エピローグ
彼は長い眠りから目覚めた。
さて、ここはどこだろう。今はいつだ。そもそも、自分は誰だ。
目覚めるたびに彼は失見当識に襲われた。そして、それは最近ひどくなる一方だった。
周囲は暗闇だ。
ここはオニダイダラの背中の村だった。時刻はまだ深夜で、みんなぐっすり眠っているようだった……。
いや、違うぞ。
今はあさぎりに向かう恒星船の中だった。船は光速に近いスピードで恒星間宇宙を飛んでいた……。
これも違う。
ギガバシレウスの大群があさぎりを去っていくのを見送った後、寝室で眠っていたのだったかな……。
やがて、記憶のロードが完了するとともに、彼は自分が何者であるのかを完全に思い出した。
彼は牧野多価嗣のアップロード人格だった。
そして、今、彼がいるのは恒星間を飛ぶ巨大生物に取り付けられたちっぽけな記録装置の中だった。
時計を確認する。装置が稼働してから三千八百七十二万時間以上が経過していた。地球年に換算して四千年以上。すでに想定された耐用年数の十倍を超えていた。どうりで記憶のロードにもたつくわけだ。システムは四重化され、十分な冗長性を持たせて設計されており、さらに内蔵する小型ナノ合成機で自己修復と定期的な再構築を繰り返してきた。でも、さすがに限界が近いのかもしれない。
オリジナルの自分ははるか昔に塵に還ったことだろう。
自分をアップロードした時のことを思い出す。脳をスキャンし、コピーを作成した時のことを。そう、あれは牧野が二度目の抗老化処置を受けた後だった……。
あさぎり星系の第五惑星の軌道付近で、高速で移動する物体が発見された。
その速度と軌道から判断して、当初、それは星系外から飛来した恒星間天体、おそらく彗星の欠片だろうと考えられた。ほどなく、それはガスを噴出して急激に軌道を変更しはじめた。彗星が太陽に接近するにつれて蒸発しガスを噴き出すのはよくある現象だ。だが、その軌道修正は精密に制御されていた。疑問に思った天文観測班は軌道上に浮かぶ光学望遠鏡をそれに向けた。
それは生物だった。
全長は二百メートル程度。体の構造はギガバシレウスに類似している。ただ、体型は大きく異なっていた。例えるなら、ギガバシレウスが重厚な恐竜だとすれば、この生物はどことなくアホウドリなどの海鳥に似た雰囲気がある。全体的にすらりとしているが尾部推進器官はギガバシレウスよりも発達し、長い翼を持っている。外皮は銀色で、発達した眼は虹色に輝いていた。
それはプロトドラコだった。
これに先立つ七年前、第七惑星の氷の下五百メートルの深さから未知の生物の化石が発見されていた。三億年前のものと推定されるその化石は明らかにギガバシレウスの祖先で、プロトドラコと命名された。生きた化石の発見に科学者たちは色めき立った。
星系外からの訪問者はあさぎり星系のさらに奥深くまで侵入してきた。だが、速度から考えてこの星系で止まることなく別の恒星系に向けて飛び去っていくと予想された。
プロトドラコに記録装置を搭載し、バイオロギング調査を行おうと提案したのは牧野だった。装置から定期的に現在位置と周囲の情報を送信し、この生物がどの恒星系に向かうのかを追跡しようと考えたのだ。
だが、生物の飛行速度から推測して、その結果が届くのはどんなに早く見積もっても百年以上先だった。その頃には牧野はほぼ確実に死んでいるし、あさぎりの人類社会そのもののが存続しているかさえ確証がなかった。
ならば、自分がこの生物に同行し、行く先を見てみたい。生身の自分自身が行くことは適わないが、せめて電子的な分身だけでも行かせたい。彼はあさぎり科学調査委員間に要望し、記録装置の余剰メモリに自分のアップロード人格をインストールする許可を取り付けた。すぐに彼は全脳コネクトームスキャンを受け、自分のコピーを作製した。
その数日後、プロトドラコにバイオロギング装置を取り付けるための探査機が恒星船から発進した。
