第2話 旅立ちへの誘い
応接室のソファで待っていたのは、見知らぬ男性だった。
年齢は50代前半くらい。運動選手のように体格が良く、高価なスーツを完璧に着こなしている。見るからに精力的な印象だった。
男性は立ち上がってお辞儀をすると、深く響く声で言った。
「牧野さんですね?突然お邪魔して申し訳ない。はじめまして、私は清月と申す者です」
「……どうも、牧野です」
牧野は会釈しつつ、端末に送信されてきた清月のプロフィールに目を落とした。
清月鉱平、経済産業省、系外長期的プロジェクト推進室室長
経産省の官僚がいったい自分に何の用があるのか、牧野は訝しんだ。
「不審に思われるのもごもっともです。単刀直入に申しましょう。牧野さん、私はあなたをスカウトしに来たのです。現在、計画されている太陽系外調査隊の一員として」
「ええ?」牧野は絶句した。
清月と牧野はソファに腰掛けて話を続けた。
「セドナ丸という恒星間移民船はご存じですか?」
「はい、百年以上前に惑星あさぎりに向かった船ですよね。例の超巨大生物に遭遇して消息を絶ったという……」
「その通り。我々は件の超巨大生物の星に第二次調査隊を送り込もうと考えている。牧野さんにはそれに参加していただきたいのです。セドナ丸通信途絶の原因を探るとともに、将来的に計画されている大規模移民に先立ち、現地の環境を詳細に調査するためです」
「あの星にですか」
牧野もセドナ丸の調査隊が送った映像は見たことがあった。地球とは異質な動植物相や、映像の最後に一瞬だけ映る巨大な生物らしきものには以前から興味を引かれていた。
「あれほど人類の居住に適した星はなかなかありません。そう、大気成分に関しては酸素濃度が25%もあり、14%しかない今の地球よりも適していると言えます。酸素だけでなく水も豊富で、気候は温暖。専門家の意見では、テラフォーミングはまったく不要だということです。テラフォーミングというものはあまりにも時間と経費がかかりすぎ、しかも成功する確率は低い。イギリスが開拓した惑星ニューホームの悲劇はご存じでしょう」
無論、知っていた。最初期の恒星間開発で植民された星だ。
ぎりぎりハビタブルゾーンの内側を公転する砂漠の惑星で、少し暖かい火星といった程度の星だ。今なら見向きもされなかっただろうが、当時は太陽系からの距離も比較的近かったこともあり、着陸を成功させたイギリスが領有権を主張してテラフォーミングを開始した。
極の氷を溶かし、大気中に温室効果ガスを放出し、地表に地衣類の胞子を散布した。当時の惑星工学の粋を結集した大規模なプロジェクトは数十年間継続された。地球からは五回、移民船が出発し、合計25万人が移住した。
はじめの二十年間は順調に思えた。だが、ある段階に達したところで地球化の進展はぴたりと止まり、逆戻りを始めた。気候は再び寒冷化し、酸素濃度は乱高下を繰り返した。移住者の多くは地球への帰還を望んだが、新たに恒星船を飛ばすだけの余力はニューホームの社会には残されていなかった。すべての技術と労力が、環境悪化を可能な限り和らげるために費やされていたからだ。テラフォーミングの即時打ち切りと地球への撤退を主張する帰還派が台頭して開発推進派のニューホーム政府と対立し、やがてそれは内戦へと拡大していった。不毛な戦闘によりテラフォーミング施設も宇宙船も破壊され、寒冷な砂漠の星に取り残された25万の人々は非業の死を遂げた。
「地球がますます人類の生存に適さない星になっていく現在、あの惑星の価値は高まる一方です。獲得に向けて各国はすでに水面下で動き始めていると言います。しかし、あの惑星に向けてはじめて無人探査機を飛ばしたのも、あさぎりという美しい名を与えたのも我が国です。よってこの日本こそ、あの星を領有するのに相応しい。そう思いませんか?」
「そうかもしれませんね。ところで、私の役目というのは?」
「あなたは生態学を専攻しておられる。あなたには生態学者の視点から、惑星あさぎりの自然環境を包括的に調査、分析していただきたいのです」
未知の惑星の生態系を調査する。
生物学者として、これほど胸がわくわくすることがあるだろうか。
だが、まだほとんど実績の無い自分がこんな栄誉に浴しても良いのだろうか。それに、住み慣れたこの世界を離れ、おそらくもう二度と戻ってくることはできないだろう。知り合いや親族とも永遠に別れることになる。酸素濃度が低下し居住に適さなくなりつつあるとは言え、やはりこの地球は自分が生まれ育った故郷なのだ。離れがたい思いは強かった。
「即答しろとは言いません。あなたの人生に関わる話です。十分に考えて決断してください。プロフィールに記載したアドレスに連絡をくだされば、いつでも相談に乗りましょう。お知り合いやご家族ともよく話し合ってから決めて下さい」
