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第1話 新生代末大量絶滅

 牧野多価嗣(たかし)は淀川での生態調査を終え、堤防の上をとぼとぼと歩いていた。

 2時間ほど川に浸かって水生生物を採取した帰りだった。麦わら帽子を被り、手にはタモ網を持ち、肩からは採集したサンプルを納めたケースを提げていた。そして背中のバックパックには携帯式のO2カートリッジが入っていた。


 彼の右側には一級河川、淀川が大阪湾にむかってゆったりと流れていた。その両岸に広がる河川敷には葦が生い茂り、川辺を渡る風にしずかに葉をそよがせていた。


 堤防を歩いているのは彼一人きりだった。堤防の上だけでなく、見渡すかぎり周囲に人の姿はなかった。夏の日差しの下で河川敷は不気味に静まりかえり、虫の声や鳥のさえずりさえも聞こえなかった。


 以前、牧野は昔の淀川の記録映像を見たことがあった。

 おそらく20世紀末頃に撮影されたと思われるその映像の中で、河川敷は大勢の人々で賑わっていた。堤防の上の道をジョギングする人に、サイクリングを楽しむ人。川に釣り糸を垂れる人や、河川敷のグラウンドでスポーツに励む人々。都会の中を流れる緑のオアシスとして、昔の人々はこの場所を心から愛し、親しんでいた。

 だが、それも過ぎ去った幸福な時代の話だった。


 軽いめまいを感じ、牧野は顔に装着した酸素マスクの位置を調整した。

 歩いているうちにずれて隙間ができたのだろう。危ないところだった。こんなところで酸欠になって倒れていても誰も気付いてくれないだろう。


 彼は視線を左側、川とは反対方向に向けた。

 そこには緑豊かな河川敷とはあまりにも対照的な人工的な景観が広がっていた。


 堤防から約200メートル南側に、巨大な壁が見渡す限り延々と続いていた。

 壁はトラス構造の骨組みと樹脂製のパネルで構成され、100メートル近い高さまで立ち上がっていた。上に向かうにつれ壁面は緩やかにカーブし、大規模なドーム状の屋根を形成していた。日光を照り返す半透明のパネルを通して、中に広がる町並みがぼんやりと見えた。

 この巨大構造物こそが大阪の市街地をすっぽりと包み込む大阪酸素(オキシ)ドームだった。酸素濃度21%の空気に満たされたこのドームの中でのみ、人は酸素マスクなしで生活することができた。


 大阪だけではない。日本国内の17の都市、世界各地の大都市のいずれもが密閉された巨大ドームを建設し、都市の住人たちはその中に閉じこもって生活していた。酸素濃度が14%にまで低下した有害な大気から身を守るためだ。ドーム中には水の電気分解により工業的に酸素を生成する施設があり、そのおかげで21%の酸素濃度を保つことができた。



 堤防に沿って歩いてきた牧野は、メンテナンス用エアロックからドーム内に帰還した。

 酸素マスクを剥ぎ取ると、むき出しになった鼻と口を生暖かい湿った風がなでた。空気はかすかに人いきれと黴の臭気がした。慣れ親しんだドーム内の空気の臭いだ。


 ドームの中はエアロックのそばまで一戸建て住宅やマンションが建ち並んでいた。その屋根の向こうにはモスグリーンの高層ビル群がそびえている。それらは伝統的なガラスと鉄とコンクリートではなく、はるかに強靱な有機合成素材で構成されていた。


 牧野が働く研究所の環境試験場の建物もドーム外壁のすぐ内側にあった。

 平屋建てのプレハブ建築だ。

 所狭しと機材がならぶ試験場の中で、研究員たちは各自の研究テーマに沿った作業を進めていた。植物生理学、微生物学、分子遺伝学、環境化学など、研究分野は様々だ。

 牧野の専門は生態学だった。


 自分のスペースにたどり着いた牧野は作業台の上にケースを下ろした。中から今回採集した生物を納めた容器を次々に取り出し、その中身をバットに開ける。彼はその上にかがみ込み、ピンセットで生物を選り分けていった。


 予想していた通り、結果は落胆すべきものだった。

 今回の屋外調査で採取できた動物のサンプルは、イトミミズ、サカマキガイ、オオマリコケムシ。たった三種だけだった。信じられないほどの多様性の低さだ。

 彼が調査を開始して以来、淀川に生息する動物の種類は減る一方だった。近年では、この三種以外の動物が見つかることは珍しかった。絶滅危惧種のアメリカザリガニは一昨年採取した一個体を最後に見られなくなった。魚類は彼が研究を始める二十年も前に淀川からほとんど姿を消していた。


