第102話 決着
炎に包まれながら、巨竜と人型兵器は邪眼斑に突入した。
衝撃波で赤黒い雲海を消し飛ばしながら凄まじいスピードで落下していく。
このまま惑星の中心まで飛び込むつもりかと思ったとき、ニーズヘッグは尾部推進器官の先を前方に向け、逆噴射をはじめた。下向きの強烈なGとともに落下速度は急激に減速していった。やがて十分に速度が低下すると、巨竜は水平飛行に移り、濃密な大気の中をゆるやかに飛翔しはじめた。
…………。
ヨヴァルトの操縦するドラゴンスレイヤーは、ニーズヘッグの体表から慎重に身を起こした。これまではしがみついているだけで精一杯だったが、速度が低下したことでようやく周囲の状況を調べる余裕ができた。
そこは雲の世界だった。
様々な色と形の雲、そして気象が、壮大な空の迷宮を造り上げていた。
下方には暗黒の深淵に向かって無数の雲層がはてしなく続き、上方に目を転じれば、巨大な雲の塊が数万メートルの高さに盛り上がっていた。何もかもが圧倒的に巨大なこの世界のスケール感の前では、全長千メートルに達するニーズヘッグさえもが小さく感じられた。
雲の隙間からのぞく空は夕暮れ時のように薄暗かった。空の片隅では太陽がぽつんと光っていたが、それはあさぎりから見るよりもずっと小さく頼りなかった。
ニーズヘッグは嵐雲の群れに突っ込んだ。
ドラゴンスレイヤーの周囲を暴風が荒れ狂った。地球のどんなハリケーンよりも強烈な風だ。もし地球上でこんな風が吹いたら、建物は根こそぎ吹き飛ばされてしまうだろう。
しかも、ただ風速が強いだけではない。上昇気流、下降気流、乱流、竜巻……。複雑な気象によって風向きと強弱は絶え間なく変化し、巨竜にしがみつくドラゴンスレイヤーを翻弄した。
性質の異なる空気の塊が至る所で激しくぶつかり合い、大規模な前線を発生させていた。巨大な稲妻が走り、雷鳴が轟いた。叩きつけるように激しい雪や雹が降り注ぐ。雲を構成する成分の違いによってそれはアンモニア水のみぞれに変わり、ときには希硫酸のミストや赤黒いタール状の有機化合物が降ることさえあった。
そんな激烈な気象の中をニーズヘッグはまるで穏やかな空を行く渡り鳥のように悠然と舞っていた。
ヨヴァルトは考えた。
ギガバシレウスたちはこの星から来たという。つまり、この世界こそが彼らの本来の生息地なのだ。
長い年月をかけて、この激烈な環境に適応して進化してきた彼らにとって、この程度の暴風など何でもないのだろう。
ヨヴァルトはニーズヘッグがここに来た目的を理解できたと思った。
こいつは住み慣れた生息地で体を休め、傷を癒やすつもりなのだ。そして、傷が回復した時、奴は再び人類に攻撃を加えてくるだろう。
そんなことをさせるわけにはいかない。今、ここで必ず決着をつける。
風は強かったが、ニーズヘッグの体の上を移動するのは可能だった。それにこの速度なら、仮に巨竜から振り落とされても自力で飛行し追跡することができる。攻撃を再開する時が来たのだ。
ドラゴンスレイヤーはニーズヘッグの背中の上に立ち上がった。とたんに真正面から暴風をまともに受けてよろめいた。姿勢を低くして暴風を避けながら、必殺の槍をしっかりと握りしめ、巨竜の前方へ、頭部の方向へとにじり寄っていく。
その時、ニーズヘッグの胴体を覆う鱗の一枚が暴風にめくれ上がり、体から外れて落下していった。見下ろしてみると、巨竜の体表は多くの部分で外皮が脱落し、皮下組織が剥き出しになっていた。すでにかなりの枚数の鱗が失われたようだった。
爆発でちぎれかけて垂れ下がっていた頸部は、今ではかろうじて水平に持ち上げられ、前に向けられていた。だが、その先についた頭部では、多くの眼が輝きを失って白く曇り、鋭い歯の並ぶ顎はだらしなく開いたままになっていた。
いまやニーズヘッグの衰弱は明らかだった。
ヨヴァルトは直感した。
こいつは今まさに死のうとしている。
多くの仲間を死に追いやった仇敵は、すべての生命力を使い果たそうとしていた。もはや傷が癒えることもないだろう。
