第一章 ~仕込み~ その6
微かに肌寒さを覚えた。歪めた鼻を反射的に押さえる。
その拍子に目が覚めた。
光は感じるけどまだ輪郭が形成されるまでには到らない。強く目を瞑ると指で擦った。頭を左右に振る。
真っ青な空間が目の前に広がっていた。所々に白い雲が浮いている。吸い込まれるような青空だった。本当に空に吸い込まれるような事があったらどれだけ素晴らしいだろう。幼い頃に何度か考えた事があった。恥ずかしくて誰にも話した事はないけど。
体を起こすと外套に包まる。昨日は体の隅から隅まで纏わりつくような熱に覆われていた。頭の内側、そこの少しだけ奥の辺りに疼くような痛みが残っているけど大した事はなさそうだった。少なくともこれから悪さをしそうな気配はない。もう少し経てば泡のように消えてなくなる。
何処かから微かに掛け声のような息遣いが聞こえた。首を曲げた途端、思わず目を剥いていた。
少し離れた所に、顔の高さに足があった。それが上下に動いている。逆立ちした状態で腕立て伏せしている事にようやく気付いた。顎が地面につくスレスレまで深く腕を曲げ、小さな掛け声と共に体を起こしている。それを機械のように淡々と繰り返していた。動きが遅くなる事も止まる事もしない。体が上下する度に汗が滴り落ちる。それを厭う事も気にかける素振りもなく行為に没頭している、ように見えた。
不意に顎が地面に触れる本当にギリギリまで肘を曲げたかと思うと弾みをつけてそれを伸ばした。宙に浮いた体がくるりと回転する。着地しても殆ど音は聞こえなかった。衝撃を綺麗に殺せる程度の余裕はあるのだろう。
「よ」
顎から滴る汗を手の甲で拭いながらウォッカが目で挨拶した。
刺激的な寝覚めと言うより寝起きにこんな体に、心臓に負担がかかるような真似は普通しない。見ているだけで息苦しくなる。食後だったら戻している、かも知れない。それを軽々こなせるだけの腕力を備えている事になる。
「調子はどうだ?」
「お陰ですっかりよくなったよ」
「そりゃ良かった」
屈託なく笑った。極端に老けているけど笑うと子供になる。
「熱は?」
「多分、もう下がってると思う」
「どれ」
ウォッカが腕を伸ばした。あっと思った時には額を掌が覆っていた。反射的に目を閉じる。
昨夜の感覚が甦った。
不思議な温かさが掌を通して全身に伝わっていく。お湯に砂糖が溶けるようにして体の中で澱んでいた何かが跡形もなく分解されていくような、そんな感覚に襲われた。肩の荷を下ろした時のように全身が軽くなった。
「確かに大丈夫そうだな」
額から掌が離れた途端、急激に体温が下がったような錯覚に陥った。それだけ温かくて心地好かった。昨夜はそのまま眠りに就いた事を今になって思い出した。風邪をひいた事は結構な災難だったけど寝付きの良さと眠りの深さがそれを補って余りある。
「ウォッカ」
姿勢を正すと真っ直ぐウォッカを見る。ウォッカは小さな子供をあやすような目で笑っていた。
「有り難う」
深く、頭を垂れた。
伝えたい事は沢山ある。でも余計な言葉はいらない。それが判らないほど、この大男は馬鹿ではない。人の気持ちを感じ取れるものをしっかり備えている。
だから助けられた事が、知り合えた事が純粋に嬉しかった。それに対する感謝でもある。
「もう大丈夫なんだろ?」
「うん」
「それだけありゃ充分だよ」
まるで毬でも突くようにポンポン頭を叩かれた。完全に子供扱いされているけど不快ではなかった。ウォッカは紛れもなく命の恩人だった。そんな恩人相手に不快になる理由なんて何処にもない。
「カノンはこれからどうするんだ?」
何気ない言葉、だと思う。別に特別これと言った意図はなかっただろう。
だから俯けた顔の上の方から頭に当たる視線が微妙に痛かった。言いたい気持ちはあるけどおいそれと口には出来ない。
「川沿いを十里北上した辺りに街がある」
顔を上げていた。目が合った途端、してやったりと言うような顔で笑う。
「一緒に行くか?」
「うん!」
一も二もなく頷いていた。ウォッカの手を両手で思い切り握り締めていた事に気付いて頬が熱くなった。
