第108話 未来へのか細い道
「待て。電波送信を停止しろ」清月は言った。
井関は素早くそれに従った。
デコイは電波を放つことなく待機モードに入った。一方、真空崩壊爆弾はそのまま飛び続けた。巨竜たちの間をすり抜けて群れの奥深くへと侵入していく。それは竜たちの白銀の巨体に比べてケシ粒のようにちっぽけだった。
隊員たちの間に沈黙がおりた。
彼らの関心はブリッジで指揮を執る総隊長に集中した。
清月は無言で大群の映像を見つめたまま彫像と化したかのように動かない。
「真空崩壊爆弾、まもなく大群中心部に到達」井関が報告した。
「…………」清月は無言で画面をにらんだままだ。
画面に映し出されていたのは、真空崩壊爆弾に搭載されたカメラからの映像だった。そこにはおびただしい数の巨竜がひしめき合い、ゆっくりと渦を巻くように飛んでいるのが映っていた。爆弾の周囲全方位の宇宙空間は数千体のギガバシレウスの巨体で白く埋め尽くされていた。それを見た隊員たちは圧倒的な畏怖の感情に襲われた。
「中心部到達。起爆するなら今です。全個体の九十八%を一挙に殲滅可能です」井関が言った。
「了解した」清月は言った。しかし、まだスイッチは押さない。
そのままさらに数分が経過した。爆弾は竜に満たされた空間を飛び続けた。
ブリッジは緊張感に満ちた静寂に支配されていた。船内ネットでは耐G槽で事態の推移を見守る隊員たちが小声でささやき合っていた。当惑と焦燥、あるいは希望に満ちた声がネットを交錯した。ブリッジの沈黙をよそに、ネット内のざわめきはしだいに大きく膨れ上がりつつあった。清月総隊長は何をしている。まさか、爆弾を使わないつもりなのか。
ついに井関が耐えかねて口を開いた。
「総隊長、爆弾が群れの中心部を通過しました。今ならまだ全個体の九十一%が有効消滅圏内です。ご存じかと思いますが、この数字は一秒ごとに急速に低下しはじめています。もう一刻の猶予もありません。ご決断を」井関が言った。その口調に焦りがにじむ。
だが、清月はなおも動かない。
「有効消滅圏内の個体数、七十九%に低下。総隊長、早くスイッチを押してください!」井関が叫んだ。
「……中止だ」清月が言った。
「は?」井関は耳を疑った。
「真空崩壊爆弾の使用を中止する」清月ははっきりと宣言した。
井関はあ然とした顔で清月を見た。
その顔に一瞬、不穏な表情がよぎった。命令に背き、総隊長から爆弾の操作権を奪取して自ら起爆しようと考えたのか。だが、結局のところ、上官の命令には絶対服従という長年の訓練で叩き込まれた軍人精神が彼の中で勝利を収めた。数秒間の沈黙の後、「了解」と苦渋に満ちた声で言った。
「千載一遇の好機だったのに。必ず後悔することになる」井関は総隊長から顔を背け、小声でつぶやいた。
遺伝情報の電波を放ちながら二体一組で飛び回るギガバシレウスたちはしだいに群れの外側へと拡散しはじめていた。つがいの数が増えるにつれ、これまでひとつに密集していた大群は急速にばらけて崩壊しようとしていた。
その片隅で針で突いたように小さな白い光が閃いた。清月がコードを送信し真空崩壊爆弾を自壊させたのだ。安定化機構を強制停止された爆弾の内部でエキゾチック物質は瞬時に光子と陽電子とニュートリノに崩壊して跡形もなく消滅した。ギガバシレウスたちは小さな閃光をまったく意に介することもなく飛び続けた。
「あのような物はもう我々には必要ない」清月が言った。
いったいなぜ、真空崩壊爆弾の使用を土壇場になって中止したのか。
ブリッジにいる者も、耐G槽に収容されている者も、すべての隊員が清月の説明を待っていた。
「……竜たちの素顔を見て情に流されたのではない。絶滅の決断に臆したのでもない」清月は語りはじめた。
「私は気付いたのだ。人命を守ろうという思いにとらわれるあまり人間への信頼を失っていたことに。人類とギガバシレウスの生存をかけたゼロサムゲームは避けられない。ならば、我々が生きのびるためには彼らを滅ぼすしかない。結局、我々は愚かにも五万年前のメガファウナ絶滅と同じ轍を踏むしかないのだ。そう考えて諦めていた。
だが、君たちを見て考えが変わった。君たちは最後まで諦めることなくギガバシレウスの情報を収集し、知恵を出し合い、議論し、考察し、短期間でその生態を解明してみせた。我々は五万年前の原始人と同じではない。今の我々には科学と知性がある。人類は漫然と五万年を過ごしてきたわけではなかったのだ。だから我々は陰惨なゼロサムゲームを乗り越え、彼らと共存する道を歩めると確信したのだ」