そう言って、清月はソファから立ち上がった。
「短いですが、今日はこれで失礼させていただきます。最後に一言だけ言わせて頂きますが、私個人の考えとしては、あなたは行くべきです。あなたはここで生態系の断末魔を記録し続けるだけの日々に倦んでいる。もちろん、それも大切な研究です。ですが、あなたの前には今、未知の世界への扉が開かれようとしているのです。限りない謎と多様性に満ちた新世界への扉が。ここで挑戦しなかったら、あなたはこの先、人生を意義あるものにする最大のチャンスを逃したことを一生悔やむことになるでしょう。……では、ご連絡お待ちしています」
清月は握手を求めた。牧野はその手を握り返した。
革のように固く、力強い手の平だった。手首には黄金の高級腕時計が光っていた。
その夜、試験場から帰宅中も、牧野は悩み続けていた。
行くべきか、行かざるべきか。
牧野は任期付きの研究員だった。この試験場での任期も今年で終わる。その先の進路は未定だった。任期付きの研究員として数年単位であちこちの研究所を転々としながら、海外の大学でポストを得るための実績を少しずつ積み重ねていく。将来の計画について、昨日までは漠然とそう考えていた。
しかし、清月の訪問がすべてを変えてしまった。
夕方の町を駅へと向かって歩いている途中、公園の横を通りかかった。
今では珍しく、この公園の一部には手つかずの林や草むらが残されていた。そこではドーム外では絶滅した貴重な昆虫の姿を見かけることもあり、牧野が気に入っている場所だった。
その時、牧野はある光景を目にして愕然とした。
噴霧器を手にした作業員が、公園の樹木に向かって薬液を噴霧していたのだ。
液体をかけられた木から、何かがばらばらと落下していた。土の上で翅をばたつかせて苦しんでいるのはセミだった。それも今日では希少なアブラゼミだ。牧野は思わず作業員に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待ってください!この虫が何か知ってるんですか?絶滅危惧種のアブラゼミなんですよ。駆除するなんてとんでもない!今すぐ止めてください」
作業員の中年男は手を止め、怪訝な顔で牧野を見返した。
「数日前からこの公園で害虫が発生してるって市民から苦情が寄せられてましてね」
「セミは害虫じゃありません」
「気持ち悪い虫がいて子供を公園で遊ばせられない、虫の騒音でストレスが溜まるって、付近の住民はみんな困ってるんですよ。それとも、この虫が人の役に立つとでも言うんですか?セミ……でしたっけ、こんな茶色くて気持ち悪い虫、いないほうがいいじゃないですか」そう言って作業員は再び殺虫剤を噴霧しはじめた。
「おい、やめろ」牧野はノズルを持つ作業員の手をつかんだ。
「放してください。作業を邪魔するんなら、警察に連絡しますよ。こっちは正式に市の委託を受けて作業してるんだ」
仕方なく、牧野は作業員から手を放した。
公園から去り際、近所の住人らしき親子連れが話しているのが聞こえた。
「よかったわね。これでこの公園もきれいになるわ。虫がたくさんいて不潔だったけど、あのおじさんが全部退治してくれたから、これからは安心して遊べるわ」
「あの小さい虫、何だっけ、アリ?あれもいなくなった?」子供が親に言った。
「きっといなくなったわ」「よかった」
そうなのだ。これが今日、ドーム都市に住む一般的な人間が昆虫や他の生き物に対して示す反応なのだ。
牧野のように他の生物に関心を持つ人間は、今の世の中では極めて少数派だった。
酸素ドームの中に閉じこもり、外部の自然から隔離されて何世代も生きてきた弊害なのだ。ごく一部のペット動物を除き、人は生き物を愛でることを忘れてしまっていた。人間の管理下にない野生の生物はすべて嫌悪と恐怖の対象だった。
人類は自然から見放されると同時に、人類もまた、自然を必要としなくなっていた。両者の間の溝がこれほど深くなった時代があっただろうか。牧野はその事に深い悲しみを感じる数少ない人間だった。
地球を拒絶しつつ、この地球の上で暮らしていく。そんな矛盾した不安定な状態が長く続くとは思えなかった。脆弱な酸素ドームの中に閉じこもって、人類はあと何年生き続けることができるのだろうか。
牧野は夕日が射し込むドームの高い天井を見上げた。
酸素ドームの樹脂パネルはところどころ劣化してひびが入り、応急処置の継ぎ当てだらけだった。その天井のすぐ下を、空気漏れを検知する自動巡回ドローンの黒い影が飛び交っていた。それはまるでドーム都市という死にかけた巨人にたかる蠅を思わせた。
この場所には未来がない。牧野は寒々とした直感に震えた。
一週間後、牧野は清月に連絡を入れ、惑星あさぎり第二次調査隊に参加することを正式に伝えた。