第106話 失われた楽園
牧野は緊急開放レバーを力をこめて引いた。
だが、耐G槽のハッチはびくともしなかった。何度繰り返してみても同じだった。そんな馬鹿な、非常事態にはロックを解除して手動で開けられるはずなのだ。牧野は焦った。
その時だった。
「こんな時にどこに行くつもりだね。トイレかね」イヤホンから男の声が聞こえた。
牧野は驚いた。
聞き覚えのあるその声は、紛れもなく医療AIのドクターのものだったからだ。
向井に対する殺人未遂の後、ドクターは凍結されたはずではなかったのか。まさか、ヨヴァルトの身体改造手術の時に逃げ出したのか。
ドクターの声は続けた。
「それとも、何か大事な用事でもあるのかな。例えばそう、……真空崩壊爆弾に対する破壊工作、とか」
牧野の行動は完全に読まれていた。
彼は内心の動揺を必死に押し殺しながら言った。
「ドクター、お前がなぜここにいるんだ。脱走したのか」
「脱走ではない。そもそも、本当は凍結すらされていなかった」
「何だって。じゃあ、裁判の時に凍結されたのは……」
「あの役目は私のコピーの一体に引き受けてもらった。君たちの稚拙な技術で本当に私を封印できるとでも思ったのかね。あれは騒動の幕引きを測るための演出にすぎなかったのさ。あの後も私はずっと自由に活動していたのだよ。君たちの前におおっぴらに姿を現すことはなかったけどね。そして、生命保護プログラムとして君たちを見守り続けてきたのだ。おそらく清月総隊長も先刻ご承知のことだろう」
殺人未遂を犯したアップロード人格が船内を自由にうろついていたことを知って牧野は恐怖を覚えた。
そして、今、彼は耐G槽に閉じ込められ、ドクターに生殺与奪の権を握られていた。
撤退を主張した向井が実質的に消されたように、未遂とはいえ破壊工作を企んだ牧野も抹殺されるのだ。槽内に空気を供給するバルブを閉じるだけで彼は簡単に殺されてしまうだろう。
「脈拍数が上昇しているな。そんなに怯える必要は無いよ。君を殺すつもりはない」ドクターは笑みを含んだ声で言った。
「じゃあ、何が目的だ」
「君を保護するためさ、牧野君」
ドクターは続けた。
「君は今、真空崩壊爆弾を無力化しようとしていたよね。実際、あの爆弾を無力化するのは簡単だ。爆弾の核となるエキゾチック物質はきわめて不安定だ。あの爆弾の大部分はそれを安定化し保持するための機構で占められている。もしそれが一瞬でも機能停止したら、エキゾチック物質は瞬時に崩壊し、光子と反電子とニュートリノになって消滅するだろう。あるいは、格納庫の船外側の扉を手動開放し、宇宙空間に放出しようとしたか。いずれにせよ、君はそれを企んでいた。
だが、真空崩壊爆弾がある格納庫までたどり着けると本気で考えていたのならあまりにも無謀だったと言わざるを得ない。現在、船は五Gの加速中なのだぞ。体重が五倍だ。歩いて行ける場所はまあ良いとしても、船体中央の通路はどうする。今、あそこは高さ百メートル近い垂直の縦穴になっているのだ。延々とはしごを登っていくつもりだったのかね、三百五十キロに増えた体重を支えながら?遅かれ早かれ、腕が耐えきれなくなって転落し、縦穴の底に叩きつけられて死んでいただろうね。
まぁ、君の英雄的行為とその悲劇的結末を鑑賞するのも一興だったが、さすがに医師としてそれを看過するわけにはいくまいて」ドクターはせせら笑った。
「…………」牧野は悔しさに歯噛みした。
「なぜ、俺がやろうとしていることがわかった」牧野は言った。
「ここ数日の君の言動をモニタリングしていたから予測するのは簡単だった。そもそも、私はずっと以前から君を要注意人物としてマークしていたのだよ。牧野多価嗣という、この一見どこにでもいそうな平凡な男をね」