探査機は第一惑星の軌道の内側でプロトドラコとランデヴーした。
驚いたことに、そこには生物がいた。直径十メートル程度の鏡面の傘を広げ、強烈な太陽光の光圧で浮遊する生物群が宇宙空間に群れをなして生息していたのだ。それはアルミ箔のように薄い傘の表面を太陽に向け、反対方向に向かっては放熱用の帯状触手を長々とたなびかせていた。おそらく太陽から直接光エネルギーと微粒子を得て生きているのだろう。プロトドラコは速度を緩めることなく宇宙生物たちの群れに突っ込んだ。それはクチバシのように鋭く尖った口吻で獲物を切り裂き、飲み込んでいった。
十分な食物を得たプロトドラコは急激に加速しはじめた。だが、その直前に探査機はプロトドラコの体にバイオロギング装置をしっかりと取り付けるのに成功していた。プロトドラコは尾部推進器官から盛大にプラズマを噴射しながら、探査機を置き去りにしてあさぎり星系の北極方向へと飛び去っていった。
それから果てしない恒星間の旅が始まった。
プロトドラコは加速をつづけ、やがて光速の二%に達すると核融合器官を止めて慣性飛行に入った。同時に代謝を変化させて乾眠状態になった。この生物はクマムシのように仮死状態になることで星と星のあいだの絶大な距離を耐えていたのだ。牧野もエネルギーを節約するため、恒星系に接近する時まで人格を起動せず膨大な時を眠って過ごした……。
以上が旅に出た直後までの彼個人の記憶だった。
やがて、それに続いて、旅の記録を保存したアーカイブ領域への接続が回復した。
そこには四千年以上におよぶ宇宙の旅のデータが大量に納められていた。牧野の脳裏にそれらの記憶が一気にあふれ出た。
プロトドラコは数々な恒星系を訪問してきた。
太陽のような主系列星だけではなく、生命が存在できるとは思えないような赤色巨星系にも訪れた。そこでは主星の膨張によって星系外縁部に一時的なハビタブルゾーンが形成され、温められて融解した天王星型氷惑星に生命があふれていた。その惑星は新星爆発までの数万年間、つかの間の春を謳歌していた。
ある時は誕生したばかりの原始星系にも接近した。まだ巨大隕石の重爆撃が続く若い岩石惑星にプロトドラコの繁殖地があった。宇宙空間に完全適応した彼らもギガバシレウスと同様、繁殖には惑星が必要らしい。牧野のアップロード人格が乗るプロトドラコは仲間と電波で遺伝情報を交換した後、惑星に降りて産卵した。卵から孵った子供たちは急速に成長し、やがてそれぞれ異なる恒星系にむけて飛び去っていった。
地球やあさぎりのような典型的な地球型惑星もあった。その星はおそらく誕生から数十億年が経過し、酸素に満ちた大気と成熟した生態系を持っていた。付近を通過するわずかな期間に望遠カメラで観測したところ、その世界には放射相称性の体をもつ独自の超巨大生物が生息していた。
惑星の存在しない星系にも立ち寄った。
その星系は強烈な白い光を放つ主星の周囲をガスと塵の円盤が取り巻いているだけで、小惑星よりも大きな天体は皆無だった。そこでは巨大なナマコのような紡錘型の生物と遭遇した。その大きさは惑星ダンテ深層部の超々巨大生物さえも上回っていた。その巨大生物自体がひとつの小世界だった。体の表面は枝分かれした地衣類のようなものでびっしりと覆われ、その中で無数の小さな生物がうごめいていた。観測することはできなかったが体内にも独自の生態系があるに違いない。それは体の前端についた丸い口で岩塊を噛み砕いて飲み込み、後端にある排泄孔から粉砕された塵を吐き出してガス円盤内を航行していた。
それとは逆に、恒星が存在しない世界もあった。
そこは恒星間の暗闇をただよう自由浮遊惑星だった。かつてはどこかの恒星を公転する惑星だったが、巨大惑星の重力によって軌道が不安定化し星系外に弾き飛ばされたのだと考えられた。太陽からの光を受け取れないその世界は完全に凍てついているはずだった。だが、活発なマントル活動による地熱と濃密な二酸化炭素の大気の温室効果によってその世界は保温されていた。その地下では巨大な生物らしきものが地殻を掘り進んでいた。