願ったり叶ったりだった。渡りに舟とはこの事だろう。
「そんな嬉しそうな顔して頷くなよ」
「そ、そうか?」
そんな嬉しそうな顔をしていたのだろうか。鏡がないからハッキリとは判らない。でも嬉しい事に変わりはない。
「身支度を整えるにも街に寄らなきゃ始まらねえからなあ」
困ったような顔で染々頷く横顔に彼が旅の中で重ねて来た苦労を垣間見た思いがした。
定期的に街や村、集落に立ち寄らなければ旅は絶対に成り立たない。食糧は勿論、情報も含めて街には旅に必要なものが大抵揃っている。それを蔑ろにして旅が継続出来る訳がない。
否、それを蔑ろにしたからこその体たらくだ。偶々ウォッカが通りかかってくれたから命を繋げられたけど、そうでなかったら道半ばで確実に命を落としていた。そうならなくて本当に良かった。
「元々北に向かってる最中だったんだ。だから、ウォッカみたいな人が傍にいてくれるだけで本当に心強いよ」
「そりゃ光栄だ」
悩みも心配事も何もないような顔で朗らかに笑っている。そしてそれに違和感を覚えない事が凄いと思う。
どういう人間かはまだ判らない。でも絶対に悪人ではなさそうだった。こんな顔をした悪人がいたらそれこそ直ぐ様人間不信になりそうだった。そして、世の中にはそんな人間で溢れ返っていると言う事も旅に出る前に散々聞かされた。安易に人を信用するな、親しげに接しようとする輩ほど腹黒い事を考えている。だから気を許すな、と。
その言葉に救われた事もある。でも全面的に信用する事も出来なかった。極力誰にも頼るまいと思っていても、疲れていたり心が弱っていたりした時は誰かの腕に縋りたくなる。そういう処につけ込んで来る輩がいるから気を付けろと言いたいのだろう、今になってようやくその意味が判った。
腕を組んだまま宙を睨む。
一番近い街までまだ十里もあるのか。結構歩いたつもりでいたのに大して距離を稼げていなかった事に一瞬胸の中が黒く曇る。ただ体調が万全でなかった事を考慮すればそれも仕方ないと言えるかも知れない。言い訳するつもりは別にないけれど体調に問題がなければ確実にもっと行けた。果たして彼らは日にどれくらい歩くのだろう。
「その街にはいつ頃到着する予定なのかな」
「今日中だよ」
一瞬本気で目を剥いてしまった。口にものを含んでいたら絶対に吐き出していた。あっさり応えないで欲しい。
「今日中って、十里もあるんだろ? のんびりしてたら日が暮れちゃうし早く出た方が……」
一日で十里も歩くのだから景色を楽しみながらなんて余裕はない、と思う。かなり気を張って臨まないと厳しいものがある。
「基本的に昼は食事を摂らない、時間が勿体ないからな。その分、朝はある程度食べる。幸い昨夜の獲物がまだ残ってるからな」
見ると串に刺さった肉が既に焚き火を取り囲んでいた。肉を焼いているのか肉が火を包囲しているのか判らない。
腕立て伏せを始める前には支度を済ませていたに違いない。全体の効率を考えるならばそうすべきだ。
「朝飯食った後は間に多少休憩は挟む事はあるけど夜までほぼ歩き通しだ」
一時間に一里歩いたとして、十時間続けた場合一日で綺麗に十里歩く事になる。成人男子が一時間で歩く距離としてはかなり短い、と思う。でもそれを十時間ぶっ続けでやるとなるとまた話は別だ。
少なくともウォッカとその連れの無愛想にはそれを問題なく可能にするだけの体力を最低限備えている事になる。でないとこんなに普通に言えない。
確かに体格も並ではない。相当な偉丈夫だ。いくつなのかまるで見当もつかないけど、一体これまで何をして過ごして来たのだろう。
そんな輩とこんな人里離れた場所で偶々出会った偶然に改めて驚いた。そんじょそこいらにいるような人間とは明らかに違う。
「キツいか?」
ウォッカの表情が一瞬、いや露骨に何秒か明らかに曇った。慌てて首を横に振ったけど間に合わなかった。当人は便意を堪える思春期の女の子のような顔で顎を頷いている。
「ま、そりゃそうか」
顎に手を当てたまま溜め息を吐いた。
「病み上がりだもんな」
