第39話 混沌の樹海
二つの巨体は正面からぶつかり合った。
数十万トンの質量同士が激突した衝撃で、局地的な地震が発生し、空中を衝撃波が走り抜けた。
樹高数百メートルの大樹は揺らぎ、樹冠から落下した枝が林床にうごめく小型生物たちを押し潰した。
大顎の超巨大生物は、強力無比な左右の顎で触手の超巨大生物の胴体をしっかりと挟んでいた。
大顎に力が加わるたび、そこに並ぶ鋭い牙が相手の体に深く食い込み、傷口から体液が流れ出した。
しかし、触手の超巨大生物も負けてはいなかった。
大蛇のように逞しい触手を大顎の首に巻き付け、一気に締め上げた。体を覆う堅牢な装甲もこれには耐えかね、ギシギシと悲鳴を上げはじめた。さらに、触手の裏側に並ぶ鉤爪を相手の装甲の継ぎ目に食い込ませ、無防備な皮膚を引き裂きにかかる。
それでも大顎は緩まない。それどころか、逆により一層強い力が加わっていく。負けじと触手の締め付けも強まっていく。
二体の超巨大生物はがっつりと組み合ったまま、膠着状態に陥ったかに見えた。
その足下では、両者の体から流れ出た血液が雨のように滴り、地面に沼のように広い血だまりを作り出していた。
眼球生物の死骸から燃え移った炎は勢いを増し、林床の下生えや倒木を舐めてますます燃え広がっていた。二体の超巨大生物に踏み潰されまいと右往左往していた小型、中型の地上性の生物たちは炎と黒煙に追い立てられて逃げ惑い、周囲一帯の混乱はさらに拡大していった。
だが、逃げる動物たちの群れとは逆に、この混沌の場に引き寄せられてくる者たちもいた。
隠れ家から追い出された獲物を狙う、様々な捕食動物たちだ。
体長三メートルほどのすらりとした多脚の中型生物が、丸っこい小型生物を捕まえて食べ始めた。だが次の瞬間、それは樹上から飛び降りてきた体長十メートルの黒い毛むくじゃらの生物にバラバラに噛み砕かれた。
地上を逃げ惑う小型動物の頭上に、黄緑色のカーテンのような葉状体が垂れ下がってきた。一見、無害に見えるそれは恐るべき罠だった。表面からは触れただけで全身が麻痺する猛毒が分泌されており、それに触れて動けなくなった犠牲者は葉状体に包み込まれて養分を吸い取られた。
地面に流れ出た超巨大生物の血も、無数の生物を引き寄せていた。広まりゆく血だまりのほとりで、それらは先を争うようにして滋養に満ちたご馳走にありつこうとしていた。
付近に浮かんでこの光景を観察していたネオビーグル号も混乱からは無縁ではいられなかった。
空中を乱れ飛ぶ無数の飛翔生物が、ガンガンと音を立てて機体に激突してきた。機体に加えられる衝撃と激突音から判断してかなり大きい生物も交じっているようだ。
「急いでこの場から離れる。このままでは墜落してしまう」伊藤が叫んだ。
ネオビーグル号は混乱に満ちた地上付近を離れ、樹冠の上空に向かって垂直上昇を開始した。眼下では、周囲で燃え盛る炎をいっさい気に留める風もなく、二体の巨獣がなおも壮絶な争いを繰り広げていた。
林床を焼き尽くす炎は樹幹表面の着生植物にも燃え移り、上昇するネオビーグル号と競い合うようにして真上に向かって燃え広がっていった。
「まずい。このままでは樹冠にも燃え移るぞ」向井が言った。
その言葉通り、濃緑色の葉を鬱蒼と茂らせた樹冠のあちこちから煙が立ち上り始めたと思う間もなく、同時に数か所から火の手が上がった。それはすぐにオレンジ色に輝く巨大な火柱となって樹冠全体を包み込んだ。炎は何兆枚という葉と、そこに暮らす樹上性の生物たちを焼き尽くし、火の粉と大量の煙を天に向かって噴き上げた。
まもなく、となりの大樹も業火に包まれた。そして、他の樹も。
押し寄せる熱風と火災で発生した強力な上昇気流を避けるため、ネオビーグル号は火災の現場から全速で離脱した。