無論、いかなる生命形態もまったく存在しない荒涼とした世界も多かった。恒星のすぐ近くを巨大なホットジュピターが高速で公転している星系や、主星からの強烈な高エネルギー粒子により完全に滅菌されている惑星もあった。百億年以上昔から存在すると思われる古い星系にはそもそも生命の材料として不可欠な炭素、窒素、りんなどの生元素が極度に少なく生命の影すらなかった。
だが、この宇宙は牧野の想像以上に生命に満たされていた。宇宙生物学の常識から考えて明らかに生命が存在し得ないような世界、すなわち豊富な液体の水がない世界にさえ独自の生態系があったのは大きな驚きだった……。
牧野は過去の旅の回想を終えた。
そう言えば、牧野の人格が覚醒させられたということは新しい恒星系に接近したのだろうか。周囲は真っ暗のままで外界の映像はまだ届かない。視覚情報処理に関わるハードウェアに何らかの故障が生じているのだろうか。ナノ合成機による修復が完了するまで牧野は気長に待つことにした。時間ならたっぷりある。
真っ暗闇にぽつんと佇んでいるのも居心地が悪かったので、牧野は仮想空間を立ち上げた。
パッと明かりがともったように、牧野の周囲に部屋が出現した。あさぎりの新居住区の家を模した仮想空間だった。牧野自身のアバターも現れた。二十代の頃の自分自身の姿だった。
仮想の部屋の再現度は低かった。観測データを蓄積する容量を獲得するため仮想用のデータを大幅に削除したせいだ。背景からは動きや立体感が失われ、単なる平面画像になっていた。
その部屋にいたのは牧野ひとりではなかった。
「やあ、お久しぶり」部屋のすみのロッキングチェアに一人の男が腰かけていた。
「ドクター……」牧野は言った。
「何度言ったらわかるのかね。今の私はただのデヴィッド・チェンだよ。もう医師ではない」そう言ってドクターは手にしたマグカップを口元に運んだ。
バイオロギング装置のメモリにドクターも乗り込んでいるのに気付いたのは、旅に出た直後だった。
彼が言うには、純粋に好奇心を満たすのが目的らしい。たしかに向井の事件の裁判の時にも、宇宙を冒険したいとかそんなことを言っていた気がする。こんな皮肉屋と一緒に宇宙を旅をすることになると気付いた時は心底うんざりしたが、追い出すこともできないし牧野には受け入れるしかなかった。
「……やはり君は私よりも起動に時間がかかるな。システム構造にかなり無駄が多いのだろう。最適化してあげようか」ドクターは言った。
「結構だ」
「そう言うと思ったよ。医師ではないと言っておきながら、人の体の具合を気にする癖は抜けないね」
「ところで、今回の覚醒は二百十三年ぶりか。前回からかなり間が開いたね」ドクターが言った。
「何があったのだろう。こっちにはまだ外部映像が届かないが、そっちには何か見えてるか」
「いや、まだ何も。私もずっと待っているのだ。我らが宇宙ダニもだいぶくたびれてきたと見えるね」
ドクターはバイオロギング装置を宇宙ダニと呼んでいた。実際、それはプロトドラコの体表にしっかりとしがみ付くためにダニのような形状をしていた。脚を使って体表を自由に移動することができたし、宿主の体から振り落とされたとしても短時間であればスラスターを噴射して再び取り付くこともできた。
「久しぶりに顔を合わせたのだから、外部映像が届くまで雑談でもしていようじゃないか。そういえば今まで何か考え事をしていたようだが」ドクターが言った。
「これまでの旅のことを思い出していた」牧野は言った。
「うむ、我々もずいぶん遠くまで来た。様々な世界を訪れ、様々な生命と遭遇した。まさか、宇宙にこれほどたくさんの生命が存在しているとは正直予想外だった。来た甲斐があったよ」ドクターが感慨深げに言った。
牧野は考え込みながら言った。
