第32話 砂の海
アルファ大陸北部に大きく突出した亜大陸。
その大部分は乾燥した気候で、特に海から遠く離れた内陸部には広大な砂砂漠が横たわっていた。
そこは文字通り砂の海だった。岩石の浸食により生み出された粒径1ミリにも満たない微細な砂の粒子が風に吹き寄せられて大量に寄せ集まり、高さ百メートルを超える巨大な砂丘の連なりを作り出していた。
そこはあらゆる生命にとって過酷な環境だった。ほとんど雨は降らず、昼間は摂氏五十度を超える猛暑と強烈な日差しに焼かれるが、夜になると一転して氷点下にまで冷え込む。水分の欠乏と激しい昼夜の温度差そして絶えず流動する砂はいかなる植物の生育も許さず、そこはまさに不毛の地だった。水と食料も得られないそんな場所に、生物はほとんど生息していないはずだった。
だが、そこには超巨大生物がいた。砂漠クジラだ。
これまで発見されたのは砂に残された移動の痕跡と吹き上げる砂だけという、この謎に包まれた巨大生物の正体をつかむため、絶滅動物学者の向井は調査に参加したのだった。
そして、ついにこの日、ネオビーグル号は砂漠クジラが生息すると推測される砂丘地帯に入り込んだ。
雲一つない蒼穹の下、はてしなく続く真っ白い砂丘。
ネオビーグル号は青と白にくっきりと二分された天地の狭間を飛行していた。
砂丘はまるで打ち寄せる波のように起伏を繰り返しながら地平線の彼方まで延々と続いている。その光景は幻想的でありながらも単調で、見る者を催眠術にかけるようだった。
向井は真剣な面持ちで茫洋たる砂の海に視線を注いでいた。
砂漠クジラの存在を示すいかなる兆候も見逃すまいとしているのだ。
砂丘地帯に入ってからすでに二時間が経過していたが、いまだ砂漠クジラとの遭遇はおろか、噴砂や砂に残った航跡のひとつも見つけられていなかった。
「なかなか見つからないね。今日はもう諦めようよ」高梁があくびを噛み殺しながら言った。
兆候を見つけ出すには一つでも多く目があったほうが良いということで彼女も協力させられていたが、乗り気でない事を隠そうともしていなかった。
「こらこら、音を上げるにはまだまだ早すぎるぞ、なんせ砂丘地帯は広いからな。これからが本番だぞ」向井が言った。
向井の言うことはもっともだが、退屈しきっている高梁の気持ちもわからないではなかった。牧野も代わり映えのしない砂の海を眺めていると、何度か睡魔に襲われそうになった。
眠気を覚ますため、牧野は向井と話しながら見張りを続けようと考えた。向井については以前から気になっていたことがあるので、ちょうどこの機会に本人から聞いてみることにした。
「向井さん、聞きたいことがあるんですが」「何だ」
「どうして向井さんはこんなにも砂漠クジラに入れ込んでるんですか。他の超巨大生物とは明らかに違う特別なこだわりを感じます」
「そうだな……。そもそも俺が絶滅動物学者を志したのは、鯨に魅せられたからなんだ。砂漠クジラじゃない。地球の鯨だ。俺たちが生まれるほんの二百年前まで地球にいた鯨だ。子どもの頃、はじめてその存在を知って以来ずっと、俺はたった二百年の差で地球史上最大の巨大生物を見逃したことが悔しくてたまらなかった。あの恐竜よりも巨大な哺乳類がつい最近までいたんだぞ、信じられるか?俺は博物館に展示された全身骨格標本を見ては、それが生きて大海原を泳ぎ回っていた様を想像した。そして、どこかの遠い海で生き残っていた最後の鯨が発見される日を夢見た。だが、そんな日は訪れなかった」
「鯨は完全に絶滅しましたからね。動物園で飼育されている個体さえ残っていない」
まれに遠洋航海の船員が鯨らしき巨大生物を目撃したという怪しげな噂が広まることはあったが、全世界の海で幾度となく行われた学術調査では鯨の生き残りが見つかることはなかった。
