第103話 二つの世界
ヨヴァルトは恒星船に帰還した。
彼を出迎えたのは隊員たちの歓声だった。彼らは復讐が果たされたことを喜び、恐るべき敵の死に心の底から安堵していた。
氷の衛星に残されていた平岡も無事に救助された。さいわい怪我の程度は軽かった。
「二人のおかげでこの船の危機は去った。彼らの勇敢な行為に惜しみない拍手を」
凱旋を祝って開かれた祝賀会の席で、清月は言った。
ヨヴァルトと平岡は盛大な拍手に包まれた。
「やっぱり、こういう場は苦手ですね……」ヨヴァルトが言った。
「同感だな」平岡が言った。だが、その顔は晴れやかで誇らしげだった。
「二人とも、よく生きて帰ってきてくれた。私は何よりもそれが嬉しい」清月は二人の手を強く握って言った。その目尻には光るものがあった。
「清月さん……」
「さあ、二人の英雄に乾杯だ」清月が全員に向けて言った。
宴がはじまった。この数日間の絶望と閉塞感から一転して隊員たちは浮かれていた。どちらを向いても笑顔があった。
だが、ヨヴァルトにとって、この祝いの席はぽっかりと穴が開いたように空虚だった。それはあの男、乾の姿がないからだ。超巨大生物と戦いたいと豪語していた元傭兵の男。ヨヴァルトのかけがえのない友人。その喪失感はどんな栄光でも埋めようがなかった。壮絶な戦いの果てに宇宙に散った親友に、ヨヴァルトは静かに杯を捧げた。
第六惑星には「ダンテ」という名前が採用されることになった。
叙事詩「神曲」を記した中世イタリアの詩人、ダンテにちなんだ命名だった。天上界のように荘厳な雲海が広がる上層部と、地獄のような暗黒の深層を合わせ持つ第六惑星の光景に、天界と地獄を巡る神曲の物語のイメージを重ね合わせたのだ。
科学者たちは惑星ダンテで発見された生態系に夢中になった。
彼らはドラゴンスレイヤーが撮影した映像を何度も再生し、そこに映っている生物や未知の気象現象を見て活発に議論を繰り広げた。
ギガバシレウスの近縁種の発見は大きな注目を集めた。このグループの多様性の中心はあきらかに惑星ダンテにあった。つまり、ギガバシレウスの仲間はダンテにおいて進化し、適応放散を遂げた系統だと考えられた。
とくに興味を引いたのは彼らの推進方法の多様さだ。
今のところギガバシレウスのような核融合推進器官を持つ種は他に見つかっておらず、せいぜいただのジェット噴射や、なかには尾部推進器官が完全に退化してしまっているものまでいた。
惑星の大気中で生活するだけなら、核融合器官はあきらかに過剰な装備だ。それを作り上げ、維持するコストは莫大なものに違いない。自然淘汰は無駄を許容しない。いかにすぐれた能力を持っていたとしても、利益に見合わないコストを要求する形質に対しては退化する方向に強い淘汰圧がかかる。天敵のいない孤島に生息する鳥がすぐに飛翔能力を失う例を考えるとよくわかる。
にもかかわらず、ギガバシレウスという種が核融合器官を保持しているのは、コストを上回る利益があるからだ。おそらく、超巨大生物専門の捕食者という特異な生態的地位がその理由だろう。超巨大生物を狩れば、一挙に大量の食物を得ることができる。そして、強大な獲物を仕留めるためには、核融合器官のもたらす加速と馬力が必要なのだ。
また、生活環が単一の惑星で完結しておらず、ダンテとあさぎりの間で渡りを行うという生態も、強力な推進器官を必要とするだろう。惑星ダンテの大気中に生息する近縁種たちは惑星間の渡りを行わないので推進器官が発達しなかったか、または退化して失ったのだ。
核融合器官の進化には長い時間がかかったことだろう。
恐竜から鳥への進化の道筋のように、途中で何段階もの試行錯誤を繰り返し、多くの種を生み出しながら、何千万年、何億年もかけて少しずつ洗練されていったと思われる。
はたしてその系統図の中で、ギガバシレウスはどんな位置を占めているのだろうか。進化の最先端なのか、それとも古いグループの生き残りに過ぎないのだろうか。もっと進化が進んだ、宇宙空間に完全に適応した種が存在する、または過去に存在した可能性もゼロではないだろう。