「たしかに宇宙は生命で満ちあふれていた。でも、あの世界すべてで生命がゼロから誕生したとは考えにくい。物質から生命が誕生するにはたくさんの厳しい条件を満たしている必要があるからな。液体の水の存在とか、適度なエネルギーの流入、それに複雑な有機化合物の濃縮などなど……。もしかしたら、生命が誕生したのは惑星あさぎり等のごく一部の条件に恵まれた惑星だけで、そこから他の世界に広まっていったのかもしれない。そう、まさにプロトドラコのような恒星間飛行生物に運ばれて」
「なるほど、興味深い仮説だね」ドクターが言った。
「地球でも、新しく生まれた火山島でまさに同じようなことが起きていた。生まれたばかりの島は溶岩に覆われた不毛の世界だ。そこに最初にやってくるのは鳥類だ。外界から隔絶されて天敵のいない新しい島は鳥たちにとって格好の繁殖地であり、渡りの中継地だった。海鳥たちは大量の糞で島に有機物やりんを持ち込み、渡り鳥は体に付いた種子を落としていく。それが島の環境を豊かに変え、独自の生態系が発展する礎になる。きっとプロトドラコも宇宙で同じ役割を果たしているんだ」牧野は言った。
「だとしたら、侵略者微生物も彼らが広めているのかもしれないな」ドクターが言った。
「考えてもいなかったが、たしかにその可能性はあるな……」牧野は言った。
「他の恒星系までは絶望的に遠い。胞子の拡散では生きてたどり着く確率は極めて低いだろう。だけど、プロトドラコの体内に保護された状態で旅したなら生存率はずっと高くなる。侵略者の起源となった星は不明だ。もしかしたら、地球に侵略者を持ち込んだ船が立ち寄った惑星ではなくて、惑星あさぎりこそがその発祥の地なのかもしれない。それならば、あさぎりで侵略者が生態系の一部として組み込まれている理由も説明できる。彼らははじめからあさぎりで共進化してきたんだ。だとしたら、地球はあさぎり由来の微生物によって滅ぼされたことになるのか」
「ところで、君や高梁くんが送った侵略者対策の報告は無事に太陽系に届いたのだろうか」ドクターが言った。
それは牧野も気になっていた事だった。
その後、人類はどうなったのだろう。
これまでプロトドラコが訪れた星に人類はいなかった。四千年もの時間があれば人類が恒星間宇宙にさらに広まるのに十分だろう。だが、行く先々で彼らが人類の子孫に出会うことはなかった。
「まさか、人類は滅びてしまったのだろうか」牧野は言った。
「そうではないと思いたいがね。そもそも我々小惑星人が他の恒星系への植民に熱心だったのは、地球人類が滅びかけていたからだ。もしかしたら、人類が絶滅の危機を脱し、再び地球上で安定して生存できるようになったから、恒星間植民計画自体が不要になっただけなのかもしれない。あくまで希望的観測だがね」ドクターが言った。
「そうであることを祈るよ」牧野は言った。
だが、その時、彼の脳裏に不穏な考えが浮かんだ。
「人類は滅亡の危機を脱したのかもしれない。でも、それは果たして良いことだったのだろうか……」
「はは、いったいなんてことを言い出すんだ」ドクターが言った。
「もし人類が、僕らの送った報告をもとに侵略者微生物の力をコントロールする方法を確立したとしたら、いったい何が起きるだろう」牧野は言った。
「酸素濃度低下を止めることができるだろうな。人類はもはや酸素ドームを必要としなくなるだろう。それの何が問題なんだね」ドクターが言った。
「侵略者の問題の本質は、酸素よりもむしろ過剰な窒素供給量だ。二十世紀にハーバー・ボッシュ法によって窒素供給量が増大した時、人類に何が起きたか。人口爆発だ。それが遠因となって世界大戦、そして環境破壊と種の絶滅が発生した」
牧野はつづけて言った。