それもそうだけどそれ以外にもある。どれくらいの速さで歩くのかはまだ判らない。でも絶対に遅いと言う事はないと思う。まだ歩いてもいないのに体が熱を帯びて来た。昨夜まで体を隈無く覆っていたそれとは明らかに性質が違う。
「お前に合わせる。無理しなくていいから」
励ますように軽く肩を叩かれた。子供か、或いは小さい弟か妹を見る兄貴のような雰囲気だった。寒い夜に布団に包まるような安心感がある。
「あの、その……」
自然と背筋を伸ばしていた。顔があっという間に熱くなったけど呑気にそんな事を気にかけている場合ではない。
「よろしくお願いします」
頭を下げたのは色んな意味で正解だったと思う。真っ赤になったばかりの顔を見られずに済むし、協力してくれる人に対して年下の立場から握手を求めるのは明らかに失礼だ。
頭の上の方から小さな溜め息が聞こえた。
「別にそんなに改まって頭なんか下げなくていいって」
ウォッカはバツが悪いのか決まりが悪いのかよく判らないような表情で頬をつねっている。
「そういうの、あんまり好きじゃないって昨夜話したと思うんだけどなあ」
「でも、これから世話になる人に挨拶したり頭を下げたりするのって珍しくも何ともないと言うか常識じゃないかなと……」
親知らずの隙間に挟まった野菜の切れ端を舌先で無理矢理取ろうとするように顔をしかめた。ぐうの音も出ないと言った処だろう、思わず胸を張りたくなった。
「それに、俺が案内する訳じゃない」
顔が露骨に引き攣った。当然意図しての事ではない。
「道はあいつが知ってる。ま、調べりゃ判るけど知ってる奴が近くにいる訳だからな」
聞けば済む話だ、わざわざ調べるのも馬鹿らしくなる。誰もそんな手間をかけようとは思わない。
「だから道案内はあいつに一任してる。その方が速いし確実だからな」
「……よく引き受けてくれたな」
意外を通り越して驚きだ。人の話に素直に耳を傾けてくれるようには見えない。況してや頼み事ならば推して知るべしと言った処だろう。
「意外か?」
「ま、そりゃあ……」
苦笑いするとウォッカは落とし穴に友達を誘導する悪餓鬼のような顔で笑った。
「行き掛けの、いや帰り掛けの駄賃と言うか乗り掛かった舟と言うか、あいつは元来た道を戻るだけだからな。下手に邪魔さえしなけりゃ怒らねえだろ」
口振りから察するに連れていくよう頼んだのはウォッカと見ていいだろう。問題は何故バルガがそれを引き受けたかという事だ。昨夜ウォッカが話していたように何か特別な事情が絡んでいる、と思う。それを確かめる勇気はないけど。
「で、肝心の本人の姿が何処にもないんだけど」
「水を汲みに行ってる。もうじき戻って来るよ」
よく見ると昨夜寝る前に置いておいた場所から水筒がなくなっている。熟睡中に水筒だけ失敬して行ってしまったのは別に構わないけど、やっぱり恥ずかしくて頬が熱くなる。涎でも垂らしてたら絶対鼻で笑うだろうな。
「朝飯食ったらすぐ出発だ」
彼からすれば何気ない言葉だったに違いない。でも聞いた瞬間、無意識に腹筋に力がこもった。無理矢理足止めしてしまったけど、旅が再開されるまでもういくらもない。
「行けるか?」
「ああ」
力一杯頷くとウォッカが笑った。
「まだ病み上がりなんたからあんまり無理すんなよ」
「判ってるって」
確かに昨夜までは完全にお荷物だったけど今はそれもほぼ全快している。あまり馬鹿にしないで欲しいと言いたい処だけど黙っている事にした。全く、子供扱いして。
「あ、戻って来たな」
ウォッカは額に手をかざすと視界の奥の方に目を凝らした。
振り向くと見覚えのある顔が水音のする方からこちらに歩いて来ている。馬鹿みたいに大きな手が水筒を二つ鷲掴みにしていた。
物騒な目がウォッカを睨んだ。掴んでいた水筒を投げて寄越す。
「悪いな」
手を上げたウォッカに返事をする事もなく、と言うか当たり前のように無視すると手の中に残っていたもう一つの水筒を差し出した。
「あ、ありがとう」
ございます、と言う言葉は締め付けられた喉に呆気なく押し潰された。