だが、今回で最大の発見は、太陽から遠く離れた巨大ガス惑星のダンテにかなり発達した生態系が存在したことだった。
あれだけの規模の生態系を維持するためのエネルギー源としては、弱い太陽光だけでは不十分だろう。
おそらく太陽光で光合成を行う植物ではなく、地球の深海のように化学合成を行う微生物に依存した生態系だと推測された。実際、ダンテの大気にはアンモニアや硫化水素など化学合成に必要な還元性の物質が多く含まれていた。
ダンテ生態系の膨大な生物量も驚きだった。その総量は惑星ダンテのサイズを考慮すると、あさぎりをはるかに上回っている可能性さえあった。さらに、バイオマス総量だけでなく個々の生物のサイズも巨大だった。
これはおそらく、惑星ダンテに存在する有機化合物の多さに由来するのだろう。
なぜダンテには有機化合物が多いのか。それを説明するには惑星系の形成までさかのぼる必要がある。
惑星系は新しい恒星をとりまくガスと塵の円盤から形成される。円盤の中で、まず金属やケイ酸塩を主成分とした塵が凝集して岩石ができる。岩石は衝突を繰り返し、やがて惑星の元となる微惑星という小天体へと成長していく。
やがて恒星が強く輝き出すと、軽いガスは外側に吹き払われ、恒星の近くには岩石質の微惑星だけが残る。それで恒星の近くには地球型の岩石惑星が生まれることになる。
一方、外側に払われた水素やヘリウムなどのガスは、より外側の軌道を回る微惑星に引き寄せられて集まっていく。それが木星型のガス惑星となる。
それよりもさらに遠い場所、星系外縁部では、氷、メタン、アンモニアなどが集まり、天王星タイプの氷惑星と、彗星のもとになる無数の小天体が生じる。
そして、星系外縁部の氷の天体には大量の有機化合物が含まれていた。これらの有機化合物は、惑星系の材料となるガスに元々含まれていたか、氷に含まれるメタンやアンモニアが紫外線や宇宙線を浴びて化学反応を起こし、長年をかけて蓄積したものだ。
地球に存在する有機化合物は、岩石惑星としての形ができあがった後で彗星などの氷天体の衝突でもたらされたと考えられている。
誕生当初、地球は岩石の塊にすぎず、水も有機物もほとんど存在しなかった。しかし、度重なる彗星の衝突によって大量の水と有機物が供給され、そのおかげで地球は水と生命の惑星になった。
彗星は地球だけでなく他の惑星にも降り注いだ。中でも、巨大で重力の強い木星は、特に多くの彗星を引き寄せた可能性が高い。
あさぎりの星系においても、惑星の誕生と進化は太陽系と同じように進んだと思われる。
彗星はあさぎりやダンテに降り注ぎ、それらの惑星に水と有機物を供給した。そして、彗星が衝突した回数はダンテの方が多かっただろう。彗星から供給された有機化合物は、惑星ダンテの強力な磁場や、大気中で荒れ狂う雷や嵐のエネルギーで活発に反応、攪拌、濃縮されてより複雑な生体高分子の生成を促したのだろう。
すなわち、惑星ダンテは彗星から供給された有機物の総量が多かったため、あさぎりをしのぐバイオマスを獲得することができたのだ。さらに、高圧の大気により生じる浮力が体重を緩和し、より巨大化を促進する方向に働いたと考えられる。
そもそも、二つの惑星の生命は独自に誕生したのだろうか。あるいは、どちらか一方で誕生した生命が他方に拡散、移住したのだろうか。
その答えは、両惑星の生物のゲノムや細胞の構造を調べればすぐに判明するだろう。科学者たちはまず最初にその謎に取り組むことにした――――。
恒星船の外側に係留されたドラゴンスレイヤーの黒い機体に、宇宙服を着た人物が取り付いていた。
牧野だった。
彼は微生物学者である妻の高梁の依頼で、ドラゴンスレイヤーの機体表面から有機物のサンプルを回収していた。臨月をむかえた彼女はお腹が大きく膨らみ、宇宙服を着ることができなかったので、かわりに牧野が船外作業をすることになったのだ。
ヨヴァルトの乗ったドラゴンスレイヤーはダンテの大気中で有機分子の雨を浴びていた。ひょっとしたら、その中に微生物が含まれているかもしれなかった。黒く鋭角的な機体の隅々には赤茶色の乾いた泥のようなものがこびり付いていた。牧野はそれを器具でかき取ると、密閉式の容器に回収していった。
