第10話 砂丘の生き物たち
ミルクのように濃厚な霧が着陸調査隊ベースキャンプをすっぽりと包み込んでいた。
海から吹き寄せる湿った風が夜間に砂丘の上空で冷やされ、空気中に大量の水滴を結んでいた。辺り一帯を白く閉ざす朝霧の中で、隊員たちのその日の行動を開始した。
夜間に危惧されていたような未知の現地生物の襲来はなかった。防衛ドローンとベースキャンプの周辺部に設置された自動警戒システムの動体センサーは何も異状を告げなかった。隊員たちはひとまず安らかに一夜を過ごすことができた。
狭い艇内で携行食料を頬張りながら、隊員たちはその日の探検計画の段取りを話し合った。
やがて日が昇り気温が上昇すると朝霧は薄れはじめた。
この日は着陸調査隊のうち五名が地上車に乗り、砂丘を踏破して内陸部の森林地帯へ探検に向かうことになっていた。
「森林地帯」と言っても、あくまで軌道上からの観測で何となく地球の森林と似ているように見えたことから暫定的にこう呼んでいるに過ぎない。何らかの大型植物型生物が密集して生育していることは間違いないが、果たしてそこが本当に地球の森林のような環境であるかは、地上からの調査を行わない限りはっきりしなかった。
牧野は地球でのフィールド調査の経験を買われ、もともと探検隊のメンバーに選ばれていたのだが、前日の軽率な行動で危険を招いたためメンバーから外そうという意見も出た。しかし結局、幹部隊員たちの討議の結果、それは免れた。
牧野以外の探検隊のメンバーは、リーダーである地質学者の伊藤、安全保障担当の乾、植物学者の近藤、それに微生物学者の高梁だった。彼らの目的は小動物や植物、土壌、鉱物などのサンプルを採取し、ベースキャンプに持ち帰ることだった。
着陸艇の貨物室に折り畳まれて収納されていた地上車を引っ張り出して展開し、タイヤを空気で膨らませたりするなどの準備に時間をとられ、出発する頃にはすっかり霧が晴れようとしていた。
地上車の運転手は近藤が務めた。近藤は機械の操作が得意でいろいろな乗り物の操縦資格を取得していた。とくに車の運転はお手の物だった。
六輪駆動の地上車は大きく膨らんだタイヤで起伏する砂丘の上を軽快に走破していった。
「乾さん、なんで昨日、防衛ドローンは俺を助けてくれなかったんだ」
「ドローンのセキュリティレベルを甘めに設定していたからだな。俺は巨大生物の襲来を予想して、あくまで人間以上の大きさの物体に反応するようにしていた。だが、あの程度の大きさの生物でも危害を加えうる可能性は排除すべきじゃなかった。あの後、昆虫程度の小生物でも対応するようにプログラムを変更した。これからは隊員に急接近する物体は低出力レーザーで迎撃される。安心しろ」
牧野は地上車のキャビンの中から上を見上げた。
天窓の透明パネルを通して上空を飛行している機械が見えた。今回の探検隊にはベースキャンプ護衛用とは別に防衛ドローンが一機着いてきていた。それは走行する地上車の真上五メートルの位置にぴたりと定位し、全方位ににらみをきかせながら静かに飛行していた。ほんの三十センチ程度のこの装置が、恐るべき火力を秘めた軍事兵器とはとても信じられなかった。
「ちなみに、ドローンの攻撃は自動的に開始されるが、それを止めたい場合は、対象を指さしてキャンセルとかダメとか意思表示すればいい。ドローンのAIが確実に読み取って攻撃を中止する」乾が説明を追加した。
砂丘を進んでいくとあちこちに回転生物の姿を見かけた。それらは薄れゆく霧の中でじっとしていた。長く伸びたスポークや刺毛にはびっしりと朝露の滴が付着して銀色に光っていた。棘や毛に付着した水滴はどうやら毛細管現象により中心部の本体まで運ばれているようだった。おそらくこれが彼らの水分補給法なのだろう。
砂丘を十分ほど進んだときだった。
突如、前方で砂が吹き上がった。慌てて地上車を急停車させると、平べったい体を持つ何かが砂埃を巻き上げながら砂上を滑走していった。大きさはおそらく幅五メートルほど。印象としては絶滅したヒラメのような、砂地の海底に生息する平たい魚に近い動きだ。だがもちろんここは陸上だ。
砂埃が収まった辺りを注意深く観察すると、砂上に何本か、触角状の突起物が突き出していた。あれで地上の様子をうかがっているのだろう。かなり大型なので捕獲は無理だが、少なくともどんな姿をしているか全体像を観察してみたいと牧野は思った。
「何か砂を吹き飛ばす方法はないだろうか」
「コンプレッサーが使えるかもしれないですね」近藤が言った。
地上車にはタイヤを膨らませるための空気を送るコンプレッサーが搭載されていた。それを使えば砂を吹き飛ばしてその下に隠れた生物の姿を露出させることができそうだった。あまり勢いよくやると生物を驚かせてしまうので慎重にやった。
