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野蛮人は北へ行く ~邂逅編~  作者: サワキ マツリ
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第一章 ~仕込み~ その1

一歩踏み出す度に額に、頬に雫が伝う。拭った手の甲に纏わり付いた汗を払った。喉の奥から吐き出した息は火が点いたように熱を帯びている。外に発散するのではなく体の内にこもる熱さだった。

 息だけではない、全身を熱が隈無く覆っていた。

 上げたつもりになっていた足が土から突き出ていた木の音に引っ掛かった。突いていた杖に慌てて縋ると何とか遣り過ごす。でも膝を突く事までは流石に堪え切れなかった。祈るように跪いたまま肩で荒く息をする。途端に体の芯から寒気が溢れ出して来た。

 胸に手を当てた。意識してゆっくり深呼吸する。

 出来る事ならしばらく休みたかった。でもその欲求とは相反するように渇きが喉を締め付ける。水が欲しかった、喉が渇いて堪らなかった。

 地図が正確なら、それを読み取る頭がまともなら、あと少しで川が見えて来るハズだ。休むのはそれからだった。そこに着くまでは何としても持ち堪えなくてはならない。

 指先が音を立てて揺れている。よく見ると爪の先端が杖に当たって小刻みに震えていた。堪えるように、いやごまかすように強く杖を握り締める。疲れた状態で夜露に濡れたのがまずかった。何より、まだ昼夜の温度差が激しい。昼間は比較的暖かくても日が暮れるとまだかなり冷える。昨夜はあまりに疲れていたせいで眠る前に外套を羽織るのを忘れていた。その暇もなく落ちるように眠ってしまったと言った方が正しい。

 不意に下腹部の辺りに鈍い痛みを覚えた。砂袋を飲み込んだような重苦しい感覚が胃の下の辺りを締め付ける。

 思わず舌打ちしたくなった。どうしてこう間が悪いのだろう。何れ治まる痛みだとは判ってはいても気持ちが萎える事も事実だった。自分の体なのに自分の思う通りにならない。それが余計に腹立たしかった。

 食欲がない訳ではないけど、今は渇きがそれを凌いでいた。喉を潤してからしばらく体を休めよう。食糧を確保するのはそれからだった。そしてその食糧もかなり心許ない状態になっていた事を、今この瞬間に思い出した。色んな意味で頭が痛くなって来たけど取り敢えずそれは棚に上げておく事にした。

 鳥が囀ずる声の間隙を縫うようにして微かに水の流れる音が聞こえる。川のせせらぎだ、間違いない。気持ちが少しだけ明るくなった。水を飲んで体を休めれば、体力が回復すればいくらでも挽回出来る。そう思う事にした。

 せせらぎに混じって微かに枯れ枝が折れる音がした。枯れ葉が踏み潰される音がそれに続く。

 咄嗟に握り締めていた杖を構えていた。熱で体が火照っているのに寒気が全身を走り抜ける。

 木の陰から二人、左右に一人ずつ、背後には一人、腰に下げている得物を抜く事もなく薄ら笑いを浮かべながら少しずつ距離を詰めている。

 今度こそ本当に舌打ちした。

 寒気がしたかと思えば次の瞬間には眩暈がするような熱さが全身を覆う。気を抜いたらそのまま倒れそうだった。でもそんな真似は絶対に出来ない。

 目の前にいた男が実に悠然とした雰囲気で剣を抜いた。浪人崩れか元々仕官する気もなかったのか、目付きも雰囲気も普通の人間とは明らかに違う。少なくとも人に斬りかかったり殴ったりする事に躊躇うような雰囲気は欠片もは窺えなかった。

 頭巾フードの中で大人しくしていた相棒が警戒するように素早く頭をもたげた。髭をヒクヒクさせているのが判る。それが驚いた時の、敵が現れた時の彼の癖だった。

「大丈夫、心配しなくていいから」

 差し出した指に横面を擦り付ける。滑らかな毛先が当たって少しくすぐったい。

「隠れてて」

 まるで頷くように頭を上下させるとリュックの中に体を滑り込ませる。一番のお気に入りの場所は確かに頭巾の中だけど今は状況がそれを許さない。それを感じ取り極めて迅速に安全を確保するための最善策を講じている。全く、主人に似ず頭がいい。