「むろん、それは簡単なことではないだろう。困難で不安定な未来が待っているに違いない。だが、未来へと向かう正しい道とは、往々にして困難で、不安定で、か細いものだ。ギガファウナを絶滅させてあさぎりを人類だけのものとするのでもなく、あるいはセドナ丸末裔のように自然に屈し野蛮状態に退行するのでもない。エントロピーの法則に従いいずれかに走るのは容易だろう。だが、それは滅びへと向かう道だ。その誘惑に屈することなく、我々は常に考え、最善の道を選び続けなければならないのだ」
清月は井関に視線をむけて続けた。
「井関、君の気持ちもわかる。今は私の決断に納得がいかない者も多いだろう。あまりに理想主義に傾きすぎていると思うかもしれない。だが、我々が理想主義者でなくてどうする。新たなる社会の礎を築く者こそ高い理想を掲げる必要があるのだ。人類は過去と同じ過ちを繰り返さない。この惑星でやり直すんだ。過去数千年にわたって堆積した地球のしがらみはここには存在しない。すべてを新しくやり直すのに、これほど最適な場所はないだろう」
井関はうつむいて無言のままだった。
ほどなく清月の決断とその後の演説に対して隊員たちの意見が噴出した。おおむね好意的な意見が多かったが、井関のように納得のいかない者も何人かいるようだった。
だが、ともかく牧野は耐G槽のなかでほっと安堵の息をついていた。
ギガバシレウスは絶滅を免れた。これで当面の間、あさぎりとダンテの生態系は健全な状態に保たれることだろう。だが、安心してばかりもいられない。ギガバシレウスが危険な生物であることには変わりないし、やがて来る移民船の人々を説得するという困難な仕事も待っている。果たして彼らは我々の考えに同意してくれるだろうか。清月総隊長が言ったとおり、困難な未来が待っているのかもしれない。
でも、本当によかったと牧野は改めて思った。
失われた種は二度とよみがえることはない。滅ぼした後で後悔しても遅すぎるのだ。
今度こそ、生き物たちの楽園は失わずに済んだ。
恒星船はいったんあさぎり周辺の空域から離れることになった。繁殖をひかえたギガバシレウスたちがデリケートな状態にあることは間違いない。思わぬ事故を避けるためお互いに距離を置く。それが現時点での双方にとって最良の選択肢だろう。向かう先はあさぎりの公転軌道上の太陽を挟んだ反対側、ラグランジュ点L3だ。
その後のギガバシレウスたちの動向を追うため、追加の無人調査機や観測衛星、通信衛星を配置し、恒星船はあさぎりから去って行った。
恒星船内では戦闘態勢が解除され、牧野たちは耐G槽の外に出た。
今度はドクターも彼を閉じ込めることはなかった。
そこで牧野は気がついた。ドクターが真空崩壊爆弾の起爆に干渉しなかったことに。ドクターの目的はあさぎりへの人類の移住と隊員たちの生命の保護だ。その脅威となるギガバシレウスは排除しようとするはずだ。総隊長が爆弾使用を拒否した後もドクターならばシステムに侵入し起爆することができただろう。だがドクターは何もしなかった。考えてみると不可解だった。
もしかしたら、ドクターには人類とギガバシレウスの共存について何らかの確証があったのだろうか。人類がギガバシレウスと共存しつつも、あさぎりに定住できる確率を冷静な計算ではじき出し、成功する蓋然性が高いという結論に至ったのかもしれない。きっとそうに違いない。あれは人間の理想を信じて賭けに出るような奴じゃない。だが、逆にそれ故に牧野は大いに力づけられた。もしかしたら未来は思ったよりも明るいのかもしれない。
牧野はラウンジで他の隊員たちとともに大型モニターに映し出される船外カメラの映像を見ていた。
ギガバシレウスたちは背後に遠ざかりつつあった。ひとつにまとまっていた大群は今では希薄になり、ほとんど崩れ去っていた。あの球状の大群は繁殖行動のために一時的に作り出されるものだったのだろう。交接を終えた巨竜たちは尾部からプラズマの炎を噴き出し、産卵の目的地、惑星あさぎりに向かっていった。
やがてギガバシレウスたちはあさぎりに到着すると、つかの間、その周囲をリング状に取り囲んだ。それは美しい光景だった。数千の青い光点が連なり、光のネックレスとなって青と白の星に輝きを添えた。やがて、巨竜たちはプラズマの火を消し、数体ずつ惑星の大気中に降下していった。それとともに光のリングは途切れ、欠け、少しずつ失われていった。牧野はリングが消えていくのをいつまでも静かに見守っていた。
それから数日後、高梁は牧野との子供を無事出産した。生まれたのは元気な女の子だった。