第29話 ハリジゴク
牧野たちが次に出会った超巨大生物は、センリムカデよりも異様だった。
それはヤマアラシのように背中に大量の棘を生やした生物だった。棘の一本一本は大木に匹敵するほど大きく、その直径は根元の部分で約二メートル、高さは五十メートル以上にも及んだ。
大木サイズの棘を無数に林立させたその姿は、遠目には枯れ木に覆われた小山のように見えた。実際に、衛星軌道からの観測では、その超巨大生物は沼地に浮かぶ島と誤認されていた。
牧野たちはその超巨大生物にハリジゴクと名付けた。
まずはじめにリモートカメラを投下して予備調査を行い、安全性が確認されてから着陸して詳細な観察や組織サンプルを採取することになった。
リモートカメラで観察する限り、ハリジゴクは大人しい生物だった。動きは鈍く、地面すれすれの位置についた頭部は体全体のサイズと比べると非常に小さかった。そして、泥沼の水面を覆うベトベトした藻をすするようにして食べていた。ためしにリモートカメラをフラッシュさせてみたが、まったくの無反応。脇目もふらず暗緑色の藻を貪っているだけだった。
危険性は極めて低いと判断され、着陸調査の許可が下りた。
ネオビーグル号から降りた牧野と向井は、ぬかるみに足を取られながら超巨大生物の周囲をぐるりと歩いて回った。
湿地は不気味な場所だった。葉も枝もない柱状の植物が、緑色の煙突のようににょきにょきと突っ立っている。その組織は海綿状で握ると水がにじみ出た。沼地の水面はペンキを流したように藍色を帯びていた。おそらく微生物が増殖しているのだろう。あとで高梁に分析してもらうため、牧野は沼地の水のサンプルを採取しようとした。その時、牧野の接近に驚いたのか、足下から何かが急に飛び出し、沼地の水面を波立たせながら泳ぎ去って行った。
当然だが、ここにはカエルも水鳥も鳴く虫さえもおらず、一帯は重苦しい沈黙に支配されていた。それを破るのはハリジゴクの食事の音だけだ。超巨大生物は皺だらけのくちびるを収縮させ、ずるずると下品な音を立てて藻を吸い込んでいた。
二人はハリジゴクの体を回り込み、その後ろ側にたどり着いた。そしてその巨体のすぐ側まで歩み寄った。目の前にそびえる超巨大生物の皮膚は灰色の壁のようで粘液に濡れていた。牧野はメスを取り出すと、分厚い皮膚から一片の組織サンプルを切り取り保存袋に入れた。灰色のぶよぶよした肉の塊だった。
頭上には長さ五十メートルを超える巨大な棘の群れがそそり立ち、彼らの上に影を落としていた。この棘はらせん状に捻じれながら真っすぐに伸びていて、地球にいたイッカクの歯に似ていると向井は言った。
棘の表面には地衣類のようなものが房になって着生していた。その一部はロープのように地面付近まで垂れ下がっていた。試しに向井が引っ張ってみると意外と強度があり、全体重をかけても切れることはなかった。
「これを手がかりに登れそうだな。よし、行ってみよう」
止めるまもなく、向井は地衣類のロープをたぐりながら器用に巨大生物の背中によじ登っていった。向井のフットワークの軽さは異常だった。彼ほど体力に自信のない牧野は地上で待機することにした。密生する棘の中に分け入っていった向井は何かを調べている様子だった。
太陽は西に傾き、まもなく日没が訪れようとしていた。
「そろそろ戻ってこいよ。暗くなるぞ」調査機内から伊藤が通信で呼びかけてきた。
「向井が上に登って何か調べてる。もうちょっと待ってくれ」牧野は返答した。
湿地帯の上を発光する小動物が飛び交いはじめた。記録映像で見たホタルに似ていた。だが光の色はずっと強烈で、飛びながらその色調を赤から青、そして緑へと連続的に変化させていた。
「すまん、待たせたな」ようやく向井が棘の間から姿を現し、地衣類を伝って降りてきた。
「何してたんです」
「共生生物を探してた。これまで見つかった超巨大生物の多くに共生生物がいたからな。とりあえずこいつを採集できた」そう言って、背負ってきた袋の口を開き、牧野にその中を覗き込ませた。硬い外骨格に覆われた屈強そうな生物の姿がそこにはあった。
「ハリジゴクの背中に口吻を突き刺して体液を吸っていた。ダニやノミの類だな」向井は言った。ダニやノミと言っても体長は60センチ以上ありそうだった。そいつは袋の中で棘だらけの脚を振り回してもがいていた。こんなのにしがみつかれたらたまったもんじゃない。
その夜は湿地帯の付近で野営することになった。
沼地から少し離れた高台にネオビーグル号を着陸させた。見晴らしが良く、ここなら危害を加える恐れのある巨大生物が接近してきてもいち早く発見することができるだろう。機体周辺には改良型防衛ドローンを配置して万一の事態に備えた。
その夜は惑星あさぎりの二つの月がどちらも天高く昇っていた。二つの月が放つ月光に照らされて、眼下に広がる湿地帯は白黒の陰影となってぼんやりと浮かび上がっていた。
隊員達は機外に折り畳み式のテーブルと椅子を持ち出し、そこで夕食を取ることにした。