 感心している暇はない。さっきの男が柄尻を下げたまま鞘に手を添えていた。いつでも抜ける状態だ。

「命が惜しいなら有り金全て置いていけ」

 口調は静かだけど有無を言わさぬ雰囲気だった。迫力だけは認める、でもそれだけだった。素直に従ってもそうでなくても痛めつける程度の事はする。目付きが如実にそれを物語っていた。

 勿論、それに応じる気は更々ない。

 杖を持ち上げるとクルリと回して上下逆さまにした。

「何だ手前、やる気か」

 隣にいた男が柄に手をかけようとした時には石突きが深々と鳩尾に突き刺さっていた。胃液はおろか呻き声すら吐き出さずに両膝を突くと前のめりに倒れる。

 正面にいた男の顔が朱に染まった。取り囲んでいた全員が一斉に剣を抜いたのが気配で判った。


 風が吹く度に頭上の木漏れ日がまるで星が瞬くように煌めく。枝葉が伸びているお陰で日が差し込んでいても然程眩しくはなかった。丁度いい案配に濾された日差しが枯れ葉で覆われた土塊の上に僅かな残滓を落としている。

「なあ」

 背後から呼び掛ける声が聞こえた。

「もう少しゆっくり歩こうぜ」

 無視して歩き続けた。気にかけるだけ時間の無駄だ、純粋にそう思う。

「早いに越した事はねえだろうけど、そこまで急ぐ必要があるようにも思えないんだけどな」

 立ち止まると首を曲げて睨み付ける。

「睨むなよ」

 声の主は別に怯む様子もなくキョトンとした表情でこちらを見ていた。

「そんな物騒な面してるから旅籠はたごの娘に泣かれるんだよ」

 大きなお世話だ。だが事実だけに切り返す言葉に詰まる事も確かだった。

 一昨日、小休止で立ち寄った旅籠で愛想よく注文を取りに来た娘を見ようとした瞬間、音もなく彼女の表情が凍り付いた。と思った時には細い悲鳴を上げて泣き出していた。

 突発的に怒りそうになった。

 注文を取りに来た娘を見ただけだ。別に邪険にした訳ではないし況してや睨み付けるような真似はしていない。なのに、何故派手に声を上げて泣かれなければならないのか。店主と連れが間に入ってくれたお陰で収拾はついたが腑に落ちないと言うか釈然としないものも同時に感じた。

「もう少し口角上げてよ、歯ぁ見せて笑うようにすりゃ多少印象も変わるって」

「ふざけるな」

 連れは真っ直ぐ伸ばした人差し指で両方の口角を持ち上げるといかにもわざとらしい作り笑顔を浮かべた。不自然極まりないせいで不気味さしか感じない。

「硬いな、隊長」

 拳を振り抜いた時には背後に飛び退かれていた。すばしっこい上に身も軽い。まともに当てようとするだけ時間と労力の無駄だった。それは既に身を以て学習済みだ。

「長い道程なんだから、旅を楽しむくらいの余裕があった方がいいだろ」

「旅じゃない、任務だ」

「もう終わってんだからいいだろ」

 硬えな。呆れるように首を傾げる連れの面が無性に憎たらしく見えた。いい案配に力が抜けていると言えばそれまでだがそれが微妙に噛み合わない。それに若干苛立ちを覚えているがこいつにそんな気配は一切ない。