「……なんてことだ」向井が言った。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「我々は、この星になんということをしてしまったのだ!」そう言うと座席を拳で殴りつけた。
「何とか消火できなかったかな。タンクの水を放水したりとか」高梁が言った。
「どう見ても無理だろ。それこそ焼け石に水だ。火災の拡大が早すぎるんだ」牧野は言った。
「私のせいだ。私が軽率にもレーザーを使ったばかりに」橘がつぶやいた。いつもの気の強さは微塵もなく、その声は消え入るように小さかった。
そんな彼女に指を突き付け、向井が声を張り上げた。
「そうだ、お前の責任だ!わかってるのか、自分のしでかしたことを!まったくお前たち兵隊ときたら破壊と殺戮ばかり振りまきやがって!」
向井の怒声を聞いて、操縦室から伊藤が飛び出してきた。
「おい、落ち着けよ向井さん。あの生物を撃墜するよう指示を出したのは俺だ。つまり俺の責任だ。彼女を責めるのはお門違いだろ」
「黙れ!これが落ち着いていられるか。生命あふれるこの星の、よりによって多様性の中心でこんな環境破壊を起こしてしまったんだ。許されることじゃないぞ。わかってるのか」向井は立ち上がって一気にまくし立てた。いつもの雰囲気との落差に牧野は愕然とした。
そう言えば、サバククジラを調査している時、向井はこんな事を話していた。「はじめてこの惑星に降り立った時、俺は自分に誓った。この素晴らしい世界を守るためなら、どんな犠牲でも厭わない」と。あの時の真剣な表情と、今回の激高。間違いない。向井は過激環境保護主義者だ。
その時、いつも通りの落ち着いた声で近藤が言った。
「これは不可抗力ですよ、向井さん。考えてもみてください。これほど燃えやすいのなら、おそらくこの森では落雷などの自然現象でも同じような森林火災が日常的に発生しているはずです」
牧野もそれに賛同して言った。
「近藤さんの言う通りです。高濃度の酸素は森林火災の発生リスクを高める。にも関わらず、この森は焼け野原にならず何百万年も続いてきた。たぶんこの森は火災に遭ってもそれに耐える何らかのメカニズムを持っているはずです」
ようやく向井は少し落ち着きを取り戻した。
「……そうかもしれないな。声を荒げたりしてすまなかった」そう言って座席に腰を下ろした。
隊員たちはひとまずほっと胸をなでおろした。
森林火災の現場は機のはるか後方に遠ざかった。だが地平線上にそびえたつ黒煙の柱と、その根元で躍るオレンジ色の炎の輝きははっきりと見て取ることができた。炎は勢いを増し、火災は拡大を続けていた。
その上空には巨大な雲塊が湧き上がるように形成されていた。
「あれは……火災積乱雲だ」伊藤が言った。
火災積乱雲とは、大規模な火災で発生した上昇気流によって水蒸気を含む空気が上空に運ばれて発生する雲だ。それは煙に含まれる粉塵をはるか上空にまで運び上げるだけでなく、突風により火の粉を巻き上げ、さらには落雷によって森林火災をさらに広範囲に拡大させるおそれもあった。
だが、雨が降れば火災は一気に鎮火するかもしれなかった。
「地球で過去に起きた森林火災では、火災積乱雲からはあまり雨が降らなかったようだが、この星ではどうなるか。頼む、降ってくれ」伊藤が言った。
火災積乱雲は成長を続け、空一面を覆いつくした。ネオビーグル号の上空も分厚い灰色の雲で閉ざされた。にわかに風が強まり、機体を激しく揺さぶった。
突然、それは訪れた。
滝のような豪雨が叩きつけるように降り注ぎ、周囲の光景を白く塗りつぶした。
「やったぞ。これで火も消えるはずだ」伊藤が言った。
だが、その言葉と重なるように、雷光が閃き、雷鳴の轟きが空気を震わせた。
「頼む、これ以上この森を燃やさないでくれ。この炎を早く消してくれ」向井は両手を組んで天に祈った。