本当に一瞬だけど、例の如く矢のような目で睨まれた。どうして朝っぱらからそんな目で睨むのか。露骨に感情をぶつけるような真似はまずしないだろうけど切っ掛け一つでそうなってもおかしくない、ような気がする。
でも。
受け取った水筒は縁ギリギリまで水で満たされていた。抱えている腕がずっしりと重い。
自分とウォッカの水筒に水を入れるついでにと言う部分もあるだろうけど、昨日拾った人間の水筒にも水を満たしてくれている。本当に嫌いだったらわざわざそんな事はしない、と思う。でも二人分だけ水を入れておいて一人だけ弾いたりしたらそれこそ子供だ。年齢を疑ってしまう。
「だから睨むなって」
「別に睨んだ覚えはない」
「だったらその目が睨んでるって一刻も早く自覚しろよ」
バルガは今度こそ本当に睨んだ。胆の据わっていない輩ならそれだけで卒倒してしまいそうなくらいおっかない面相だけど、対するウォッカは至って普通だった。
「また泣かれるぞ」
「そんな奴は置いていくまでだ、構うだけの価値もない」
サラリと物凄く酷い事を言われた気がする。泣いていないだけまだマシだけど、もしそうしていたらさっさとトンズラこかれていても全くおかしくなかった訳だ。
眉間に亀裂が走るようにして皺が刻まれた。
こいつがイヤな奴である事はほぼ間違いない。それがイヤな奴から悪い奴に昇格する日もそう遠くはない、と思う。早ければものの数分後にも訪れそうな気がした。
抜き身の刃のような目がこちらを見た。
「回復してるなら支度くらい手伝え」
病み上がりだから無理をするななんて発想は欠片も窺えない。でも望む処だ。いつまでも病人扱いされるのは本意ではない。
「カノン」
ウォッカが小声で囁いた。
「今のあいつの言葉を一般的に解釈すると元気になって良かったな、って事だからな」
意味合いが鼓膜から脳ミソの奧に浸透するまで随分時間がかかったような気がする。少なくとも聞いた瞬間理解出来るほど柔軟ではない。
「だったら何で最初からそう言わないんだよ」
「見りゃ判んだろ」
肉の焼き加減を確認しながら配膳している無愛想男の横顔を改めて見る。あれがにこやかに微笑む様が想像出来ない。
それに近いものを感じた。
何処に彼の本心があるかは判らない。でもそれを誰かにおいそれと晒すような真似は絶対にしない。素直じゃないと言えばそれまでだけど単純にそれだけでは済まない何かを抱えている、と言う事にしておこう。暫定的な措置だけどあの無愛想男を手っ取り早く理解するにはこうするしかない。
それにしても。
思い出そうとしたら鼻の辺りがヒクヒクした。油断すると途端にお腹が捩れて痛くなる。
病み上がりの状態であんな言葉を浴びせられたらやっぱりヘコむ。誰だって好き好んで風邪をひくハズがない。だからあんな冷たい言い方しなくてもいいではないか、と思った。少なくとも聞かされたその瞬間は。
でも。
好意的に解釈すればそういう風に聞こえない事もない。それを直ぐ様冗談混じりに伝えてくれた事に感謝すると同時に堪らないおかしさも感じた。
まるで夫婦漫才でも見ているような気分になった。
バルガと言う人一倍無愛想で感じが悪くて気難しい男の個性を、性質を理解していなければあんな言葉は何処を引っ繰り返しても出て来ない。ヘコむかも知れない自分をさりげなく庇いつつも相方を立てる事も忘れない。そして指摘した内容が妙にツボに嵌まって面白い。
益々以て判らない。何なんだこいつら。一体どういう関係なんだ。
いつの間に用意したのか、ウォッカはかなり大きめのフライパンでサイコロ状に刻んだ肉を焼いていた。焦げ付かないように時折木杓子で転がす事も忘れない。ガサツな外見に似合わず芸が細かい。
「手伝っていいかな」
「特別に許可してやろう」
おかしな事を真顔で言うな。何処まで本気で言っているのか判らない。でも雰囲気全体に妙な愛嬌がある。そこが憎めないと言うより、素直に面白い。
「食って片付けたらすぐ行くぞ」
いつもより少し硬い声がすぐ隣から聞こえた。
「気合入れてけよ」
本気の声だった。冗談が入り込める余地など欠片も残されていない。
弛みかけていた腹筋に力が入った。