第37話 雲の中の世界
デザートスノーと浮遊生物。
新たに発見されたこの自然現象と生物群について調べるため、彼らは計画を変更し、さらに探検を続行することに決めた。隊員の間で反対意見はなかった。食料と機材の備蓄は復路を考慮してもまだ十分に余裕があった。
恒星船にいる清月総隊長も計画の変更を快諾した。
「この惑星のメカニズムを解明するまたとないチャンスかも知れない。是非とも可能な限り情報を収集してもらいたい。楽しみにしているぞ」
その日は残りいっぱいネオビーグル号の修理が続けられた。
さいわい損傷は比較的軽く、日が暮れる前に大方の修理は終わった。整備担当の松崎は破壊された部品を交換し、外板と窓には亀裂と裂け目を塞ぐため自己修復剤を塗布した。一番時間がかかったのは隅々にまで入り込んだ砂塵の除去で、これを排除するため自走式掃除機が一日中、機内のあちこちを走り回っていた。牧野たちは砂嵐で機体の周りに堆積した砂塵と、あらたにその上に積もり始めたデザートスノーをスコップで取り除く作業に追われた。
翌日。前日より小降りになったデザートスノーの中、ネオビーグル号は岩山から離陸した。
砂の海から島のように顔を出した岩山は、全体が白く雪化粧されていた。しかし、その周囲を取り巻く砂丘にはデザートスノーはほとんど積もっていないようだった。双眼鏡で拡大して見ると、砂丘の表面は沸き立つようにざわざわとうごめいていた。砂中に生息する大量のスナアミが砂の表面に降ったデザートスノーを片っ端から掻き集め、巣穴に取り込んでいるのだ。
空にはたくさんの浮遊生物が浮かんでいた。空高くから地上に向けてゆっくりと沈降していくそれらの生物を避けながら、ネオビーグル号は慎重に進んでいった。
向かう方角は居住区とは正反対の南だった。
機は少しずつ高度を上げていき、デザートスノーを降らせる乳白色の雲の中に突入した。
そこは浮遊生物たちの巣だった。
浮遊生物の多くは体が半透明で、白い雲の中では特に視認しにくかった。衝突を避けるため、レーダーを頼りに飛行しなければならなかった。
生物学者たちは窓の外に漂う様々な浮遊生物たちを観察し、記録に残していった。
右側の翼に浮遊生物がぶつかった。それは巨大なアメーバのような不定形の生物で、ぐにゃりと形を歪ませて翼に絡みつくかに見えたが、まもなく剥がれ落ち、後方に飛び去って行った。
機体の右側五百メートルしか離れていないところに、直径五十メートル程度の緑色の球体が浮かんでいた。それはネオビーグル号を追跡するかのごとく、しばらくの間、一定の距離を保ってついてきた。
「なんか気持ち悪いな。まさか俺たちを襲う気じゃないだろうな」伊藤が言った。
「こっちをじっと見てる。どこに目があるのかわからんが、たしかに視線を感じる」向井が言った。
緑色の球状生物は体表に生えた無数の小さな翅を繊毛のようにせわしなく動かして飛行しているようだった。だがネオビーグル号の飛行速度についていけなくなったのか、それはしだいに遠ざかって雲の中に消えていった。
飛行高度は三千メートルを超えた。
やがて行く手に、巨大なクラゲのような堂々たる浮遊生物が現れた。
まるでシャンデリア、もしくは空に浮かぶ城のようだ。傘の直径は二百メートルはある。傘の下からは青白く発光する触手が無数に垂れ下がり、そのうち何本かは空中を数百メートルもたなびいていた。
ネオビーグル号は触手との接触を避けるため、その生物の上を飛び越えた。その時、傘の上面に青灰色の植物が着生し、小さな森のようになっているのが見えた。雲の中に浮かぶこの森にはさぞかし奇妙な生物が暮らしていることだろう。
雲の中の住人は、悠然と漂う巨大な浮遊生物たちだけではなかった。
素早く動く影が前方を横切った。
カメラが撮影した映像をスローで再生すると、小型の飛翔動物の群れが映っていた。体長は一メートル。前後に細長い体型は魚に似ているが、胴体からは金属光沢のある二枚の翼が生えていた。体内のガスで浮かんでいる浮遊生物とは異なり、明らかに翼の生み出す揚力を利用して飛んでいた。
それよりも大きい飛翔生物もいた。体長五メートルほどもあるそれは大きく広げた翼で滑空しながら鋭い歯で巨大な浮遊生物から肉を囓り取っていた。
一体の浮遊生物にツバメくらいの小さな飛翔動物が群がっていた。その体色はメタリックな銀色でまるで鋼のブーメランのようだ。実際、その翼は鋭利な刃物だった。浮遊生物の周囲を飛び回りながらその翼で切りつけ、そぎ落とされた肉片を仲間同士で激しく奪い合っていた。
高梁はその生物をカミソリツバメと命名した。