 言うまでもなく、大気中の酸素濃度の低下は、全世界の生態系に激変をもたらしていた。

 まず酸素濃度低下に弱い哺乳類や昆虫の個体数が激減した。ハチや蝶などが減ったせいで、昆虫に受粉を依存する被子植物が壊滅的な打撃を受けた。また、昆虫を食べていた鳥類も滅んだ。相互に依存し合う生物たちのつながりを通じて、影響は際限なく拡大していった。


 水中でも生態系の崩壊が生じた。溶存酸素濃度の低下にともなって水底の無酸素化が進行し、二枚貝やカニなどの底生生物(ベントス)を一掃した。同時に発生したバクテリアの異常増殖で水中の酸素欠乏はさらに進行し、魚やエビも消えた。残ったのは、汚染の進んだドブ川でも生きていけるような生物だけだった。それはまさに牧野がこの淀川水系で目にしてきた事態だった。


 全世界ですでに何万という種が絶滅していた。その数は今後ますます増えていくのが確実と見られていた。ライオン、ゾウ、ゴリラ、クマなどの大型動物は野生では絶滅して久しい。今ではその末裔が保護施設で細々と生き延びているだけだ。海ではクジラやイルカ、アザラシといった海獣類だけでなく、マグロもカタクチイワシ、サケなどの水産資源として重要な魚類も消えた。

 そして、地球上で最大の種数を誇っていたグループであり、地球が存在するかぎり生き延び続けると誰もが疑わなかった昆虫さえもが急激に滅びつつあった。


 地球の歴史では過去に五回の大量絶滅が起きてきたが、今回進行しつつあるそれは過去最悪のペルム紀末の大量絶滅に匹敵する、あるいはそれを上回ると推定された。

 牧野の研究は、まさにこの大量絶滅の過程を記録することに他ならなかった。



 採取したサンプルの分析と記録を終えた後、牧野が休憩エリアで合成コーヒーを飲んでいると、研究者仲間の里村が声をかけてきた。彼は微生物学を専攻していた。

「よう、調子はどう?」

「どうもこうもないよ。小動物の種類は減る一方だ。まったく気が滅入ってくる。生態系の死亡診断書を書いてるようなもんだよ」

「同情するよ」

「ところで、そっちはどんな調子だ?やっぱりあいつらは増えてるのか」

「ああ、ますます元気になっている。この星にすっかり馴染んでやがる」



 里村の研究テーマは、酸素濃度低下をもたらした真犯人についてだった。


 それは、地球外から来た微生物だった。

 某国の恒星間調査船がはくちょう座のとある惑星から持ち帰ったそれは、特殊な代謝経路を持っており、地球の大気に無尽蔵に含まれる窒素分子を栄養源にして爆発的に増殖した。

 地球にも根粒菌などの窒素固定細菌はいるが、その地球外微生物は比較にならないほど効率的に窒素を取り込むことができた。それらは窒素ガスをアンモニアとして取り込み、それを代謝して自分たちの細胞を構成する有機化合物を合成した。また、アンモニアを酸化して硝酸に変えることでエネルギーを取り出した。それらの生化学的反応は大気中の酸素を大量に消費した。


 また、地球外微生物によって固定された窒素分は植物の栄養分になった。皮肉なことに、動物に大量絶滅をもたらした地球外微生物は、植物の生物量(バイオマス)を激増させた。陸には植物が生い茂り、水中では植物プランクトンが増殖した。やがてそれらの植物が枯れると、それらが腐敗する過程でさらに大量の酸素を消費した。それは植物が増えたことによる酸素増加の効果を打ち消して余りあるものだった。

 こうして、世界は腐敗した植物と増殖した微生物の塊に覆われ、大気中の酸素濃度は急激に低下していった。


 不幸にも、真相が突き止められるまでには長い時間がかかってしまった。

 その微生物の細胞構造は地球生物と大きく異なり、DNAやATPなど地球生物には不可欠な物質さえも欠いていた。そのため通常の微生物学的な調査の手法では検知できなかったのだ。人類による環境破壊や海底火山の噴火などの誤った仮説を追っているうちに、貴重な数十年が無為に失われた。原因が判明した頃には、事態は回復不能なレベルにまで悪化してしまっていた。


 巨大な酸素生成プラントを建造し、大気中の酸素濃度を維持しようという計画は構想段階で頓挫した。水の電気分解による酸素生成の副産物として発生する大量の水素を処分するめどが立たなかったためだ。せっかくの水素だが燃料として使うことはできない。酸素と化合して水に戻る反応で、生成した酸素を消費してしまうからだ。高い煙突を立てて宇宙空間に水素を放出する案もあったが、これも採用されなかった。結果として地球上に存在する水の総量を減らしてしまうことになるからだ。