 最大の違いはそこだった。

 巻いていたゼンマイが切れるように少しずつ速度を落として行く。振り向くと連れが満足そうに笑っていた。無駄に無邪気だった。或いは単純と言うべきか。

 額に手を翳すと連れは木漏れ日の向こう側にある空を見上げる。

「平和だねぇ」

 鳶の鳴き声が僅かに尾を引きながら空の彼方に消えて行く。軽く汗ばんではいるが暑さは感じない。普通に歩くだけならば汗が滴る事はまずない。暑くもなく、そして寒くもない。陽気としては一番過ごしやすかった。

 背後で硬い何かが潰れるような音がした。

 連れは硬貨を指で弾くように掌にあったそれを口に放り込んだ。

「食うか?」

 応えるより先に連れは握っていたものをこちらに投げて寄越した。宙で僅かに回転しているそれをじっくり観察しながら掌で受け止める。

 連れの掌の中から潰れると言うより砕ける音が聞こえた。

「美味えぞ」

 掌の中にあるクルミを見ながら今度は周囲に視線を巡らせる。意識して探すまでもなくそこら中に転がっている。リスやネズミには天国に違いなかった。少なくとも餌に困る事はない。誰かが保存食として土の中に隠したクルミが時を経て芽を吹いたのだろう。それも自然の営みの一つなのかも知れない。

 クルミを掌で包むとゆっくり力を込める。程なくして抵抗が消え去った。殻を適当に放り捨てると中身を口に含む。微かに脂の香りがした。懐かしい味だった。

 見ると連れが転がっているクルミをせっせと拾い集めている。散らばった小銭に群がる守銭奴のようだった。

「おい」

 拾ったクルミを時折握り潰しては中身を口に放り込んでいる。手も口も休む気配はない。

「何してる」

「何してるって、」

 リュックから取り出した布袋に落としながら邪魔になった殻を雑草の陰に捨てている。

「決まってんじゃねえか、食糧の確保だよ。おかずくらいにはなるだろ」

 移動の最中は料理と呼べるほど大層なものを食べる事は難しいが、それでも足しになるならそれに越した事はない。そして費用が発生する事もない。

 喉元まで上がって来ていた溜め息を無理矢理飲み込むと膝を折った。結果的に従った形になるが考え方は妥当だった。携帯している保存食にも限りがある。後は必然的に現地調達で賄うしかない。

「なあ」

 草でもむしるように淡々とクルミを拾い集めていた連れが何かを思い出すように言った。

「腹減ったな」

 どうしてこう余計な事を言うのか。条件反射のように胃が蠢動した。

「飯を食うのは日が落ちてからだ」

「どうしても?」

「どうしても」

「予定に変更は?」

「ない」

 連れが露骨に顔をしかめた。勿論意図があっての事だろうがイラつく事に変わりはない。

「もう少し歩けば川に着く。川沿いをあと十里北上すれば街が見えて来る。明日の朝、遅くとも昼までにそこに辿り着ければ上々だな」

 移動中は元々昼食を摂らない。支度に時間がかかる上に足も止まるとなれば積極的に箸を動かす気にはなれない。故に食事は主に夜に摂る。食べれば後は寝るだけだ。朝食を摂りたいなら作ったものを取り置いておけばいい。距離と時間を稼ぐために夜通し歩く事もなくはないが今はそこまで切迫していない。

 昼は歩く。一時感じた空腹程度でそれを変える気はない。

「そろそろ行くぞ」

「はいはい」

 握っていたクルミを袋に放り込む。横顔に未練が張り付いていた。

 腰を上げようとした時、少し離れた所から金属と金属がぶつかり合う音が聞こえた。一度や二度ではない、短い間隔で硬い音が連続して響いている。

「先行くぞ」

 リュックを背負ったまま一気に駆け出した。無駄に広い背中があっという間に小さくなる。声をかける暇もない。

 自然と舌打ちしていた。後先の事をまるで考えていない。全く、馬鹿はこれだから困る。だがこのまま捨て置くのも後味が悪かった。あいつにはまだ借りを返していない。それを清算する義務と責任がある。

 足を踏み出す度に枯れ葉が舞った。少しずつ体温が上昇していく。だがそれを発散させる暇は恐らくない。


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