第一章 ~仕込み~ その4
不意に肉の焼ける匂いが鼻先を掠めた。無意識に鼻の奥まで吸い込んでいた。途端にそれまで眠っていた食欲が目を覚ました。
そして本当に目が覚めた。
ウォッカが焚き火の前でしゃがみ込んでいた。持っていた塊をやや長めの棒のようなものに突き刺すと火の縁に刺した。そのままだと重みで倒れてしまうけど火のすぐ脇に置かれている石の縁に棒が当たっていい案配に安定していた。棒に突き刺した塊を火が舌を伸ばすようにして舐め回している。
もう一度息を吸い込んだ。微かに肉の焦げる香りがした。
「起きたな」
視線に気付いたのか、ウォッカがこちらを見て笑った。
火が弾ける音に混じって微かに何かが滴るような音が聞こえる。反射的に周囲を窺っていた。今雨に降られるのは、打たれるのは避けたかった。体が冷えてしまう。でも空は綺麗に晴れ渡っていた。薄日が差し込むように辺りが白く光っている。
近くに立っている木に巨大な塊がぶら下がっていた。下を向いている一箇所、いや二箇所から何かが滴っていた。首と思われる部分に縄が巻き付けられ、木に吊るされている。ようやくピンと来た。血を抜いているのだ。 食欲が空っぽだった胃袋を激しく揺さぶった。
「腹減ってるよな」
素直に頷いた。赤らんだ頬を隠す暇もない。
「あと少しで焼けるからもうちょい待っててくれ」
口元を拭ったのは涎が垂れそうになったからだ。それくらい空腹を感じていた。格好悪いと恥じる暇も余裕もない。
「それ、肉だよね?」
「ああ」
吊るされている肉の塊を見る。暗いせいもあるけどそれが何なのか判らない。
「何の肉?」
「猪だよ」
眉が上がったのが、目を少しだけ大きくしていたのが自分でも判った。
「何だ、猪は初めてか?」
「いや、そういう訳ではないけど……」
ただ少し意外な気がした。こんな時間に猪が捕らえられるものなのだろうか。そして猪一頭を仕留めた事にようやく気付いて今度は本気で目を見開いていた。
「この時間帯って、猪っているものなのかな」
「元々夜行性だぜ、確か」
「そうなんだ」
知らなかった。見かけた事はあったけど全て日中だった。我ながら単純だなあと思う。
「それにしても、よく仕留められたな」
ウォッカは照れるでも謙遜するでもなく短剣を握っていた手を軽く上げた。
「どうやって仕留めたんだ?」
「こいつら基本的に向かってくるからな、例外もいるけど。逃げ回る奴らに比べれば余程楽だよ」
飽くまで面倒がないと言う意味での話だろう。
木から吊り下げられている巨大な肉の塊を見る。
こんな事が楽であって堪るか。
「具体的に、どうやったんだ?」
「背中見せると追い掛けて来ると言うか突っ込んで来るんだけど、それを逆手に取る」
背中を見せると追い掛けて来るのは何も猪に限った事ではない。野性動物の習性と言っていい。狩猟本能に依るものか、そうして敵を撃退して来た経験が彼らを突き動かすのか、それは判らないけど。
「で、見つけたらまずジッと目を合わせて……」
「合わせて?」
それからどうすると言うのだろう。睨めっこだけでは狩りにならない。
「相手がこっちを敵と認識したらすぐ背中を向けて走る」
非常に危険な行為だ。猛然と突っ込んで来る事は火を見るより明らかだった。自殺願望があるならば兎も角、
そんなやり方で狩りをするような話は聞いた試しがない。
「で、相手が突進して来た事を確認したらこっちも突っ込む」
「そこを、迎え撃つ訳か」
猪突猛進と言う言葉の如く猛然と突進している様は何度か見かけた事がある。正確な速度は判らないにしてもこれだけ大きな体が相当な速さで走る、いや突っ込む。衝撃も相当激しいに違いない。
それを迎え撃ち、且つ打ち勝った事になる。
「どういう体してんだよ」
突っ込んで来た処を剣や槍で頃合いを見計らって正面から串刺しにするにしても衝撃に耐えうるだけの筋力は最低限必要だ。それがなかったらあっさり吹っ飛ばされる。それに芯を外したら武器もタダでは済まない。良くて変形程度か、最悪破損しかねない。
ウォッカは傍らにあった切り株をまな板代わりにして短剣で肉を捌いている。手付きが様になっていると言うより普通に手慣れていた。何より短剣が壊れているような様子はない。
