マーガレットの恋占い
ヒロ子は昔から占いというものに興味がなかった。それなのに、昼に休憩室で聞いたトモエの言葉にはなぜか心を引かれてしまった。
「あそこの占い当たるらしいよ」。
その一言に反応したのはヒロ子一人だった。
何食わぬ表情で世間話に興じる他の同僚をよそに、あれこれと質問をした。そして、仕事が終わるとこれも何かの縁と聞いた話を頼りに占いの館を探しに来たのだが、唆されるまま足を運んだことを後悔した。
暗く入り組んだ路地の奥に、いかにもといった雰囲気の暗色のテントが立っている。点々と灯された飾り気のない白い蝋燭がいっそう怪しさを醸し出していた。
風のめぐりが悪いのか、よどんだ空気に気分まで落ち込むようだった。
何より、あるべきものがないことが問題だった。
有名で人気のある店に欠かすことのできないもの。――人の姿である。
休日ともなればかなりの賑わいを見せる通りからここまで、五分とかからない。なかなかの立地条件に似合わず、人っ子一人いない静けさがヒロ子の不安をいたずらに煽った。
一陣の風が吹き抜け、蝋燭の炎が躍った。刹那の暗闇が路地裏を包む。
すぐに明るさが戻ったが、空気のよどみは相変わらずだった。
テントを前にしり込みをしていたヒロ子は、踵を返した。数歩進んだところで背後からがさりと音が聞こえた。歩くスピードはそのままで、耳だけを背後に集中させる。
ハイヒールの足音がこちらへ向かって来ていることがわかった。
「ひっ……!?」
目の前に飛び出してきた黒い影に腰が抜けそうなほど驚いてしまった。後方の足音も、一瞬だけ戸惑うように止まる。
黒い塊は金色の双眸をきゅっと細めて、ヒロ子の足もとに絡みついた。それが猫だと気づいて、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。
ハイヒールの女性がヒロ子の横を通り抜け、路地裏には一人と一匹が残された。
彼女をじっと見上げていた猫は、興味がなくなったように顔をそむけると占いのテントがある方へ歩き出した。猫に興味を引かれたヒロ子は、目だけで猫を追った。
ゆらり、ゆらりと尻尾が揺れる。緩やかなうねり眺めていると、ふいに猫が消えた。
目を凝らして見ると、壁際の闇に紛れているのがわかる。ヒロ子を誘っているのか、猫はそこで立ち止まっているようだ。
ちりんと音がして、自分の足もとに視線を落とした。白地に黒のぶち模様が入った猫が、真横を通り抜ける。そして、その猫に続くように茶のトラ猫が付いていく。
その後も次々と猫が集まってきた。どの猫も不気味なほど静かで、密集した気配と不釣り合いだった。
「ニャー」
一匹の猫が鳴いた。すると、それに応えるように他の猫が一斉に鳴き始めた。
異様な雰囲気に恐れをなし、ヒロ子は駆け足で逃げ出した。
翌日、占い師を紹介してくれた同僚のトモエに詰め寄った。自分がいかに恐ろしい思いをしたかを、三割増で詳細に語って聞かせる。
「そんなはずないですよ」
一年後輩の彼女は、そう言って眉根を寄せた。
「私が行ったときは普通のお店でしたし、そんなにたくさんの猫がいるなんて聞いたことありませんよ」
「見たものは見たんだもの」
見たというヒロ子と、そんなはずはないというトモエの意見はどこまでも食い違った。昼休みを使い果たしても足りないほどだ。
話し合っても埒があかないので、仕事終わりに連れ立って件の占い店に行くことになった。
前回と同じ道順、同じ時間に路地裏を歩く。連れがいるということを抜きにしても、様子が違った。
そもそも、道自体が明るいのだ。前は他の建物に遮られて光が入りにくい場所だと思ったが、顔をあげてみれば太陽の位置が確認できた。まばらながら、人の姿も見受けられる。
怪しげなテントはどこかへ消え、代わりにレトロ調の建物があった。一週間やそこらで建てられる代物とは思えないし、窓枠にうっすらと積もった埃が時の流れを感じさせる。
ヒロ子が辺りをきょろきょろと見回しているのに気づいて、トモエが怪訝な表情を浮かべた。
「どうかしましたか」
「……ううん、前に来た時と全然違うから」
「えー? 道でも間違えてたんじゃないですか」
そう言われてしまえばそれきりなのだが、占い館以外の建物には確かに見覚えがあった。
道の片隅では、気だるげな猫があくびをしている。金色の瞳が、ヒロ子を一瞥して閉ざされた。
「とにかく、早く行きましょう」
トモエに手を引かれ、導かれるままに店へ踏み込んだ。むせかえるほどのアロマキャンドルの香りが二人を出迎える。
待合室と思われるその部屋には、見るからにふかふかの三人掛けのソファが置かれていた。窓際には、精巧な猫の置物が外を眺めるように飾られている。
あまりの匂いにヒロ子が顔をしかめていると、奥から一人の男性が現れた。白いシャツにグレーのベスト、下は黒のパンツというそのまま町を歩いていても違和感のない出で立ちだ。
全身黒ずくめの妖しげな女が出てくるものと思い込んでいたので、わずかな動揺が走る。
彼の後ろには、高校生と思われる制服姿の少女が続いていた。少女は軽く会釈をして、はにかみながら足早に店を去って行く。
にゃお、と猫が鳴いて彼女を送り出す。その声を聞いて初めて、その猫が生きているのだと知った。
「お二人ですか?」
「はい」
「どうぞ」