機体に設けられた開口部から試料採取装置を外に差し出して、大気中を漂う微粒子を採取した。採取容器はすぐにいっぱいになった。その大半は浮遊性の微生物だった。顕微鏡下でうごめくそれらを見ながら高梁が言った。
「まさに空中のプランクトンだね。デザートスノーの正体はこれらの微生物の死骸や飛翔生物の糞が寄り集まって降ってきたもので間違いなさそう。つまり、地球の海のマリンスノーと同じようなものってことになるね」
地球のマリンスノーは海洋表層のプランクトンの死骸や糞が集まって海中を雪のように降る現象で、太陽光の届かない深海底の生態系を支えるのに大きな役割を果たしていた。それと同じように、デザートスノーも不毛の砂丘地帯で生態系を育むのに役立っていた。超巨大生物サバククジラが生息できるほどなので、その供給量は莫大に違いない。
大気中にこれほど大量の微生物が生息しているとは驚きだった。
ネオビーグル号は雲の上に出た。
眼下には一面、雲海が広がっていた。前方に目を転じると、巨大な積乱雲がうずたかく盛り上がり成層圏にまで達していた。その周囲では黒く巨大な飛翔生物たちが上昇気流に乗って悠然と輪を描いていた。体の両側についた広い翼をゆったりと波打たせ、大きく口を開けながら飛んでいる。翼開長は五十メートルはあるだろう。
「たぶんあれはクジラやイトマキエイのように、空中のプランクトンをろ過して食べているのだろう」
積乱雲は一つだけではなかった。
まるで大空にそそり立つ壁のように、地平線の東の端から西の端まで、いくつもの巨大な雲が立ち並んでいた。それは彼らの行く手を遮っているかのようだった。
「GPSで確認したら、ここは大陸横断山脈の真上のようだ。赤道付近から吹いてきた風が山脈にぶつかって、激しい雨を降らせているのだろう」伊藤が言った。
積乱雲の中では雷光が瞬き、ときおり稲妻が空を切り裂いて走った。その光が積乱雲の中に潜む奇怪な浮遊生物の影を浮かび上がらせた。長大な触腕をうごめかせる不気味なその姿は超巨大な深海イカを思わせた。
ネオビーグル号は林立する積乱雲の間をすり抜けるようにして飛行を続けた。
「この先、ちょっと揺れるぞ。みんな、しっかり席に着いててくれよ」伊藤が言った。
その言葉通り、周囲で荒れ狂う気流は機体を激しく揺さぶった。生物学者たちは観察を一時中断し、自分の体を座席にしっかりと固定した。機が雲の中に突っ込むと窓の外は暗闇に閉ざされた。飛行機嫌いの牧野は固く目を閉じ、必死に耐えた、だが絶えず襲いかかる揺れに気分が悪くなり、袋の中に何度も嘔吐した。ようやくネオビーグル号が難所を通過することには、牧野はすっかりやつれ果てていた。
「牧野さん大丈夫?これ飲んで」
高梁が手渡してくれたボトルの冷水を口に含むと多少気分がよくなった。
ふと窓の外を見ると、雲の切れ間から地上の様子が見えた。
そこは高山地帯だった。まだ大陸横断山脈の付近のようだ。険しく切り立った岩山が薄闇の中、激しい雨に打たれていた。黒々とした岩肌が剥き出しで、地球の高山のような氷河や残雪はまったくない。そんな陰惨な光景がどこまでも続いている。
降り続く雨は激流となり、山々を削りながら流れ下っていた。川の周囲には上流から押し流されてきた巨大な岩がごろごろと散乱していた。
だが、そんな世界にも生物はいた。
橙色や桃色などの毒々しい菌類のようなものが地面にへばりつくように生育し、所々で不気味な花園のように生い茂っていた。脚が異常に長い、巨大な節足動物のような生物が雨に打たれながらじっと立ち尽くしていた。それははるか昔に滅び去った文明が残した建設機械のように見えた。
「このあたりはいつも分厚い雲に閉ざされていて、衛星軌道上からの観測では地上の様子がよくわかっていなかったんだが、なるほど、こんな世界が広がっていたのか」向井が言った。
大陸横断山脈の上空には恒常的に積乱雲が発生し、山脈に豪雨を降らせていた。そのため地上はつねに薄闇に包まれ、植物が生育できない環境となっていたのだ。だが、雨粒とともに降り注ぐ空中プランクトンはこの地にも大量の有機物を供給し、それを糧として特殊な菌類や動物が生きていた。
しだいに雲は薄くなり、窓の外が明るくなっていった。
標高は少しずつ低くなり、山肌にも緑が目立ちはじめた。狂ったように険しい峡谷を流れ下っていた激流は穏やかになり、優雅に蛇行する中流域の川へと姿を変えていた。
ついに大陸横断山脈を越えたのだ。
前方には、白い霧に包まれて、濃緑の茫洋たる広がりが待ち受けていた。
それこそ、アルファ大陸南側の大部分を覆う巨木の森、大森林地帯の入り口だった。