「その短剣で、突き刺した?」
「そんな刀身が痛むような真似するかよ」
だったらどうしたと言うのか。その状況で確実に仕留める方法がそれ以外思いつかない。
ウォッカは順手に握っていた短剣をクルリと回すと逆手に持ち替えた。刃ではなく柄の先を指で叩く。
「ここで、」
見えない何かを叩くようにそのまま柄を前に突き出した。
「柄で?」
「眉間に一発」
鉄の塊だ、硬い事は間違いない。
枝からぶら下がっている猪を見る。大人一人で抱えきれるような大きさではない。それが全力で突っ込んで来た勢いと衝撃を柄で撃ち込んだ一撃で止めたのだとしたら。
肉から剥ぎ取った皮を火の中に放り捨てる。さっきのように塊肉を棒に突き刺すのではなく今度はぶつ切りに刻んでいく。料理に精を出すよりも狩りに汗を流す方が明らかに向いている、と思う。でも包丁捌き、もとい短剣捌きが結構様になっている事も確かだった。
宙に吊られた猪の前に立つとウォッカは腰に差していたもう一本の剣を抜いた。長くもなく短くもない、随分と中途半端な大きさだった。それを真横に薙いだ瞬間、重苦しい音と共に猪の下半身が地面に落ちた。
「そろそろいいだろ」
刀身に付いた血を振り落とすと再び鞘に収める。簡単に言わないで欲しい。骨ごと肉を断つなんて稽古を積んだって容易く出来る事ではない。料理人の見習いなのか修行中の剣客なのか、どちらがしっくり来るのか見当もつかなかった。
火で炙っていた串を掴むとまるで釣り上げた魚を誇らしげに掲げるようにして差し出した。焼けた肉の香りが鼻の奥に一瞬で吸い込まれる。条件反射の如く溢れたよだれを慌てて飲み込んだ。
「い、いいの?」
「そんな嬉しそうな顔して言うなよ」
鏡があるならどんな顔をしていたのか見てみたかった。でも物も言わずにかぶりつくような真似をしでかさなかった事に少しだけ安堵していた。醜態とまでは言わないけどみっともない事に変わりはない。
串の先端をかじる。たちまち肉の脂と旨味が口中に拡がっていく。
それだけで天にも昇るような気分だった。
熱さで直接掴む事は出来なかった。でも指先で押さえながらかじりつく。後は食欲の赴くままに歯を突き立て続けていた。自制が利くハズもない。
「バルガも食えよ」
「もう食ってる」
いつからいたのか、焚き火を挟んだ丁度真向かいに無愛想の塊が腰を下ろしていた。わざと目を伏せているのか、こちらを見ようともしない。
だとしたら対応としてかなり大人気ない気がする。そういう風には思えなかった。
彼もお腹を空かせていたのか無言で肉をかじっている。美味いも不味いも言わない。そしてさっきから肉を焼いているウォッカもそれを求めるような真似はしない。実に淡々とした雰囲気で肉を焼き、そして刻んでいる。
「こっちも頃合いかな」
焚き火の真ん中にぶら下がっていた箱状のもののものの取っ手に棒切れを引っ掛ける。火から外すと蓋を開けた。途端に蒸気が溢れ出る。
ウォッカはそれを少し大きめの匙で掬うと人数分用意していた器に落とす。それに小匙を添えて出してくれた。
白米だった。炊き上がり特有の仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「炭水化物も摂っとかねえとな」
ならば野菜も欲しい処だけど贅沢は言えない。それに肉があるおかげでご飯も進む。既に充分ご馳走だった。
しばらく無言でご飯を掻き込んでいた。初対面の、それも命を救ってくれた人を前にしているのだからもう少し行儀よく、礼儀正しくすべきところだろうけどそんな余裕は何処にも残っていなかった。
「どうしてお前一人がここにいた?」
誰にかけられた言葉だったのか咄嗟に判らなかった。顔を上げると無愛想が矢のような目でこちらを睨んでいた。心臓が音を立てて跳ねた。本人は見ているだけなのかも知れないけど。
それに言葉の意味を図りかねた。一人でいた事の意味合いが判らない。
「この辺りは村や集落も少ない。一番近くでも川沿いを十里北上した所にある、ガキが一人でうろつくような場所じゃない」
