第21話 人の営み
飯塚は妊娠八ヶ月目だという。
お腹が大きくなるにつれてきつくなった制服の代わりに、今の彼女はゆったりとしたマタニティドレスを着ていた。少年のように中性的で快活だった彼女の妊婦姿に、牧野はようやく慣れてきたところだった。
牧野は飯塚に、採集してきたバラムンノキの擬虫葉を見せた。
「へぇ、葉っぱの芽が蝶の蛹みたいになってるんだね。不思議。これ、生きてるの?」
「ああ、まだ枯れてない。枝を水に漬けておいたら明日にでも翅が開いて飛び立つんじゃないかな」
「羽化しそうになったら教えてね、見てみたい」
「わかったよ。ところで、歩き回ったりして大丈夫なのか?」
「横になってたらかえって辛いのよ。適度な運動も必要だしね。……あっ」突然、飯塚は顔を歪めた。
「どうした」
「今、お腹のなかで赤ちゃんがガンガン蹴ってる……。ほんと、父親似でやんちゃな子なんだから」彼女は苦しそうだが同時に幸せそうな表情で微笑んだ。
彼女のお腹にいる子、その父親は植物生理学者の近藤だった。
見かけは小太りで風采の上がらない中年男の近藤だったが、気さくで面倒見のいい性格からか、意外と女性からは人気があった。飯塚の妊娠をきっかけに彼女とは正式に結婚していた。
牧野も飯塚とは仲が良かったが、それは友人としてであり、互いの間に恋愛感情は一切なかったので、友人同士の結婚を素直に祝福した。
じつは現在、妊娠している女性隊員は飯塚だけではなかった。
この居住区では今まさにベビーブームが起きようとしていた。
理由は昨年、総隊長がついに産児制限を解禁したからだった。
地球を出発して以降、隊員たちは子供を作ることを固く禁じられていた。
恒星間飛行が胎児の発育に悪影響を及ぼすためと、資源や空間の限られた恒星船内では新しく増えた人間を養う余裕がなかったからだ。もちろん男女で交際する自由は認められていたが避妊は徹底されていた。
その後、目的地に到着し、大部分の隊員が惑星上に降りて居住区を建設しはじめた頃から、隊員たちの間に子供を持ちたいという要望が高まり始めた。
しばらくは時期尚早として却下されたが、食料と水の安定供給が可能となり居住区の社会活動が軌道に乗り始めたことと、その間、災害や危険巨大生物の襲来もなかったことから、総隊長と幹部隊員たちの話し合いの結果、ついに長く続いた制限は撤廃された。
その直後、隊員の半数以上が結婚した。そして結婚した女性隊員の多くが体内に新しい命を宿した。
あまりに多くの女性隊員が同時に妊婦となることで、労働の担い手が減少し居住区社会が機能しなくなることを恐れた幹部たちから、自制を呼びかける声明が出されたほどだった。
この急激なベビーブームは隊員たちの健康をモニターしている医療AI、通称ドクターにとっても想定外の事態だった。
ドクターは人口の急激な増加を防ぐため総隊長に以下のような提言した。性衝動を抑制するための薬剤を飲料水に混ぜて隊員たちに摂取させ、さらには日数の浅い妊婦については一定の割合で中絶を行うべきであると。
当然ながら総隊長は激怒し、この提案を却下した。
「我々は人間だ。家畜じゃない。自分自身の意志で自らをコントロールできる存在だ。人間を馬鹿にするのも大概にしろ」
それに対し、ドクターは皮肉たっぷりにこう言ったという。
「そうですか。わかりました。しかし私はこの状況を見ていると、どうしてもオーストラリアのウサギを思い出してしまうのです。19世紀にオーストラリア大陸に持ち込まれたかの齧歯類は新天地で爆発的に数を増やし、現地の植物を食い尽くして環境を破壊したそうです。最後には持ち込んだ当の人間からウイルスで駆除される始末。あなたたちがウサギと同じように本能のまま振る舞い、自滅することのないよう祈るばかりです。まあ、決定権のない私にできるのはあくまで提案することだけですが……」
ドクターは人間を下に見ているのを隠そうともしなかったので、隊員たちからは嫌われていた。擬似人格の設定を書き換えるべきだとの声も出ていたが、複雑なプログラムに手を加えることで能力が低下するおそれもあったので、今のところはそのままにされていた。
野外調査から戻った牧野がこれから会いに行かなければならないのも、そのドクターだった。野外調査から戻った隊員は必ず診断を受ける決まりになっていたからだ
飯塚や堀口と別れた牧野は、研究室に荷物と生物サンプルを置くと、その足ですぐに診療所に向かった。
着陸後初期のベースキャンプでの研究から、当初、惑星あさぎりの微生物は人体に感染しないと考えられていた。DNAの塩基の違いからウイルス感染はありえず、細菌に相当する微生物も人体感染に特化した進化を遂げているわけではなかったからだ。