だが、それでもなお、満身創痍の巨竜は空を飛び続けていた。
ドラゴンスレイヤーは巨竜の頸部の付け根にたどり着いた。
槍を構え、狙いを定める。
ここに槍を突き立て、反物質カプセルを撃ち込めば、対消滅の爆発は確実に首を切断しニーズヘッグを死に至らしめるだろう。
だが、ヨヴァルトは最後のとどめを刺す気になれない自分に気付いた。
こいつは皆が苦労して築き上げた居住区を徹底的に破壊し、そこにいた大勢の仲間たちの命を奪った憎い敵だった。ヨヴァルト自身も片足を失い、一時は生死の境をさまよった。そして、先日はついにヨヴァルトの一番の友人だった乾さえも殺したのだ。今こそ復讐を果たすときが来たのだ。
だが、それにも関わらず怒りの炎はすでに熱を失っていた。
ヨヴァルトの手を止めさせたもの。それはボロボロになりながらもプライドを失わず、最後まで王者のように悠然と空をいく巨竜の、その気高さに対する敬意だった。人間など足下にも及ばないほど巨大な存在が今まさに生涯最後の時を迎えようとしている。その瞬間の尊厳を汚してはならない。
それに、もうひとつ、ヨヴァルトの中で膨れ上がりつつある感情があった。
それは好奇心だった。この巨竜が最後の飛行でヨヴァルトを誘おうとしている場所には何が待っているのか。
是非ともこの目で見てみたい。
「行くがよい、お前の行きたいところに。お前の最後を見届けてやる」ヨヴァルトはつぶやいた。
ドラゴンスレイヤーは槍を下ろし、ニーズヘッグの背に乗って雲の迷宮の奥へと進んでいった。
尾部推進器官から出る炎はしだいに弱まり、一本、また一本と消えていった。酷使された推進器官はほとんど炭化していて、暴風を受けるとバラバラに崩れ落ちていった。飛行はしだいに安定性を失い、巨体が激しく振動しはじめた。ついに限界が訪れたのか。
その時突然、暗雲を突き抜けた。
ヨヴァルトの眼前に広大な吹き抜けのような空間が開けた。
ニーズヘッグはらせんを描きながら、音もなく雷光が閃く深淵に向かって滑空していった。
雲もなく、風も静かだ。
雲の空洞ははるか下まで続いていた。
下降するほど気温と気圧は上昇していく。そして、あたりはどんどん暗くなっていく。
気温が摂氏十度に達した。
そこには生物がいた。
それらは地球の生物ともあさぎりの生物とも異質だった。
空中を浮遊するぶよぶよした黒い球体。その表面は波立ち、青緑の光沢を放っていた。
左右に赤い触手の束を長く伸ばす鉄アレイ型の生物。
リンゴの皮のようにらせん型にほどけたり、まとまったりを繰り返す紡錘型の生物。
複雑な紋様をうごめかせる生きた縄文土器……。
ニーズヘッグの傍らを通り過ぎていくそれらの不思議な生物を、ヨヴァルトは魅せられたように眺めていた。
「ここがお前の世界なんだな」ヨヴァルトは言った。
やがて、彼はそこに生息しているのが異質な生物だけでないことに気付いた。未知の生物ではあるものの、見慣れた体の構造を持つ生物たちがいた。体は頭と胴体と尾にわかれ、頭部には四方向に開く顎をそなえ、胴体には翼が生えている。
明らかにそれらはギガバシレウスの近縁種だった。
一番最初に見つけたそれは、ギガバシレウスよりも一回り巨大な生物だった。ヘラのような上顎を長く水平に突き出し、残る三方の顎を大きく広げて飛んでいた。一瞬、それの口腔の中が見えたが、そこには細かな網の目が並んでいた。おそらくクジラやジンベイザメのような濾過食者だろう。大気中を漂う大量の小型生物を空気ごと飲み込み、濾し取って食べているのだ。
それは広大な翼を広げてゆったりと飛んでいたが、尾部はただの尻尾で、ギガバシレウスのような推進器官にはなっていなかった。それはニーズヘッグが接近すると、旋回して遠ざかっていった。
銀色の体をもつ、超小型のギガバシレウスのような生物の群れが飛んでいた。流線型の体はまるでジェット戦闘機のようだ。それらもニーズヘッグの接近に慌てふためき、無数の銀色の体を翻して逃げ去っていった。
ギガバシレウスはここでも恐るべき捕食者なのだろう。あさぎりへの渡りの時以外、これらの生物を餌にしているのは間違いなかった。