あまり触れて欲しくない、いや聞かれたくない部分のど真ん中を寸分違わずに打ち抜かれたような気分だった。言葉に詰まる。
「道を間違えたか、或いは迷ったか」
「それもあるんだけど……」
匙を器に置くと今度はカノンが目を伏せた。彼らには恩も義理もある、黙っている事は上手くない。
「迂回して山の裾を歩いて行くべきなのは判ってたけど、かなり距離もありそうだったし時間もかかるだろうから。だから山を越えて行ったら……」
「下山した頃に食料が尽きたか」
喉元が強張る。無愛想、もといバルガは疲れたように溜め息を吐いた。
「まずは地図通りに歩くんだな。次迂闊にそんな事をしたらどうなるか判らんぞ」
非常に有り難いお言葉だけど痛くて耳が千切れそうだった。お願いだから苛めないで欲しい。
「ま、お前も似たようなものか」
バルガはそこでどういう訳かウォッカを睨んだ。睨まれたウォッカは一瞬呆けたように自分の顔を指差すと肩を揺らして笑った。
意味が、状況がよく判らなかった。
「どういう事?」
「俺も少し前に地図の縮尺を見間違えて歩いてたら少し厄介な所に迷い込んじまってよ」
厄介な所と言う割りには声にも雰囲気にも気不味さや後悔は窺えない。むしろそれを歓迎するように笑っている。
「どう、厄介だったのかな」
「馬鹿なならず者達に街を牛耳られてて、そこでしばらく足止めを食う事になったんだが」
「どれくらい?」
「丁度一週間だよ。とても一週間とは思えないけど」
ウォッカは少し遠い目をして夜空を見上げた。空の大半を星が埋め尽くしているけど暗い事に変わりはない。
「そこで何かあったの?」
「色々な。と言うかそこでこいつに会ったんだよ」
焼き上がった串をまるで二刀流のように両手に持ったウォッカが直角に交わる位置に座った。
「その街で、」
この二人は知り合ったのか。
二人の顔を交互に見比べていた。
朗らかと無愛想、お喋りと無口。一見するだけでは水と油のように絶対混じらないように思えるけど、その予想をかなり大きく覆して実に平和的な雰囲気に包まれている。バルガは終始仏頂面を崩さないけどそれを気に留めるような気配はウォッカにはない。バルガのそういう性質をよく理解した上で上手くあしらっている、ように見えた。そんな事は絶対に言えないけど。
「ウォッカがその街に行った大まかな経緯は判ったけど……」
その先が続かない。下手な事を言ったら本当に矢で射抜かれるような気がした。
「どうしてバルガがそんな所にいたかって?」
「任務だよ」
おっかなびっくりしながら頷くと本人が合いの手を入れた。或いは無粋な横槍かも知れない。
「どんな任務なの?」
ウォッカが微妙に視線を逸らした。その先にいるバルガは仮面が張り付いたような無表情で顎を動かしている。
「本人に聞いた方がいい」
かぶりついた瞬間に滴り落ちた脂を指で掬うと舌先で舐める。普通以上に老けた横顔が悪戯小僧に変わった。
「少なくとも他人が応えるべき事じゃない」
事情を知り得ていても他人が安易に口にすべきではない。確かにご指摘ごもっともだ。
横目でチラリと当事者の顔を盗み見る。
まるで作業のように淡々と肉を噛み、ご飯を掻き込んでいる。 感情は一切読み取れない。
その当人が当てにならないからお前に聞いているんだ、と言いそうになってしまった。そしてそれが判らないほど彼は馬鹿ではないと思う。馬鹿を演じているように見えなくもないけどそれを装う程度の余裕が窺えた。それに、大抵は寝覚めのいい朝を迎えた時のように笑っている。
全く、一体どんな関係なのだろう。
そして正反対にしか見えない二人が仲良く連れ立って旅をしている理由が判らない。一方は人を平気で邪険にするくらい感じが悪いけど二人の間に険悪な雰囲気は欠片もない。
面白いのか不可解なのか判らない。
何よりそんな二人にこうして関わっている。そして、いつまでかは判らないけどひょっとしたらこれから先も彼らと行動を共にするかも知れない。
「本当は味付けしたかったんだけど」
咀嚼した肉をて飲み込むと休む事もなく豪快にかぶりつく。
「三日前に香辛料切らしちまってよ。悪いな、味気無くて」
「そんな事ない、凄く美味しいよ」
