第35話 岩山の怪物
橘が立ち止まり、牧野が指し示した方向を見た。
「……何かいるな。はやく機内に戻ったほうがよさそうだ」
橘は牧野の背中を押し、搭乗口へ急かした。
搭乗口を密閉し、エアロック内の砂塵を除去してから、除砂作業から帰還した四人は宇宙服を脱いだ。
「牧野さん、いったい何を見たんです」近藤が言った。汗で前髪が額に張り付いている。
「わからない。とにかく大きかった。この機くらいありそうだった」
「幻覚じゃないのか。吹雪や砂嵐の中では人は幻覚を見やすいと聞いたことがあるが」向井が言った。
「いや、私も確かに見た。のっそりとした動きだった」橘が言った。
「それにしても、今までいったいどこにそんな大型動物が隠れていたんだろう」向井が言った。
「そうですね。これまで何日もこの岩山で夜営していたのに、一度も現れなかったのは不思議ですね」近藤が言った。
「それはともかく、とりあえず防衛の準備はしておいたほうがいいだろう。この砂嵐では飛んで逃げるわけにもいかないからな」橘が言った。
攻撃的な巨大生物との遭遇も考慮し、ネオビーグル号には武器も搭載されていた。防衛ドローンが二機に、ミサイル、高出力レーザー、それに目くらまし用の閃光弾。どれも自衛を目的とした最小限の武装だった。
橘に確認したところ、防衛ドローンは砂嵐の中でも動作可能で、視界ゼロでも赤外線で周囲の状況を識別できるとのことだった。
さっそく一機を飛ばし、付近の偵察を開始させた。
ドローンから送られてくる赤外線映像を端末で確認していた橘が言った。
「いたぞ。あれか」
ネオビーグル号から百メートルほど離れた斜面の上に、周囲よりわずかに温度が高い領域が見つかった。約二十℃。外気温との差はわずかでじっとしていれば見つけられなかっただろう。しかしそれは動いていた。体長は約二十メートル。ずんぐりした体型とのっそりとした動き方は熊にそっくりだが、脚はどうやら八本くらいあるようだった。
橘はこの生物がネオビーグル号の周囲五十メートル以内に接近したら自動的に攻撃するようドローンに指示を出した。
「ずっとこのまわりをうろついてやがる。くそっ、あっちに行きやがれ」伊藤が言った。
熊に似た巨大生物はネオビーグル号の周囲から去ろうとしなかった。それは決して気分のいいものではなかった。隊員たちは不安げに窓の外を覗いたが、見えるのは視界を遮る砂塵の嵐だけだった。
はじめのうち、巨大生物は機から一定の距離を保ち、その周囲をぐるぐると回っているだけだったが、次第にその半径を縮めてきた。当初は見慣れぬネオビーグル号を警戒していたようだが危険性がないと判断したのだろう。
突然、闇の中で閃光がひらめいた。ついに怪物がドローンの防衛ラインを超えたのだ。高出力レーザーの閃光がストロボのように何度も瞬き続ける。
「馬鹿な、なぜ逃げないんだ。レーザーは直撃してるのに。ダメージも相当受けているはずだ」橘が言った。「仕方ない、出力を上げよう」
雷光のように強烈な光が炸裂し、一瞬、機外の闇を払って周囲の光景を浮かび上がらせた。その光の中で紫色の太い光の柱が怪物の巨体を貫くのがはっきりと見えた。
「おお、やったか?」伊藤が身を乗り出して言った。
だが怪物は死ななかった。
それどころか隊員たちがいるネオビーグル号に向かってさらに歩み寄ってくるではないか。
「こいつ、不死身なのか?何てタフな奴だ」向井が愕然とした口調で言った。
「橘、もっとレーザーの出力は上げられないのか」伊藤が言った。
「今やっている」
それでも怪物は止まらなかった。
「……砂嵐のせいだ。空中の砂塵がレーザーを遮って威力を弱めてるんだ。だが、それにしても標的を黒焦げにするのに十分な威力はあるはずなのに」
他の攻撃手段を検討したが、ミサイルの発射は論外だった。この距離で撃てば爆発に巻き込まれネオビーグル号そのものが破壊されてしまう。機体に搭載された高出力レーザー砲は飛行中の運用を想定された設計のため、機体下部に取り付けられていたが、それは今、深い砂の下に埋もれていて使用できなかった。
「携帯式のレーザー銃を用意しておこう。最悪の場合、それで応戦するしかない」
橘は機材庫から三挺のレーザー銃を持ってきた。それを向井と伊藤に手渡す。
「使い方はわかるよな」二人はうなずいた。