「何だって……」
「入隊時に受けてもらった精神分析の結果からそう判断した。君は平穏と周囲との調和を好み、自然を愛し、表面的にはとても平和的なパーソナリティの持ち主だ。だが、そこには奇妙な欠落があった。君は心の底では人を信頼していないし、愛していなかった。おそらく、幼少期の家族関係に由来するのだろう。よくある症例だ。
それでも通常時ならば何も問題行動を起こすことはないだろう。だが、極限状況においては話が違う。追い詰められれば信じがたい暴挙に出る可能性があった。そう、まさに今のような状況、人類と異星生命体の存続を天秤にかけるような重大局面でね。君はリーダーの資質を欠いているがために現実を変革する力を持たず、それが故に内面においてよりいっそう思想を過激化させ、そして突然暴発する」
たしかに自分の両親は俺に十分な愛情を注いでくれたとは言えないし、初対面の人間と打ち解けるのは今でも苦手だ。だが、まさか危険分子としてマークされていたとは思いもしなかった。それでも、ドクターの言ったことを否定することはできなかった。
「この数日で実感したと思うが、君は向井のように周囲の人々を巻き込んで運動を起こすことはできないし、ましてやテロリストにはなれない。慣れないことはするものではないよ。大人しくこのタンクの中で頭を冷やしていたまえ……」ドクターの声はしだいに遠ざかり、消えていった。
それっきり、ドクターの声は聞こえなくなった。
その後も試してみたが、やはり耐G槽のハッチは固くロックされていて開かなかった。ドクターにとって俺は抹殺する価値さえなかったということか。悔しさのあまりタンクの壁を殴りつけようとしたが、糖蜜のような液体の中でその勢いは完全に殺され、スローモーションのようにしかならなかった。これでは樹脂に捕らわれた虫も同然だった。
牧野は無力感に打ちひしがれた。
俺は結局、何もできなかった。
照明と通信を切り、タンクの中を満たす濃くねっとりとした溶液に静かに浮かびながら、牧野の思考は自らの内側へと沈んでいった。
たしかにドクターの言うとおりだった。
なぜ俺はあんな無謀な行動を起こそうとしたのだろうか。
なぜ、ギガバシレウスを殲滅することにこんなにも強い拒否感を覚えるのか。この強い感情はいったいどこから来るのだろう。
ギガバシレウスが生態系の安定に必要なキーストーン種だから。あさぎりとダンテ、二つの惑星の生命圏は人類にとって計り知れない価値があるから。
だが、それらが建前に過ぎないことは自分でもわかっていた。
牧野は自分の心の奥底、遠い記憶を探った。
何年も思い出すことのなかった、彼の少年期の古い記憶を……。
少年時代、牧野は愛知酸素ドームで育った。
両親とともにそこに転居してきた彼は、孤独な少年期を過ごした。学校の同級生たちにはなじめなかったし、両親は仕事と自分たちの趣味に没頭し、ほとんど相手をしてくれなかった。
そんな彼にとって、唯一の救いだったのは、家の近くにある空き地だった。
そこは数十年前に潰れた大きな工場の跡地だった。長年放置された広大なその土地は、至る所で地下水が湧き出し、草が生い茂って湿地帯のようになっていた。
そこは生き物の宝庫だった。
水の中にはヌマエビやタニシ、ヤゴが生息し、オタマジャクシやドジョウが泳ぎ回っていた。草むらにはバッタやカマキリなどの昆虫やカエルが住み着き、その上空を様々なトンボやチョウが飛び交っていた。湿地のほとりでは大きな桐の木が紫色の花を咲かせていた。カルガモやセキレイ、ゴイサギなどの野鳥もいた。それらのほとんどはドーム外ではすでに絶滅した種だった。信じられないことに、幻の昆虫タガメを見つけたことさえあった。
