第105話 孤立、そして
清月の元を去った後、牧野は沈んだ気持ちで船内をさまよった。
すれ違う隊員たちの声が耳に届いてきた。
「ついに最終決戦だな」
「これでやっと平和な毎日が戻ってくる。あと少しの辛抱ね」
「浮かれるのはまだ早い。喜ぶのは奴らが最後の一体まで倒されてからだ」
「本当にあの大群を殲滅できるんだろうか」
「いくらギガバシレウスでもあの最終兵器に対抗するのは不可能だ。真空崩壊は空間の構造そのものを破壊するんだ。光速で拡大する相転移領域からは逃られないし、領域に飲み込まれたものは素粒子レベルで破壊される。そして、奴らはこの宇宙から痕跡さえ残さず完全消滅する」
「だと良いんだが」
「いや、勝利は絶対だ。総隊長を信じろ」
牧野は頭を殴られたような衝撃を受けた。
誰もがギガバシレウスの絶滅を望んでいた。清月の決断に反対しているのは牧野だけのようだった。どこに行っても好戦的な意見や、将来への希望に満ちた声が聞こえてきた。牧野は耳を塞ぎたくなった。
いったい、自分たちの過去数ヶ月間の研究はなんだったのか。誰も気にも留めていないではないか。あさぎりの生態系がどうなってもいいというのか。
だが、誰が彼らを責められるだろう。彼らの中には壊滅した居住区のシェルターから救出された者たちもいた。地上の居住区がニーズヘッグに激しく蹂躙される轟音を聞きながら、彼らはシェルターに閉じ込められ、暗闇の中で数日間怯え続けていたのだ。生きた心地がしなかったに違いない。その恐怖がトラウマになっている者も多かった。
彼らが生態学の抽象的なデータよりも、恐怖という根源的な感情に流され、支配されるのも自然なことだった。
牧野は自室に帰った。
部屋では高梁がくつろいでいた。
「どうだった。清月さんは説得できた?」彼女は言った。牧野は首を左右に振った。
「そう……」彼女は言うと、大きく膨らんだ自分の下腹部をなでた。
「今、動いてる。とっても元気な子」彼女は微笑んだ。
「……清月さんの決意は固かった。決断を下すためにあの人は十分に考え抜いていたよ。ほとんど反論さえできなかった。まったく自分が情けないよ」牧野は自嘲気味に言った。
高梁は満ち足りた笑みを浮かべ、無言で自分のお腹をやさしくなでているだけだった。
「それに、船内ですれ違ったみんなも爆弾の使用に賛成していた。この状況を覆すのはもう無理かもしれない。爆弾は使用され、ギガバシレウスという種は永遠に消え去るんだ」
「そうね……」
「まさか、こんなことになるなんてな。いったい俺たちは何のためにここまで来たんだ。わざわざ現地の生物を絶滅させ生態系を破壊するためにか。地球と同じ愚行を繰り返すためにか。歴史から何も学ばず、本能のまま破壊と混乱をまき散らす。まさかこれほど愚かだとは思いもしなかったよ……。なあ、お前もそう思うだろ」牧野は次第にいらだちを強めながら言った。
「……あんまり怖い顔しないで。もっと落ち着いて話してよ。なんだか昔の向井さんが乗り移ったみたい」高梁は言った。
「ごめん、つい……。なあ、君もあさぎりの環境破壊には反対だったろ。撤退を主張する向井さんを支持してたじゃないか。何かいい考えは思い浮かばないか。みんなを思いとどまらせる方法はないか」牧野は言った。
少しの間、彼女は無言で困ったような表情を浮かべていた。だが、彼女は牧野の目を見ると、きっぱりと言った。
「ごめんね、タカシ。あの時とは考えが変わったの。私も清月さんの決断に賛成なの」
「そんな……」牧野は彼女の裏切りに絶句した。
「いったい、どうしてなんだよ」思わず言い方がきつくなった。
「怒らないで聞いてくれる?」
「……ああ、約束する。話してくれるかい」牧野は努めて優しい声を出そうとした。
高梁はふたたび自分のお腹に手を触れた。
「この子のためなの。お腹にいるこの子が大きくなってくるにつれて、だんだん考えが変わってきたの。自然とか生態系とか、もちろんそれは大切な事だけど、この世界にはそれよりももっと大事なものがあるってわかった。生まれてくるこの子が安心して暮らせる世界にするためなら、どんなことだってできるって思った。もし、それを脅かす存在がいるのなら、その種ごとこの世界から消し去ってやりたい。それが今の私の偽らざる気持ち」
彼女は穏やかな表情のまま言った。
牧野はようやく悟った。高梁は「母」になったのだ。