軽く歯を突き立てるだけで脂が溢れる。
動物の肉はよく動かす箇所ほど脂が載るし旨味も強いと聞いた事がある。実際味付けしていなくても充分に美味しい。
ウォッカが笑った。
「ありがとな」
全く、おかしな事を言う。お礼を伝えなければならないのはこちらの方なのに。
「まだまだたっぷりあるからどんどん食えよ」
食べ終えた串を切り株に立て掛けると上に転がっていた肉を捌いていく。忙しないけど雰囲気は落ち着いている。
「ありがとう」
ぶつ切りにされていた肉を串から外した。ご飯に載せると匙で一緒に掻き込む。
「これだけ食えるなら大丈夫だな」
ウォッカは納得したように頷いている。真向かいに腰を下ろしている無愛想は相変わらず黙ったまま肉を噛んでいた。
体の感覚が掴めなかった。何をしているのか、どうなっているかも判らない。真っ暗闇の中を灯りも持たずに歩いているようだった。このままでは身動きが取れない。
そう思った瞬間に意識が戻った。
まだ目がボヤけていて前がよく見えない。誰かが傍にいてくれているのは辛うじて判った。そして額の上に何かが載っている。でもそれが何なのか判らない。
「寝てろって」
誰かが言った。包み込むような声だった。
額が温かい。熱があるのだから額は冷たい方がいいのだろうけど、まるで吸い込まれるような不思議な心地好さがあった。
「あれ……?」
記憶が非常に曖昧だった。いつ横になったのかまるで覚えていない。ハッキリないと言い切っていい。
焚き火はそのままだけど食器はもう何処にもない。意識をなくしていた、いや眠っていた間に片付けたに違いない。 全く手際がいい。
「眠ってたんだ」
「ああ」
「ごめん、食べてる最中に。それに後片付けも……」
「だから寝ろって」
年の離れた弟妹を寝かしつける兄貴のようだった。いくつなのか皆目見当もつかないけど。
「それとも起こしちまったか?」
「いや、このままで……」
離そうとしたウォッカの手首を咄嗟に掴んでいた。自分の意思とは関係なく目が開いただけだ、決してこの手が安眠を妨害した訳ではない。
傍に誰かがいてくれるだけで、こうして額に触れてくれているだけで本当に心の底から安心する。体だけでなく心もそれくらい弱っている、その顕れなのかも知れない。
「ウォッカ」
ウォッカは軽く首を傾げた。子供を相手にするような反応だった。でも別に構わなかった。まだ子供だからだ。半分以上は大人に足を突っ込んでいるつもりだけど。
「本当にありがとう。助けてくれて、それに食事の支度とか、こんな、世話まで……」
「それはもう何回も聞いてる」
うんざりしたように顔をしかめながら首筋を掻いている。照れを隠すほど器用には見えない。でもバツが悪そうな事は確かだった。
「俺、こう見えて結構繊細なんだよ」
「枕が変わると眠れないとか?」
「いや、それはないな」
真っ先に、真顔で否定された。突発的に笑い出しそうになった。真面目な顔がここまで似合わないのも珍しい。
「でも病人が寝付くまでは無理だな。気になって眠れやしねえ」
お湯が沸くようにして顔が、頬がゆっくりと熱を帯びていった。
つまりさっさと寝ろと言う事だろう。どうして普通にそう言わないのだろう。全く、素直じゃない。むしろこういう遠回りな言い回しの方が余程恥ずかしい、と思う。顔が熱くなったのも恐らくそのせいだ、と言う事にしておこう。当人も相変わらず真面目腐ったままだった。
「寝ろよ」
「はい」
素直に頷いた。これ以上気を遣わせたくなかった。それにお腹がいっぱいになったせいで体の芯から末端まで何かに包まれるように温かかった。目を閉じたらそのまま一瞬で昇天出来る。
掌から伝わる温もりを額に感じながら目を閉じた。
本当に温かかった、何より心地好かった。
寂しくて堪らなかった。でも旅立ちを後悔した事は一度もない。動かない事には何も始まらない。旅を通して、身を以てそれを知った。
気を抜くと涙ぐみそうになる。でも悟られまいと隠すまでもなかった。視界から光が失われた瞬間、意識が真っ暗闇の底に埋没した。引き上げて欲しいとは思わなかった。今は気が済むまで、体が安らぐまで眠りたかった。