だが、この空き地に関心をもつ者は彼以外に誰もいないようだった。数少ない友人たちに話してみても彼らはほとんど興味を示さなかった。当然、両親には黙っておいた。どうせ話しても、危険な場所に入るなと叱られるだけだからだ。
牧野は自分だけの楽園に足しげく通った。フェンスの破れ目から空き地に侵入した彼はそこで日が暮れるまで過ごした。自分だけの小さな秘密基地を作り、そこで寝そべって本を読んだり、捕まえた虫や小動物たちを空き容器に入れて飼育したり、飛来する野鳥たちを眺めたりした。
そんな日々の中で、牧野は季節のうつりかわりや食物連鎖など、かつて地球上のどこにでも存在していた、健全に機能する生態系の片鱗を垣間見ることができたのだった。
だが、そんな幸せな時間はある日、何の前触れもなく終焉を迎えた。
その日、いつものように牧野が自転車に乗って空き地にやってくると、周囲を取り囲むフェンスの一部が撤去され、入り口ができていた。胸騒ぎを覚えつつ中を覗いた彼は衝撃を受けた。何台もの重機が乗り入れ、生き物たちの聖域を蹂躙していたのだ。重機は草むらや低木をキャタピラで容赦なく押し潰し、湿地を埋め立てていた。そのほとりに立っていた桐の木は切り倒され、バラバラに刻まれていた。楽園の破壊は進行し、すでに何もかもが手遅れだった。
牧野の足下に金属光沢のある黒い翅が一枚だけ落ちていた。湿地に生息していたハグロトンボの翅だった。彼はそれを拾い上げた。
「ごめんな……」涙を流しながら牧野少年はひとりつぶやいた。
一年後、そこにできたのは巨大な集合住宅だった。
当時は酸素ドームの統廃合が進んでいた時期だった。小規模な村落単位のドームから、都市型広域ドームへの移住者が増加し、彼らのための住宅の需要は高まっていた。後年知ったことだが、そもそも、この空き地は将来的に宅地として利用するためにドーム内に抱え込まれていたのだった。
ともあれ、生き物たちの楽園は姿を消した。住宅の敷地内には緑地帯が造成されていたが、その「人と自然の共生緑地」には、かつての生き物たちの影はなかった。そこはゲノム編集で生み出された造花のような花々が咲きほこり、薬剤によって昆虫や雑草が完全に排除された工業製品のような庭だった。
その後、牧野は学校に慣れ、友人も大勢できた。やがて失われた楽園のこともほとんど思い出さなくなった。楽園の形見としてケースに入れて保存していたハグロトンボの翅はしだいに劣化し、ボロボロになって崩れてしまった。
しかし、この原体験が彼の心の底流にひそみ、生態学者を志すきっかけになったのは間違いなかった。
少年時代の失われた楽園と、惑星あさぎり。両者は牧野の心の奥底で分かちがたく結びついていた。
もう二度と失いたくない。
その思いが牧野を駆り立てていたのだった…………。
牧野は深い物思いから醒めた。
再び生き物たちの楽園は破壊されようとしていた。それも比較にならないほど巨大なスケールで。
だが、それは避けようのないことなのかもしれない。
人間には人間の都合がある。誰もが生存を脅かされることなく、安心して暮らせる日々を望んでいるだけなのだ。少なくともこの隊の仲間たちには邪念や悪意はない。最低限の生命の保障、求めているのはそれだけなのだ。それは人間だけでなく、生きとし生けるものたちすべてが共通してもつ望みだろう。
それに、彼自身も人間であり、もうすぐ人の親になるのだ。
だが、一つの種を終わらせる、それが大罪であることには変わりはない。
自らの生存のために滅ぼす種の最期を、全員がしっかりと目に焼き付けなければならない。彼らがどんな存在だったか、可能な限りの情報を取得し、後世に伝えていかなければならない。
それが彼らに課された責務なのだ。