「私たちも何か武器になりそうな物を持っておいたほうが良さそうですね」近藤はそう言うと機材庫に向かった。牧野たちも後に続いた。
怪物はひたひたと距離を縮めてきた。
ついに、その巨体が窓のすぐ外にそびえ立った。
その体の表面はゾウのように皺だらけの硬い皮膚に覆われていた。ドローンのレーザーで狙撃された箇所はかなりの広範囲で黒く炭化していたにも関わらず、それは生きて動いていた。
怪物はネオビーグル号にのしかかってきた。
その重量を受けて機体が悲鳴を上げた。さらに天井からは激しく叩きつける音と、ガリガリと引っ掻く音がした。機体を殴りつけ、脚に生えた鉤爪で外装を引き裂こうとしているのか。
巨大生物から激しい打擲を受けながらも、ネオビーグル号は耐えていた。今のところは。
機内では万一の事態に備え、全員が武器を携帯して待機していた。
「そろそろ外に出て反撃すべきだと思うが」レーザー銃の黒い銃身を抱えた向井が言った。
「だめだ。今、外に出ると危険だ」橘は向井を止めた。
やがて怪物は攻撃を止めた。そして機体から離れた。
ほっとしたのもつかの間、怪物は姿勢を低くし、機内を覗き込むように窓に頭部を近づけた。
体全体の大きさに比べてひどく小さなその頭部に眼はなく、それどころか何の器官もついていなかった。ただ真ん中に肛門のようにすぼまった穴が一つあるだけだ。
「…………」
隊員たちは息を殺し、怪物ののっぺりとした不気味な頭部を見つめた。
橘たちはレーザー銃を構え、狙いをつけた。
ひくひくとうごめく穴が、まるで機内の臭いを嗅ごうとするかのように窓に押しつけられた。
次の瞬間、穴から太い筒状の物体が勢いよく飛び出し、硬質プラスチック製の窓をぶち破った。
窓を破った筒状の器官は、前縁に鋭いギザギザの突起が並んで生えていた。筒の中心軸からはピンク色の触手が伸び、震えながら花びらのように放射状に開いた。
「撃て!」橘が叫んだ。
彼女と向井と伊藤は怪物の頭部にたっぷりとレーザーを浴びせた。
花弁のような触手はたちまち煙を上げて黒焦げになった。それでも怪物は頭部をぐいぐいと押し込んでくる。窓に走る放射状のひび割れがさらに大きく広がった。
「みんな、窓から離れろ、こいつを使う」機械整備担当の松崎が言った。その手には大型の電動のこぎりがあった。機材庫から持ち出してきた金属加工用の工具だ。
「射撃止め!」橘が命じた。
レーザー銃の射撃が止まると同時に、松崎は唸りを上げる電動ノコギリを振りかぶった。そして機内に侵入した筒状器官めがけて振り下ろし、根元から切断した。
器官を切り落とされた怪物はあわてて窓から離れた。
貫通された窓の穴から暴風とともに大量の砂塵が機内に吹き込んできた。
ドローンの赤外線画像で確認すると、怪物はネオビーグル号から一直線に遠ざかり、山の稜線の向こう側に消えていった。それきり、怪物は戻ってくることはなかった。
ハンマーを握り締めていた牧野もようやく緊張を解いた。
向井が、床に残された筒状器官を拾い上げながら言った。
「この筒状の吻を獲物の体内に撃ち込んで、血や肉を吸い取って食べているのかも知れない。それにしても、なんて耐久力の強い生物だったんだろう。不死身なのかと思ったぜ」
「不死身……そうだ、何かに似ているなと思ってたけど、あいつの姿はクマムシにそっくりだった。大きさが違いすぎて今まで気付かなかったけど。脚も八本だし、口の感じもなんか似てる」高梁が言った。
クマムシは言わずと知れた不死身の生物だ。大きさは一ミリ以下と小さく、土の中などに生息しているが、クリプトビオシスと呼ばれる休眠状態になると乾燥や凍結、放射線などにきわめて高い耐性を示す。
「……そうだな。少し似てるかもしれないな。ひょっとしたら今までは砂の下などで休眠状態にあったのが、砂嵐が刺激になって活性化した可能性もある。だから今まで見つからなかったのかもしれない」牧野が言った。
窓に開いた穴はシートで応急補修して、とりあえず砂の侵入を防いだが、機内はすでに手がつけられないほど砂だらけになっていた。
再び怪物が戻ってくることを警戒し、防衛ドローンに周囲を偵察させ、さらに二名ずつ交代で一晩中見張りを続けながら、隊員たちは不安な一夜を過ごした。だが、それ以上、何事も起こることなく時間は過ぎていった。
次の朝、砂嵐が止んだ。