「そして、侵略者の窒素供給能力はハーバー法など足下にも及ばないほど強力だ。もし地球人が侵略者を根絶せず効率的な窒素供給装置として活用し続けたとしたらどうなるか。すでに地球上の全生態系は壊滅している。空っぽになった世界のすべてを人類のために活用する事にも抵抗はないはずだ。もしそれらの土地を侵略者を活用した農地に作り替えたとしたら、世界人口は何千億といったレベルにまで爆発的に上昇するかもしれない」
「うむ、これまでも人類は自然の脅威を克服するたびにその力を自分たちの支配下に置いてきたからね。そうなる可能性は否定できないね」ドクターが言った。
「いくら大量の窒素を供給されたとしても、それだけの人間が地球上で居住できるはずがない。増えすぎた人類は多くの諍いを生むだろう。そして彼らは新天地を求め、今度こそ本格的に銀河系に乗り出してくるかもしれない。それは僕たちの時代の恒星間移民計画など比較にならないほど大規模な宇宙進出になるだろう。ひょっとしたらそれは地球人類という知的生命体の黄金時代、絶頂期になるかもしれない。だが、それはほぼ確実に銀河宇宙に絶滅の波を拡散させることになるだろう。僕たちの見てきたすべての世界が人類によって征服され、生態系が破壊されていくだろう」牧野は言った。
「私としては人類の宇宙進出は歓迎したいところだが、生態学者のきみの危惧は理解できる。心配しなくても、きっと未来の人類はさらに賢明になっているだろうさ」ドクターが言った。
「そうだといいが……」牧野は言った。
「おや、そろそろ外部映像が届きそうだ。何が見えてくるかな」ドクターが言った。
牧野は仮想空間を立ち下げ、外部映像のチャンネルに切り替えた。
もしかしたら、次の瞬間に牧野が目にするのは、人類の恒星間艦隊や、徹底的に都市化された惑星かもしれない。映像が表示されるまでの数秒間、不安が募る。
だが、幸いな事にその危惧は外れた。
そこは安定したごく普通の恒星系だった。観測結果から複数の惑星が存在することが判明したが、それらに人類文明の痕跡はなかった。牧野はほっと胸をなで下ろした。
あさぎり星系に戻ってきたときのように、プロトドラコは惑星系の内側に入り込んでいった。
「ところで、プロトドラコはどこまで行くのだろうな」牧野は言った。
「分からん。命ある限り飛び続けるのかもしれないな。ほとんどの時間を乾眠状態で過ごしているとはいえ、ひどく長命な種族だ」ドクターが言った。
「個体の寿命も長いけど、種族としてもかなり長生きだ。少なくとも三億年も存続しているのだからな。これだけの時間があれば、銀河系全域に広まっているかもしれない」牧野は言った。
牧野はプロトドラコが銀河全域に分布を拡大するまでどれくらいの時間が必要かを見積もったことがあった。その飛行速度は最高で光速の二%程度に達するが、途中で減速したり、惑星に降りたりする時間を考慮すれば移動速度は平均して光速の0.1%程度だろう。だが、それでも直径十万光年の銀河系の端から端まで一億年しかかからないことになる。生物進化の時間的尺度からみればそれほど長い時間ではないし、プロトドラコの種の年齢の範囲内だ。すでに彼らは銀河系じゅうに分布を拡大していることになる……。
だとしたら、彼らはなぜ太陽系を訪れていないのだろう。あさぎりから七十光年程度しか離れていない太陽系はすでに彼らの生息圏に入っていてもおかしくない。
だが、そこで牧野は恒星の運動を思い出した。銀河系の恒星はそれぞれ固有の軌道をたどって銀河中心の周囲を公転している。太陽系の公転周期は二億五千万年だとされている。もしかしたらあさぎり星系は太陽系とはまったく違う軌道をたどり、たまたま現在は比較的近いだけで過去には遠く離れていたのかもしれない。そのため太陽系は三億年前に銀河を横断していったプロトドラコの拡散の波から外れていた可能性がある。だが、それでも三億年もあれば銀河中に再度行き渡るはずだ。
牧野は再び外部の映像に注意を戻した。
プロトドラコは減速し、ひとつの惑星に接近しつつあった。
それは地球よりも大きな岩石惑星、スーパーアースだった。惑星の全表面は紫色をした海洋らしきもので覆われていた。その上で白い雲が渦を巻いている。大陸はないように見える。