「ありがとう。それだけあればもう十分」高梁が船内から通信で呼びかけた。
「了解した。今から戻るよ」牧野はそう言うと恒星船のエアロックに向かって移動を開始した。
「早く戻ってきてね。惑星ダンテの微生物って、いったいどんなのだろう」高梁が声を弾ませて言った。
船内に戻った牧野は密封された容器を高梁に渡した。高梁はそれを受け取ると、隔離式の実験設備のあるラボに向かっていった。
数時間後、分析結果が出た。
「ざっとメタゲノム解析をかけてみたら、いろんな微生物のDNAがどっさり出てきたよ。でも、半数以上があさぎりで見つかった微生物かその近縁種だった。空中浮遊藻類とか、バクテリアに似た微生物とかね。たぶん、ギガバシレウスの体にくっついて運ばれてきて、ダンテに定着したんだと思う。あるいは逆にダンテからあさぎりに運ばれたか」高梁が言った。
「つまり、二つの惑星の微生物相はもうすでにかなり混ざり合ってるってことか」牧野は言った。
「うん。思った以上にね。だから、この結果からは両惑星の生物の起源については何とも言えない。ただ、この解析手法ではDNAやRNAさえ持たない、全然メカニズムの違う生物は引っかからないからね。ひょっとしたらこの惑星独自の生命が他にいるかもしれないけど」高梁が言った。
「微生物相が均一になるほど二つの惑星は密接に結びついていたのか……。もしかしたら、あさぎりとダンテは二つの惑星でひとつの系をなしていると考えた方がいいのかもしれないな」牧野は考えながら言った。
「なるほど、そういうことか。わかったぞ」牧野は言った。
「うん、何が?」
「あさぎりとダンテの生態系がこれほど豊かで、しかも生物が巨大化した理由だ」
続けて彼は言った。
「ギガバシレウスが飛来するのは百七十年に一度だけど、それも地質学的な尺度ではかなりの頻度になる。その時、二つの惑星の間で物質移動が起きているんだ。
二つの惑星はギガバシレウスを介して互いに不足する物質を補い合う関係にあるに違いない。ダンテからあさぎりには排泄物や死骸のかたちで大量の有機物を運び、一方、あさぎりからダンテにはガス惑星で不足しがちな金属元素を持ち帰る。生物に必要な元素は有機物に含まれる炭素や窒素だけでない。酵素の活性中心などに各種の微量金属元素がどうしても不可欠だ
そして、それこそがガス惑星のダンテで生物が存在している理由なんだ。同じガス惑星でありながら太陽系の木星に生物はいない。ギガバシレウスがあの星を生命の星にしていたんだ」
星系外縁部から彗星としてダンテに降り注いだ大量の有機物はあさぎりに運ばれ、炭素と窒素などを供給する。さらに、あさぎりからは金属元素がダンテにもたらされる。そして星系に豊かな生命圏が生み出される。それを媒介するのは惑星間の渡り鳥、ギガバシレウス。
惑星間の物質循環。これこそが牧野のたどり着いた、あさぎり最大の秘密、超巨大生物相誕生の謎に対する解答だった。
「なるほど、面白い仮説だね。でも……」高梁が言いかけたその時だった。
チャイム音とともに船内放送が始まった。
「隊員諸君、三十分後、本船は出航する」清月総隊長の声だった。
牧野と高梁は議論を中断し、その場で耳を傾けた。
「出航に先立ち、君たちに私の下した決定について伝えておきたいと思う……」
いったい総隊長は何を話すつもりなのか。牧野は固唾を飲んで聞いた。
「重い決断だった。この決定で、この星系の未来が大きく変わるだろう。我々人類だけでなく、生きとし生けるものたち全ての運命が決することになる。だが、それでも私はあえて次の決断を下した。我々はこの新たなる故郷、惑星あさぎりで暮らす将来の世代のため、あえて心を鬼にし、ひとつの種族の絶滅に手を染めなければならないと。彼らが存在する限り、我らの子孫に平穏な日々は訪れないだろう」
「そんな……なぜだ……」牧野は絶句した。
「真空崩壊爆弾を使用する。そして、この星系からすべてのギガバシレウスを殲滅する。すべての責任はこの私が負う」清月は重々しく宣言した。