言葉少なに応対をすると、奥へと続くカーテンを開けた。どこにこれだけの奥行きがあるのかと不思議になるほど長い廊下には、深紅の絨毯が敷き詰められていた。そして、これまた赤の壁に四方を囲まれた部屋へ通される。
占いに用いると思われる台の周りには、複数の花瓶が並べられていた。
「本日はどのようなお悩みで」
「あ、私はこの前見ていただいたので先輩からどうぞ」
笑顔で先を譲られて、ヒロ子は困惑の色を前面に押し出した。
仕事の悩みなど同じ職場の後輩に聞かれるわけにはいかないし、かといって他に気になることもない。どうしたものかと考え込んでしまった。
「お悩みなら恋愛運でも見てみますか?」
「……そうですね。お願いします」
当たり障りのなさそうな提案に首肯を返す。すると、男は傍らに置いてあった花瓶に手を伸ばした。数種類の花の中から一輪のマーガレットを選び取ると、ヒロ子の右耳の辺りにそっと差した。
タロットカードか水晶を使う占いしか知らないヒロ子は、さらに怪訝な面持ちになる。
構わず男がパチンと指を鳴らした。隣のトモエは、うっとりとした表情で彼の動作に見とれている。
すると、腿の上に重ねていた手にはらはらと何かが落ちてきた。真っ白な花びらだ。それを見て、トモエが嬉しそうに笑った。
妙な薄気味悪さを感じていると、髪から花が抜き取られた。
「……これはいけない」
男の手にある花は、いつのまにか全ての花弁を失って中心の黄色い部分だけが残ったみすぼらしい姿になっている。
トモエの笑い声がわずかに大きくなった気がした。
「良くないんですか」
不安に駆られて問いかけると、男は静かにうなずいた。そして、中心だけになった花をトモエの左耳に差す。
花はみるみるうちに生気を取り戻し、あっという間に花びらを再生させた。心なしか先程よりも元気が良い気がする。
「恋愛運の良い……強い方は花を咲かせます。花が散ってしまうのはその反対です」
心底落胆したふうの男の声に被って、トモエの笑い声が響く。いつしか、トモエはげらげらと下品な声で大笑いをしていた。
男はなおも何かを語り続けているが、大音量で笑うトモエにかき消されてしまっていた。
「……トモエちゃん?」
恐る恐る声をかけるが、壊れたように笑い続ける声は止まらない。肩に手をかけ、軽く体を揺さぶった。
がくんと首が後ろに反り、首の座らない赤子のような状態になる。それでも止まないげらげらという声に、耐えきれなくなったヒロ子は部屋から逃げ出した。
後ろをげらげら笑う声と、何やらわめく男の声が追いかけてきた。
永遠に続くような長い廊下を走る。ふかふかの絨毯は、まるで雲の上を走っているような不安定さを感じさせた。
息が切れても、足が鉛のように重くなっても、ヒロ子は決して止まらなかった。
――確かに廊下は長かった。でも、ここまでだっただろうか。
五分ほど走って、自分の置かれたおかしな状況に気が付いた。しかし、左右の壁に抜け道のようなものは見当たらない。
自分がどこから来たのか、どうすれば元の場所に戻ることができるのかを働かない頭で考えた。
酸素が足りなくなり、大きく喘ぐ。気管はひゅうひゅうと音をたて、心臓は爆発しそうに脈を打っている。体じゅうの臓器が限界であることを主張していた。
絨毯の毛が意思を持った生物のようにヒロ子の足に絡みついた。勢いだけで走り続けていた体は、棒のように硬直して床に倒れこむ。
咄嗟のことに手を出す余裕もなく、反射的に目を閉じたヒロ子は絨毯に顔をうずめた。
衝撃で鼻の骨が砕けると背筋を冷やしたが、痛みはない。それどころか、ヒロ子の体は床をすり抜けつんのめるようにして別の空間に出た。
背後で二つの舌打ちが聞こえる。
ゆっくりと目を開くと、そこはあの待合室だった。怪訝な顔をした年配の女性がヒロ子をじろじろと見つめている。
「……またのお越しをお待ちしております」
耳元で男の声がして、飛び上がるほど驚いた。
店を飛び出してから料金を支払っていないことに気づいたが、店に戻ることなど考えられない。一刻も早く人通りの多い所へと急く気持ちに任せて、路地裏を抜け出した。
翌日、トモエはやつれた様子で出社してきた。マスクで顔を覆い、わずかに覗く頬は赤みを帯びている、
体調が優れないのはヒロ子も同じで、目の下に大きな隈ができていた。眠ろうと目を閉じるたびに、あの占い館がまぶたの裏に浮かぶ。そのせいでほとんど眠ることができなかったのだ。
トモエに文句を言ってやりたい気持ちもあったが、恐怖の方が大きい。そのせいで、いつもより距離をとったまま仕事をこなした。
「ヒロ子さん、あんまりトモエちゃんを避けたら可哀想よ」
昼休みになって、他の同僚から注意を受けた。周りの数人も、うんうんと頷いている。
あなたたちの知らないところで事情が……とは口が裂けても言えず、黙り込む。
「いくら風邪で休んでたからってねぇ……」
「もうよくなったんでしょう?」
「はい。まだ鼻水は出るんですけど」
ぐずと洟をすすり、鼻声のトモエははにかんだ。
周囲の会話に、思わず身を乗り出した。
「そんなはず……。私、昨日トモエちゃんに会ったのに」
「何バカなこと言ってるの。三日前からずっとお休みだったじゃない」
「そうですよー。ずっと家で寝込んでたので誰とも会ってません」
周囲にさんざんたしなめられ、腑に落ちないまま日常がヒロ子を迎える。
ただ一つ気にかかるのは、トモエがげらげらと下品に笑うようになったことだった。