「そう、鯨はこの世から消えた。俺も大人になる頃にはようやくその現実を受け入れたよ。失われてしまったものはもう戻らない。しかし、今ならまだ忘却を食い止めることはできる。残された標本や遺物を研究し、絶滅した彼らがどんな存在だったかを可能な限り正確に再現し、人類の記憶に留めることで。俺たち人類は彼らが存在したことを、彼らを自らの手で滅ぼしてしまったという事実を絶対に忘れてはならない。だから俺は絶滅動物学者になったんだ」
「……でも、あなたはこの星に来た」
「そうだ。俺はずっと地球に残り、鯨や絶滅動物たちの研究を続けてもよかった。だけど清月さんから提示された選択肢はあまりに魅力的だった。生きて活動している巨大生物を研究できるという話は。君もそうだったんじゃないのか、牧野君。地球での君の研究テーマは酸素濃度低下による生態系の変遷だったね」
「よくご存じですね」
「この星系に来るまで恒星船の旅は退屈だったからね。隊員全員の経歴を読む時間は十分にあった」
「おっしゃるとおり、僕は日本国内で各地の生態系の変化を調べていました。種多様性の変化について興味深いデータは取れましたが、正直、気の滅入る毎日でした。年単位で生物がどんどん消えていくのがわかりましたから。一度消えてしまった種は二度と戻ってきませんでした」
「俺は地球の墓碑銘を刻み、君は看取り人を務めていたというわけだ」向井は窓の外を見つめたまま静かに言った。
「……この星は素晴らしいな、そう思わないか、牧野君」向井は言った。
「はい。どこも命に満ちあふれている。かつての地球もきっとこんな世界だったんでしょうね」
「そうだろう。いや、地球以上だ。はじめてこの惑星に降り立った時に俺は自分に誓った。この素晴らしい世界を守るためなら、どんな犠牲でも厭わないと。あさぎりを決して地球のようにはさせないと」向井は牧野の目を見て言った。その気迫はただならぬものがあった。
若干気圧されながら牧野は言った。
「大丈夫ですよ。みんなそう思っていますから。居住区の運営も環境負荷が最小限になるように設計されていますし、日々の生活でもみんな細心の注意を払ってるじゃないですか。危険な生物といえども、駆除するのは人に危害を加えた時だけに厳しく制限されています。この星の環境と共生する方針に反対する人なんていませんよ、きっと」
「たしかに今はそうだ。だが、この先、世代が変わり人口が増えた時、何が起きるだろうか。俺たちは無惨な地球の姿を知っている。だから自然をかけがえのない貴重な宝物だと感じている。だがこの世界で生まれ育った子供達はこの先どう感じるようになるだろう。彼らにとって自然とは当たり前のものでしかなく、そこに住む巨大生物は単なる排除すべき敵と見なすようになるかもしれない」
向井の指摘はもっともだった。人の価値観は移ろいやすい。
「そうならないように、僕たちの世代がしっかり教育しないと」
「まったくそうだ。結局、それが最善の方法なのだろうな」
そう口にしたものの、向井がその言葉を心から信じていないのは明白だった。
それからさらに一時間半が経過した頃。
「うん?……あれ、噴砂じゃないかな。たぶんそうだと思うけど」高梁が窓の外を指さして言った。
「どれだ。見せてくれ」向井は高梁の近くの窓に移動して確認した。
たしかにそれは砂漠クジラの噴砂だった。
向井は操縦席に呼びかけ、調査機に搭載された望遠レンズでそれを撮影させた。各自の端末に転送された映像を確認すると、地平線上の大気のゆらぎの向こう、はるか彼方の砂丘の上空に噴水のように大量の砂塵が吹き上がっているのが見えた。
「あっちだ。急いで向かってくれ」
向井に言われるまでもなくパイロットはすでにネオビーグル号を噴砂に向かって加速させていた。