 太陽系外縁部から彗星を運んできて氷を溶かして利用する案もコストの問題から実現しなかった。やがて人類はドーム都市を建設し、その中に引きこもる選択肢を選んだ。


 地球上の隅々にまで定着してしまった地球外微生物を撲滅するのはもはや不可能だった。人はいつしかその地球外微生物を侵略者と呼ぶようになった。



「来てみろよ、ちょっと面白いものを見せてやる」里村が言った。

 牧野は里村の後ろについて彼の研究スペースに向かった。


「これだ、見てくれ」

 里村は端末のモニター画面を示した。

 無数の茶色い粒が画面全体をびっしりと埋め尽くしていた。


「こないだ君が採取してきてくれた土壌サンプルの拡大映像だよ。これが何だかわかるか?」

 茶色い粒の直径はスケールバーによると約1ミリ。まるで密集した虫の卵のようで見ていると痒くなってくる。

「ああ。共生体だな」

「ご名答。さすがによくご存じだ」



 それは地球原産の微生物と、侵略者が融合して作り上げた共生体だった。

 数年前から、世界各地の土壌中に、見慣れない顆粒状の物体が現れ始めた。調査の結果、それは侵略者を核として、その周囲に地球原産のバクテリアや菌類、藻類が層を作った、いわば地衣類のようなものだということが判明した。

 地球の微生物は侵略者が放出する窒素化合物を養分とし、その見返りとして侵略者は地球の微生物たちの層で外敵から守られていた。

 侵略者が地球に来てから約一世紀。たった百年程度で彼らは地球の微生物と高度な共生関係を進化させたことになる。


 大量絶滅を迎えつつある動物界をよそに、微生物の世界は酸素濃度低下のダメージをほとんど受けておらず、それどころか太陽系外から新たにやってきた訪問者を歓迎しているようだった。



 里村が言った。

「これまで共生体の観察例は日本国内ではまだなかったが、ついにここ淀川流域ではじめて確認されたことになる。アメリカの研究者が言っていたが、共生体を形成した侵略者は、単独で存在する時の数百倍のスピードで増殖するらしい。そうなるとさらに酸素濃度の低下に拍車がかかる……」


 初期の楽観的な予想では、侵略者は地球の微生物との生存競争に破れ、いつかは消え去っていくだろうと考えられていた。だがその希望的観測は跡形もなく打ち砕かれようとしていた。

 それは単なる環境破壊というレベルではなかった。

 地球の環境は新たな平衡状態に向かって容赦なく変化しつつあった。

 そして、その新たな世界に、人類や多くの動物たちの場所はなさそうだった。



「地球を滅ぼす侵略者と手を組むなんてな。同じ地球の仲間を見捨てやがって」モニタの共生体を見ながら、里村が言った。


「微生物にとって、人類なんて仲間でも何でもないよ。微生物や植物から見れば、人類や動物なんて彼らが自力で作り上げた有機物や酸素を奪って生きている、ただの寄生体みたいなものでしかない。絶滅したって痛くも痒くもないだろう。生物は助け合ってなどいない。ただ自分たちの利益、すなわち遺伝子のコピーを最大化するようあくまで自分勝手に振る舞っている。これまでもそうだったし、それはこれからも変わらないだろう」牧野は言った。


 牧野の念頭にあったのは、数十億年前に起きたという酸素革命だ。

 シアノバクテリアが光合成を発明し、大量の酸素を放出するまで、地球は酸素の乏しい世界だった。そこでは酸素を必要としない微生物が多数生息していた。彼らにとって酸素は猛毒だった。やがて酸素が満ちると彼らの大半は絶滅し、一部は海底の泥の中など無酸素の環境に追いやられた。シアノバクテリアは他の微生物のことなど一辺も考慮しなかったに違いない。

 そして今、まったく逆の現象が、はくちょう座から来た侵略者によって引き起こされつつあった。一部の微生物は繁栄するだろうが、人類はかつてシアノバクテリアに滅ぼされた微生物と同じ運命を辿ることになるのだろう。


「冷たいな、牧野。だがお前の言うとおりだよ。そもそも、この侵略者を地球に連れ帰ったのは人間だしな。自業自得か」



 その時、里村の研究スペースに試験場の所長が顔を出した。

「牧野君、ちょっといいかね?」

「ええ、大丈夫です。何でしょう、所長」

「お客様がお見えになっていてね、君に話があるそうなんだが」


 牧野は里村と顔を見合わせた。

 来客に心当たりはなかった。

 相手の名前や所属を所長に聞いたが、はっきりと教えてもらえなかった。

 怪訝に思いつつ、牧野は里村の研究スペースを離れ、客が待つという応接室の扉をノックした。

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