彼が数ヶ月間あさぎりで研究にかまけているうちに彼女の内面はすっかり変貌、いや、精神的成長を遂げていたのだ。
いまや彼女の小柄な体は、自分の子を守るため凶暴になった獣のような迫力を帯びていた。
「あなたの言い分も生物学者として理解できるの。超巨大生物は大事よね。でも、あなたも父親になるのよ。自分の家族を守ることを第一に考えてほしい」
「でも……」
「タカシ、いい加減、大人になってよ」高梁は言った。
恒星船は惑星ダンテの周辺空域から抜け出し、あさぎりに向かってゆるやかに加速しはじめた。
船内はギガバシレウス殲滅に向けて慌ただしく動き出した。
真空崩壊爆弾は格納庫のひとつに収容されていた。
それは推進装置を取り付けられた、全長五メートルの金色に輝く円筒だった。あさぎりの月の粒子加速器で生成されたエキゾチック物質はその中心部に厳重に封じられていた。その奇妙な素粒子が空間の安定性を崩壊させ、何もない空間そのものから莫大なエネルギーを解放する引き金となるのだ。
爆弾は分厚い隔壁の向こうに隔離され、その格納庫への立ち入りは厳しく管理されていた。無論、牧野は立ち入りを許可されたメンバーではなかった。
牧野は諦めることなく隊員たちに爆弾使用反対を訴えかけたが、誰にも相手にされなかった。
数ヶ月前、向井が撤退論を主張していた時とはあきらかに空気が変わっていた。
「いい加減、お花畑も大概にしろよな」そう陰口を叩かれたりもした。
井関にはこう言われた。
「わかっているのか。今の我々は圧倒的に劣勢なのだぞ。今回の作戦はそれを覆す、乾坤一擲にして唯一のチャンスなのだ。この機を逃せば我々には勝ち目はない。君がどんな考えだろうと、私はこの隊の仲間のため、人類のためにやつらを駆逐する」
牧野は船内で孤立していった。
だが、まったく賛同者がいないわけではなかった。
牧野と一緒に研究してきた地質学者の伊藤はその数少ない一人だった。
「つらいねぇ。結局ぼくらの研究結果は無視されちゃったか。データ集めるのに結構苦労したのにね」
彼はいつも飄々としていて大勢に流されるという事がなかった。地質学という悠久の時間を相手にする専門分野のせいだろうか、いつも一歩引いた視点から物事を眺めているようなところがあった。
「たしかに生態系の崩壊はすぐには起きない。たぶん僕らや、僕らの子どもの生きてるうちはほとんど変化は起きないだろうね。それよりも、みんなは目の前にいる敵の方が怖いんだ。実際、僕も怖い。でも、だからと言って絶滅させちゃうのはやっぱり短絡的すぎると思うんだ」伊藤は言った。
「何とかしてみんなを止めないと。力を貸してください」牧野は言った。
「おいおい、落ち着きなって。牧野君、最近ちょっと気を張りすぎだぜ。もうちょっと肩の力を抜きなよ」伊藤はそう言って牧野の肩を叩いた。
意外なことに、ニーズヘッグと死闘を繰り広げたヨヴァルトも賛同してくれた。
「私はギガバシレウスとともにダンテの空を飛びました。あれは恐ろしい敵ですが、同時に勇猛で気高い存在でもある、そう感じました。それをまるで害獣でも駆除するように大量破壊兵器で殺戮するなんて、倫理にもとる行為です。あの生き物の生命に対する侮辱です」
つまり、武士道精神に反するということか。戦士であるヨヴァルトは科学者の牧野とはまったく違う考えから爆弾反対に至っていたのだ。
だが、あくまで主流の意見は爆弾使用に賛成であることには変わらなかった。
ギガバシレウス最終殲滅作戦に向けて、船は一路あさぎりへと突き進んでいった。やがて、恒星船のさらなる加速に備えるため、非戦闘員は耐G槽に入ることになった。
牧野は高粘度の液体を満たした耐G槽に浸かりながらずっと思い悩み続けた。
結局、彼の説得と懇願は聞き入れられなかった。
どうすれば総隊長とみんなの考えを変えられたのだろう。
答えは見つからなかった。
タンクの中で彼の懊悩は堂々巡りを繰り返した。
このまま黙ってすべてを諦めるしかないのだろうか。
否、まだ打つ手はある。
説得に失敗したのなら、実力行使に出るという最後の手段が残されていた。
真空崩壊爆弾の無害化、あるいは船外投棄だ。
だがそれは総隊長に対する反逆を意味した。最悪、死刑になることさえ考えられる。
それでも、たとえそうだったとしても、自分の命を賭けてでも守るべきものがある。二つの惑星に暮らす無数の生命にはその価値があった。
やるしかない。牧野は耐G槽のハッチの緊急開放レバーをつかんだ。