「背びれの巨大生物に、センリムカデにハリジゴク。初日の調査結果としてはまずまずだな。いずれも非常に興味深い生物だった。あまりゆっくり観察できなかった背びれの生物はできれば帰路に調査したいな」向井が言った。その手には温かいお茶の入ったマグカップがあった。
「明らかに、南に下るほど超巨大生物の生息数は増えていますね」培養鶏肉のトマト煮に舌鼓を打ちながら近藤が言った。
「そこの湿地にいるハリジゴクだけど、すごい武装だったな。あの棘は外敵から身を守るためのものだと思うけど、あんなのにも何か天敵がいるのだろうか」牧野が言った。
「おそらくオニダイダラだろうな。この付近ではまだ今のところ見つかってはいないが。きみもあれがモリモドキを捕食する場面を目撃しただろ。あの圧倒的な破壊力が獲物となる生物に防御手段を進化させたのだよ」向井が言った。
「そうかもしれませんね」牧野は言った。しかし、向井の答えに完全に納得したわけではなかった。何かしっくりこないものを感じていた。
「それにしても美味いな。ビールが欲しくなってくる」マダラトトル肉のステーキを頬張りながら地質学者の伊藤が言った。ちなみに今回の探検では飲酒は禁止されていた。
料理は持ち回りで担当することになっていたが、今夜の料理を用意したのは機械担当の松崎という男だった。ネオビーグル号やその付属機器類の整備とメンテナンスが今回の南方探検での彼の主な仕事だったが、料理の腕も確かだった。今は機内に戻り、キッチンでデザートの用意をしていた。
安全保障班の橘も皆と同じテーブルに着き、無言で箸を口に運んでいた。その傍らには銃が立て掛けられていた。彼女はキャンプを包む闇に絶えず視線を走らせ、食事中でも警戒を怠っていなかった。
「伊藤さん、明日の予定はどうします」牧野は伊藤に訊いた。
「今日に引き続き、向井さんに作ってもらった超巨大生物リストを予定どおり巡回するつもりだ」
そう言って伊藤は端末を机の上に置いた。
画面にはアルファ大陸北半球の地図とネオビーグル号の飛行経路が表示されていた。
アルファ大陸は広かった。その北半球側は低緯度地帯で大陸を東西に横断する大山脈で、南側とは隔絶されていた。大山脈の北はユーラシア大陸に匹敵するほど広大な平原となっており、東西と北に向かって広がっていた。北に向かって広がる部分だけでもオーストラリア大陸ほどの面積を占めていたが、その大部分が砂漠地帯であり、そこが今回の旅の目的地だった。さらにその北側にはインドほどの大きさの半島がたんこぶのように突き出ていたが、その北端近くに居住区と最初に設置したベースキャンプがあった。過去三年間のこの惑星上での活動は、半島の北端付近の周囲百キロ程度の範囲に制限されていて、その外に出ることはなかった。
地図上に黄色い実線で表示された飛行経路は、半島を南方向に下り、いったん砂漠地帯手前の乾燥した草原にまで達してから西に方向を転じ、半島の付け根あたりの西海岸付近にまで達していた。そこが現在地の湿地帯だった。西海岸付近の狭いエリアは海岸に沿って湿潤な気候となっていて湿地帯や森林が点在していたが、少し内陸に入り込めばそこはもう砂漠地帯だった。一日の移動距離は約千キロだった。
今日はたったのこれだけかと牧野は思った。今日一日、ずっと飛び続けたわりに移動距離は短かった。
着陸艇を使えばたった一時間程度で飛び越えられる距離であり、この惑星上空を周回する恒星船ならほんの数分で通過してしまう距離に過ぎない。
だが、低空から地上の生物相や地形を観察しながら飛ぶ調査専用機にそれほどの速度は必要なかった。それに水を電気分解して作り出した水素を燃料としているので、水さえ補給できれば事実上この惑星上のどこへでも行くことができるし、飛行の安定性や積載能力も高く便利な機体だった。
「明日は西海岸沿いに真南にさらに千キロ進む。そこは海岸付近まで岩石砂漠が広がっている。ここで地質調査と乾燥地帯の生物相の観察を行う予定だ。みんな、明日に備えて今日は早めに眠るように」伊藤が言った。端末の画面に触れると明日の飛行予定経路が点線で表示された。
その時、高梁がぽつりと言った。
「あ、なんかいる」
「え、どこに」テーブルを囲んでいた一同は緊張して周囲を見回した。
「ほら、あそこ」そう言って高梁が指さした先は、二つの月が昇る空だった。
「……何も見えないが」橘が言った。
「ほら、よく見て……。あ、今、星の光が隠れた」高梁が言った。
高橋の言う通り、星の光を遮りながら夜空を移動している影があった。
「雲、じゃないのかな」上を見上げながら、向井が半信半疑の口調で言った。
「いや、雲にしては速くないか」伊藤が言った。
近藤は暗視機能付き双眼鏡を取りに機内に入った。
その時、影が二つの月のうち一つを覆い隠した。
その一瞬、影の輪郭がはっきりと夜空に浮かび上がった。
それは巨大な翼をもった生物だった。高空を飛行しているためか何の音も聞こえない。それは夜空を滑るように横切って隊員たちの視界から飛び去った。その間、誰も声を発するものはいなかった。
「ありましたよ双眼鏡、これで見れば正体がわかるでしょう」
近藤が双眼鏡を手に機内から戻ってきた時には、すでに謎の超巨大飛行生物の姿は影も形もなかった。