だが、衰弱したニーズヘッグにはそれらの生物を襲う力は残っていなかった。
ゆるやかに旋回を繰り返しながら、ニーズヘッグは深層へと下っていった。
もはや太陽の光は一筋も届かない。散発的にあたりを照らすのは雷光だけだ。ヨヴァルトは視野を赤外線に切り替えて周囲の状況を見ていた。気温は五十度、気圧はすでに三気圧を超えていた。
異形の生物たちがうごめく高温、高圧の暗闇を巨竜は飛び続けた。尾部推進器官の炎はすでに消え、体内の核融合器官そのものが完全に活動を停止していた。今は完全に惰性で滑空しているだけだ。巨竜の身体の崩壊は急速に進みつつあった。
まさに最期の瞬間が訪れようとしているのをヨヴァルトは悟った。
ドラゴンスレイヤーはこれまで掴んでいた棘状のレーダーアンテナ器官から手を離し、静かにスラスターを噴射して巨竜の体から離れ、大気中に浮かんだ。そのまま巨竜の後ろ姿を見送る。
ドラゴンスレイヤーが離れた後も、しばらく巨竜は飛び続けた。だが、やがてその姿勢は大きく傾き、そして、ついに完全にバランスが崩れた。巨竜は失速し、深淵に向かって真っ逆さまに墜落しはじめた。
その時だった。
ぞわり、とヨヴァルトの全身を強烈な戦慄が走り抜けた。
何かが来る。何かとてつもないものが。
直後、はるか下方の雲海が爆発的に膨れ上がった。
それを突き破り、巨大な物体が出現した。
差し渡しは直径三千メートル。急速に上昇してくる。ドラゴンスレイヤーのセンサー群が警報を発した。
巨大物体の最上部にぎざぎざの裂け目が走り、そこから四方向に大きく裂け広がっていく。
ヨヴァルトが目にしているもの、それはギガバシレウスをもはるかにしのぐ超々巨大生物の顎門だった。
それはまさに地獄の門が開いていくかのようだった。
無数の剣の山が林立する巨大な口腔が、全長千メートルのニーズヘッグの骸を苦もなく丸呑みにした。
地獄のような顎門が重々しく閉じた。
超々巨大生物は深淵に向かってゆっくりと沈み込み、やがて雲海の下に姿を消した。
その間、見えていたのは超々巨大生物の巨大な頭部と長い胴体の一部だけだった。体の残りの部分ははるか下方の雲海の下に隠されたままだった。いったい、その全長は何千、いや何万メートルに達するのだろう。ヨヴァルトは震撼した。
「……な、なるほどな。これがお前がここに来た理由か」ヨヴァルトはつぶやいた。
ニーズヘッグがここまで飛んできた理由。
それは傷を癒やすためでも、死期を悟って住み慣れた生息地に戻ろうとしたわけでもない。
あの超々巨大生物に、自分もろとも俺を食わせようとしたんだ。
もしニーズヘッグから降りるのがもう少し後だったら、今頃俺はあいつと一緒に丸飲みにされていただろう。それが、深手を負い、力を使い果たしたあいつに最後に残された戦法だったのだ。
何のことはない。あいつは最後まで戦うことだけを考えていたんだ。
まったく、なんて野郎だ。
ヨヴァルトはふと下方を見下ろした。
超々巨大生物の姿はすでにそこになかった。だが、その動きで暗黒の雲海が乱れ、生じた隙間からその下の光景を覗かせていた。
断続的に閃く雷光に浮かび上がった光景。
それは果てしなく広がる暗黒の草原だった。
ガス惑星に地表があるはずはない。だが、確かにそこには風になびく草原のようなものが存在していた。だが、それは草ではなかった。おびただしい数のワームのような超巨大生物が見渡す限り群生しているのだ。一体一体の長さは十万メートル以上、太さは百メートルはある。頭部から伸びる長大な触手はウミユリのように無数に分節、分岐し、それが激しい風に翻弄されていた。ワームの胴体には無数の脚を持つ異様な巨大寄生生物が群がり、その肉を囓っていた。
その光景のすべてが、高温、高圧の大気の向こうで蜃気楼のように揺らいでいた。
ここは地獄だ。この星は人類には用のない世界だ。
戦いは終わった。
俺は俺の世界に帰ろう。みんなが待っている。
ヨヴァルトはドラゴンスレイヤーを上昇させ、異形のうごめく暗黒の深淵に別れを告げた。