やがて砂の下から現れたのは、木の葉型をした扁平な生物だった。たしかにヒラメに似ていなくもない。だが体の縁に並ぶのはヒレではなく無数の短い脚だった。まだら模様の背中のあちこちには触角が突き出している。中央部は小高く盛り上がりそこに黒いガラス玉のような物が並んでいる。眼だろうか。
やがてそれは自分が丸裸にされていることに気付いたのだろう。居心地悪そうに身じろぎすると、平べったい体を波打たせ、あっという間に再び砂に潜ってしまった。
さらに先へ進むと、植物らしき黒い塊が転がっていた。地球の海藻の一種、コンブを無造作に丸めて団子にしたような姿だ。黒く長い葉状体はぼろぼろにすり切れ、砂が付着していた。よく見ると塊からは砂に埋もれた葉状体が四方八方に伸びていた。
「風に吹き寄せられた植物の残骸でしょうか……」近藤が言った。
「ひとかたまりにまとまっている所は、何らかの巣のように見えなくもないな」地質学者の伊藤が言った。
「……回転生物、くっついてる。ほら、ここにも……」
微生物学者の高梁がぼそりと呟くように言った。今朝、探検に出発してから彼女がはじめて口にした言葉だった。
たしかに彼女の言うとおりで、葉状体の上やその周囲には多くの回転生物が付着していた。だがそれらはスポークの棘で植物の体液を吸っているわけではなかった。どの回転生物も明らかに干からびて死んでいた。あたりにはばらばらになった甲殻や棘の残骸が散乱していた。
「これはまさか食虫植物の類か……回転生物を餌にしているんだ」牧野が言った。
「うむ、たしかにこの葉。かなり粘着力の高い物質で覆われていますね」
そう言いながら近藤は黒い葉状体を指で触った。手袋と葉状体の間を、粘り気の強い粘液が白い糸を引いた。かがみ込んでしげしげと観察しながら近藤は続けた。
「……うわぁ、葉状体の表面に繊毛がたくさん生えてます。これを動かして砂や塵を取り除き、獲物を捕まえるための接着面の粘着力を保っているだと思います」
「……コンブダマ」高梁が呟いた。
「え?」牧野は聞き返した。
「この生物、コンブダマって名前にしよう」
「あ、ああ。そうだな……」
「決まりね」高梁はにやりと不気味に笑った。
砂丘の端に近づくにつれ、行く手には植物が数を増やしていった。
「これ、セドナ丸の映像に映ってた植物ですよ」近藤が言った。
近藤の言うとおりだった。
高さ五メートルくらいまでまっすぐに伸びた茎の先から、黒ずんだ葉が垂れ下がっている植物が点々と生えていた。
やはり自分たちは彼らと同じ星に来たんだ。この植物を見て、改めて牧野はそう実感した。
くだんの植物は、地球では「蛇の樹」と仮称されていた。先端が二股に別れた葉が、蛇の舌そっくりな印象を与えたからだ。その名の通り、この植物はどことなく不吉なものを感じさせた。
風もないのにその長い葉はゆったりと揺れうごいていた。地面すれすれまで伸びた葉の先端部は赤みを帯び、そこから透明な粘液が分泌されていた。
「なんか気色悪い木だな。俺は好かん」乾が言った。
「そうですか?」近藤が意外そうに言った。
「なぜか知らんが、あまりこいつには近寄る気になれないな」言葉の通り乾だけは離れたところから眺めていた。
「蛇の樹、まさに言い得て妙だな。茎の表面の質感も爬虫類のうろこそっくりだ」伊藤が言った。
「これって、ひょっとして固着性の動物なのかもしれませんね」牧野は言った。
「ありえなくもないな。たしかに海百合や刺胞動物のようでもある……」伊藤がしげしげと眺めながら言った。
「じゃあ、この葉のように見えるのも、実は……」
「そう、地上を歩く獲物を捕まえるための触手かもしれないぞ」
樹を取り巻いていた一同は、伊藤のその言葉を聞いていっせいに樹から離れた。
だが、先ほどまでと変わらず、樹は長い葉をゆったりと波打たせているだけだった。
「とりあえず、葉の一部を採取しようと思うのですが……」
近藤はおそるおそる、ハサミで葉の先端近くを切り取った。それでも樹は特に反応することもなく、切断面から黄色く濁った粘液を垂らしているだけだった。
再び地上車に乗った探検隊一行はようやく砂漠の横断を終えた。
「見ろ。これが『森林地帯』だ」
行く手に立ち塞がる巨大な植物の群落を前に、リーダーの伊藤が言った。
「すごい……」牧野は絶句した。
樹高百メートルを超える大樹の群れ。その隙間を埋めて互いに絡み合い、生存競争を繰り広げる無数の植物たち。そこは圧倒的な多様性に満ちた世界だった。
この巨人の森の前では、人間など卑小な存在に過ぎない。
これこそが、超巨大生物の世界の入り口なのだ。
「……どうします、リーダー」近藤が唾を飲み込みながら訊いた。
「もちろん、先に進む」伊藤が静かに言った。
「はは、こいつは面白くなりそうだぜ」乾が言った。そして端末を操作し何かの準備を始めた。
吹けば飛ぶようなちっぽけな地上車は、巨樹の落とす影の下に入り込んでいった。