しかしその後、この星の微生物による感染例が発見された。
ある隊員が足の痛みを訴えて診療所に運ばれた。診断の結果、彼の膝から下の皮膚の一部に壊死が見られ、患部からはアメーバに類似した微生物が検出された。未知の微生物だった。
この微生物は、人間の細胞だろうがプラスチックだろうが、様々な有機化合物を手当たり次第に分解して吸収する性質をもっていた。さいわい増殖は遅く、既存の消毒液で簡単に殺すことができたので大事には至らなかったが、その隊員の足には痛々しい傷跡が残った。
その数日前、隊員は地質調査のため居住区の外に出て、沼地の泥に膝まで浸かったという。
この件は、惑星あさぎりの微生物にけっして油断してはならないという教訓になった。
さらに、アレルギーも報告されていた。
この星の大気に含まれる微粒子が原因らしかったが、その粒子の正体や発生源は不明だった。顕微鏡での観察から、花粉または藻類の胞子のような生物由来の組織の欠片と推測された。それは一部の隊員にまさに花粉症のような症状を引き起こしていた。それ以外にも数種類のアレルゲンが報告されていた。
これらの新しい症例から、居住区の外に出た者は必ずドクターの診察を受ける決まりができた。
診療所は居住区の中央区域に、公会堂に隣接して建っていた。建物は二階建てで、外壁は淡いパステルカラーに塗られていた。
扉を開くとそこにドクターがいた。
「待っていたよ牧野くん。さあ座って」
ドクターは白髪の老医師の姿をまとっていた。
本来、医療AIであるドクターはコンピュータ上で走るプログラムであり実体を持たない存在だった。恒星船ではホロやモニタ内の映像として隊員たちと接し、治療行為は大がかりな万能医療機を通して行ってきた。
しかし居住区で運用するには、ドクターに人型ロボットのボディを与え、医師として働かせたほうが小回りがきいて便利そうだと考えられた。居住区で日常的に発生する怪我や体調不良、それに妊婦健診に対応するには万能医療機はあまりにもオーバースペックだった。求められていたのは町の診療所であり、最先端の専門治療を行う大病院ではなかったのだ。
ドクターは手早く牧野の体温と脈拍、血圧を測定し、そして右腕から採血した。端から見ていると、その外見や所作は人間の医師と見分けがつかなかった。ナノ合成機で組み立てられた精巧なアンドロイドボディは人間の動きを完全に模倣することができた。
「今のところ異常は見つからない。血液検査の結果が明日出るから、また来なさい」かける必要のない眼鏡に光を反射させながらドクターはそっけなく言った。
診療所を出た頃には日が沈んでいた。
居住区のあちこちに点在する家々には明かりが灯りはじめていた。空気には夕食の支度の匂いが漂っていた。地球から遠く離れたこの異星にも、温かい家庭がいくつも生まれようとしている。この星で生まれる赤ん坊たちにとって、ここは生まれ故郷になるのだ。人間はこの星に根付き、何万年も昔から繰り返してきたささやかな日常の営みを継続しようとしている。
夕暮れ時の村を歩きながら、牧野はそのことを強く実感した。
牧野は暗い自宅に帰り着いた。
彼はまだ結婚しておらず、今は特定のパートナーもいなかった。
一度、ソフトウェア専門家の矢崎と付き合っていたこともあった。ある晩のパーティーで彼女の方から誘われ、はずみで一夜を共にしたのがきっかけだった。スタイルが良く美人の彼女から誘われて悪い気はしなかった。だが、いざ付き合いだしてみると彼女のきつい性格や感情の起伏の激しさはマイペースな性格の牧野とはまるで合わず、結局一週間ほどでカップルを解消することになった。
それ以来、何となく女性と交際するのが面倒臭くなり、ずっと独り身のままだった。
がらんとした自宅でこのまま夜を過ごすのも退屈だったので、彼は研究室に向かった。
今日バラムン樹林帯で採取したサンプルの分類だけでも済ませてしまおう。そう思って夜道を歩いていると、ポロポロと軽やかな音色が聞こえてきた。新人類のヨヴァルトが親指ピアノを演奏しているのだ。夜の中を漂うその旋律は耳に心地よかったが、どこかもの悲しく孤独な感じがした。
演奏に耳を澄ませていると、別の物音に気付いてしまった。
すぐ近くで男女が交わっている。
珍しい事じゃなかった。狭い居住区内ではプライバシーを確保するのが難しく、とくに夜にもなると、そこかしこで行為を営んでいる気配があった。気付いても互いに見て見ぬふりをするのが礼儀となっていた。かすかに聞こえた喘ぎ声はよく知っている人のようだった。気まずさを覚えながら牧野は足早にその場を後にした。