第一章 ~仕込み~ その5
半病人が完全に寝入った事を確認すると、連れは額に当てていた手をゆっくりと離した。さっきと違いふとした拍子に目が開くような気配はない。
触れた額は温かいを通り越して普通に熱かった。相当な高熱が出ていた事は間違いない。そんな背中を無理矢理蹴飛ばすようにしてかかって来た野盗五人のうち二人は退けたのだ、華奢な見た目に反して中々の根性だ。
精も根も尽き果てて、腹もすっかりいっぱいになって泥のように眠っている。
「熱はどうだ?」
「大分下がった。早けりゃ明日の朝には回復するんじゃないかな」
そうなってくれた方が助かると言うよりそうなってくれないと困る。熱が引かなかったら無駄な足止めを食う事にもなりかねない。
「よく寝てるよ。相当疲れてたな」
普通に考えるまでもなく疲労困憊になって当然だ。
この周辺は人里も少ない。誰に頼れる訳でもなく、食糧が尽きれば現地で調達する以外に手立てもなく、孤独と飢えに怯えながら延々歩き続けるにはそれなりの度胸と根性を要する。そこに今回は賊の襲撃が加わった事になる。
呑気に寝息を立てる餓鬼の顔を睨む。
髪は薄く白が混じったような淡い金髪だった。紙ほど病的ではないが新雪のように白い肌が焚き火の灯りを鮮やかに弾き返していた。目鼻立ちも充分整っている部類に含まれる。何をするまでもなく引く手数多だろう。
そんな餓鬼が一人で旅をする理由が何処にあると言うのか。
「で?」
「何だよ、で、って」
「いつまでその餓鬼の面倒を見るつもりだ?」
連れは焚き火の向かい側に腰を下ろすと予め弾いていた猪の肉を串に刺した。
「酒がねえのが悔やまれるな」
質問を綺麗に無視された事より嬉しそうに肉を頬張る表情に若干の苛立ちを覚えた。聞いていない訳ではないが話をかわすのが上手い。
「で、あいつをどうするかって?」
返事の代わりに残していた肉を口に放り込む。空腹を満たすにはまだ少し足りそうにない。
「何処に行くか知らねえけど、身の安全を確保出来る所までは見送るべきだろ」
模範的過ぎる回答だった。ただ当然の事ながら面白味や意外性を求めている訳ではない。判断として妥当であると言うだけだ。
「お前は関わらないって言うんだろ? 別に構わねえよ」
怒るでも呆れるでもなく至極アッサリ頷かれた事に多少戸惑いを覚えた。
「餓鬼一人満足に面倒も見れないようじゃこの先何やっても続かないだろうからな」
先を見越した上での発言に違いなかった。それが現実になるのは当分先になりそうだった。だが確実にやって来る。それがいつなのか判らない、それだけの話だ。
「いくつか知らねえけど大したもんだよ」
肉の塊を無造作に口に放り込む。前々から思っていた事だが食べ方に品がない。互いにそこまで気を遣う必要がないと言われたらそれまでだが。
「背伸びするのは大いに結構だけどそこが余計に危なっかしいからな」
寝息を立てる主の脇で見張りでもするように相棒がクルミを両手で抱えたまま睨みを利かせている。下手に近付こうものなら本気で噛み付いてくる、それくらいの気迫を感じた。
だが主は気力も根性も綺麗に使い果たして倒れている。若い分回復も速いだろうがどうあっても休息は必要だ。
「明日の事は明日にならなきゃ判らねえだろ」
ある意味正論だが酷く無責任にも聞こえた。明日吹く風もあるだろうが無風だったらどうするつもりなのか。
だが別段特定する必要もない。可能性の数に応じて選択肢を用意しておけばいい、それだけの事だ。
「取り敢えず、食えるうちに食っておこうぜ」
連れが肉を刺した串を差し出す。いつ食えなくなるか判らない、そしてその可能性と常に隣り合わせにある。それが旅人の日常だった。
「戻れるならば一日でも早い方がいい」
「お前の事情は最大限考慮するよ」
ふざける事も茶化す事もしない。こいつはこいつで結構堅物だ。根が真面目なのだろう。
「その上でお前に迷惑がかからないように配慮もする」
「当然だ」
当たり前過ぎて頷く気にもなれない。そんな判り切った事を敢えて口にする処のこいつの意図がある。
「だからそんなおっかない面すんなよ」
顎の動きが止まった。目尻が小刻みに引き攣る。
上目遣いに睨み付けると連れがここぞとばかりに笑っていた。こいつにしてみればちょっとした駆け引きだったのかも知れない。その真偽を確かめる気はないが結果的に従う方に誘導されたような形になる。
溜め息が出た。
こいつといると著しく調子が狂う。正直苛立ちは普通に覚える。だがそれだけだった。腹を立てる事に意味はない。むしろ全力で回避しなければならない。この程度で感情は乱れない、そして乱されない。
「次の街まであと十里か」
連れが手の甲に落ちた脂を舌で舐め取る。
道中別段問題が発生しなければ日が出ている間に到着出来る。ただそれは連れがこの男一人で順調に進んだ場合の話だ。
焚き火の脇で静かに寝息を立てているもう一人を見る。
普通に殺しに来た敵を二人返り討ちにしている処を見ても完全な素人ではない。身を守る術を養っていなければ一人旅などまず無理だ。命を捨てに行くのと変わらない。ただどの程度使えるかは未知数だった。
そして体はどれくらい頑丈なのか、現実的にはそちらの方が遥かに重要だった。一日で移動出来る距離が減ればそれだけ本国への到着が遅れる事になる。足が痛くて歩けませんでは話にもならない。
横たわる餓鬼をもう一度見る。
本来ならば親か保護者の庇護下に置かれる年齢だ。何を考えて、何を目的に旅をしているのか全く判らない。取り敢えず、厄介者はさっさと手放すに限る。抱え続けたところで何がある訳でもない。
「酒が恋しいなぁ」
肉をかじりながら呟く連れの横顔に微妙にイラつくものを感じた。丸一日経てば間違いなくありつける。最後の最後に踏ん張りが利かなくなるような馬鹿ならば話は別だが。ただ気持ちは判らなくもない。
白い煙が真っ暗な夜空に音もなく吸い込まれていく。吹いた風に引き裂かれた煙は闇の中に溶けるようにして消えた。