁なことがわかった。おそらく、一部の着生植物の胞子が樹上に根付いて植物体に成長することを止め、上空を漂ったまま胞子の状態で一生を過ごすように進化したのだと推測された。一種の幼形進化だ。
そして当然、植物性のものを餌にする動物性の空中プランクトンがいた。こちらは微小な単細胞生物から小型の飛翔昆虫のようなものまで種々様々だった。
植物性の空中プランクトンは、地上に生育する植物や、海中の藻類に比べ、日光のエネルギーを利用しやすいという点では大きく有利だ。空中への進出は彼らに大きな繁栄をもたらしただろう。
しかしその反面、大きな難点もあった。養分の欠乏だ。植物の成長にはリンや各種のミネラルが必須だ。地上や海中では比較的得やすいこれらの養分も、通常、大気中にはほとんど存在しない。空中の植物プランクトンはいったいどこからこれらの養分を手に入れているのかが大きな疑問だった。
しかし、この惑星ではそれらを大気中に送り込むメカニズムが存在することに牧野は思い当たった。
森林火災だ。
「大気中の酸素濃度が平均25%に達するこの惑星でも、特に酸素濃度が高いのが積層巨木林でした。場所によっては30%を超えている地点もありました。これほど高濃度の酸素は、容易に火災を引き起こします。私たちが実際に経験したように。おそらく、広大な積層巨木林のどこかで常に火災が起きているはずです」
一度火災が起これば、上昇気流により発生した火災積乱雲から森に落雷し、それがまた新たな火災の火種になる。森林火災の連鎖反応が起きている可能性もある。
そして、森林火災からは大量の煙が発生する。煙とは煤やエアロゾルなどの微粒子の集合体だ。それらの微粒子にはおそらく空中プランクトンに必要な養分も含まれているはずだ。
「……つまり、積層巨木林で常時発生している森林火災が、空中プランクトンに必須な元素を大気中に安定供給する源になっているかもしれないのです」
向井が牧野の説明をさえぎって言った。
「ちょっと待ってくれ。森林火災が豊かな生態系を生み出しているだと。ありえない。煤やエアロゾルは深刻な環境破壊を引き起こすはずだ。大気中の煤が日光を遮って寒冷化をもたらすか、あるいは逆に火災により発生する二酸化炭素が温室効果による温暖化の引き金になるかもしれない。それに火災の連鎖反応が起きれば、いくら再生能力の高い森でもいつかは焼き尽くされてしまうはずだ」
「たしかに僕もそれは考えました。実際、地球での森林火災ではまさにその通りのことが起きていました。ですが、この惑星ではそうはなっていない。その違いをもたらしているのは、おそらく空中の浮遊生物たちの働きです。彼らが煤やエアロゾルを吸収、分解するおかげで環境への悪影響が起きていないんです」
それに、火災積乱雲からの降雨も浮遊生物の活動によって調整されている可能性があった。
地球では、火災積乱雲からは雨が降らないことが多かった。雨が降るには水滴の核となる微粒子が必要だが、森林火災では微粒子が過剰に供給されすぎて、それらが互いに水蒸気を奪い合い、それぞれの水滴が雨粒の大きさまで成長できなくなるせいだ。
しかし、この星の森林火災ではすぐに大雨が降った。おそらく浮遊生物が雲の中の微粒子を消費し、雨粒の形成に最適な密度にまで減らすためだろう。そうすることで微生物たちは森林火災の無制限な拡大を食い止め、自分たちの存在基盤である積層巨木林を守っていることになる。
「なるほどな。いや、ありえなくはない。だが、しかし……」
向井は完全には納得しかねる様子で考え込んだ。
「今までの話をまとめると、熱帯地域の積層巨木林で発生する火災が空中浮遊生物たちを養い、それが砂漠地帯など他の地域の生態系にも恩恵を与えているということです。……肝心なのはここからです。なぜあさぎりは超巨大生物の惑星になったのか、それを説明します」