そして、その惑星にはリングがあった。奇妙なことに、そのリングは惑星の赤道に対して水平ではなく垂直についていた。つまり、赤道上空ではなく、南極と北極をむすぶ軌道上を自転しているのだ。
「奇妙な現象だな。天王星のように惑星ごと自転軸が横倒しになっているわけではない。リングだけが垂直だ」ドクターが言った。
「それに、リングの平面が常に太陽の方向を向くようになっている」牧野は言った。
プロトドラコは星空を背景に、その惑星のそばを通過していった。
だがその時、何の変哲もない星空の一部が、プロトドラコの前方でずれ動いた。
そして、星空に黒い裂け目が生じ、プロトドラコを包み込むように広がった。
「な、なんだ」「何が起きてる」未曾有の事態に牧野たちはパニックに陥った。
プロトドラコは黒い裂け目を回避しようとしたが、間に合わなかった。
まともに正面から突っ込んだプロトドラコは全身を黒い膜状の物体に包み込まれた。膜状物体の縁からは湾曲した鋭い牙が生えていて、それがプロトドラコの体中に突き刺さっていく。
「まさかこれは、何かに捕食されているのか」牧野は悟った。
「このままだと我々まで食われてしまう。脱出しよう」ドクターが言った。
二人はバイオロギング装置、通称宇宙ダニのスラスターを噴射し、四千年間を共にした宿主の体から離脱した。
「さようなら、プロトドラコ」牧野は言った。
宿主から離れたことで、ようやく牧野は事態の全容を掴むことができた。
プロトドラコは巨大な生物に捕食されようとしていた。
それは体の表面の色彩を自在に操作し、星空に擬態して待ち伏せていたのだ。捕食者は袋状の大きな捕獲器官でプロトドラコの全身を飲み込みつつあった。捕獲器官の後ろにはずんぐりとした頭部か胴体らしきものがあり、そこから無数の触手が伸びていた。それはどことなくタコに似た生物だった。
「なるほどね。銀河系は危険がいっぱいなんだ。これがプロトドラコが銀河中に満ちあふれていない理由か」牧野は言った。
捕食者はプロトドラコを体内に収めると、体を流線型に変形させた。
「こいつ、どこかに飛んでいく気だぞ、どうする」牧野が言った。
「このままだと我々はここに置き去りだ。あいつに乗り移ろう」ドクターが言った。牧野も賛成した。
宇宙ダニは残りわずかな推進剤を使って捕食者の体に接近し、その体表にしがみついてしっかりと固着した。捕食者の体は強靱なゴムのようで弾力があった。
軟体動物に似た捕食者はジェットを噴射し、未知なる惑星のリングに向かって進み出した。
接近するにつれて、そのリングが有機的な素材で構成されているのが見えてきた。
「あのリングは生物かね。宇宙空間を漂う森林のようなものか」ドクターが言った。
「わからない」牧野は言った。
いったいこの惑星にはどんな謎が隠されているのだろう。とりあえず、この新しい宿主について行くしかなかった。
そして装置が完全に機能しなくなるまでの間、もうしばらく観察の旅を続けるとしよう。
これまで応援ありがとうございました!
皆さんの感想には大いに励まされるとともに、執筆の上でとても参考になりました。
昔から生物学テーマのSFを書いてみたいと思っていましたが、ついに実現できました。
執筆にあたっては、以下の文献を特に参考にさせていただきました。
・恐竜はなぜ鳥に進化したのか 絶滅も進化も酸素濃度が決めた:ピーター・D・ウォード(著)
・世界一の巨大生物:グレイム・D・ラクストン(著)
・ネッシーに学ぶ生態系:花里 孝幸(著)
・広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由:スティーヴン・ウェッブ(著)
・謎の絶滅動物たち:北村 雄一(著)
この作品の内容に誤っている点があれば、それはすべて作者の理解不足、誤解によるものです。