月のサナトリウム
sanatorium ラテン語
療養所。郊外に設け清浄な自然環境を利用し結核等の慢性疾患の治療を目的とする施設。
*
何度目かの暗い朝がまたやってきた。
あたしとあいつの絶望の朝だ。
*
どこまでもどこまでもずーっと続くみたいに長い長い暗闇の中をぺたぺたとあたしの靴音だけが響いている。この真っ暗な廊下を歩くたびにいつも想像する。大きな蛇とかの爬虫類に飲み込まれた自分を。いつかあたしは爬虫類の胃液に溶解されて、この闇と同化するんだ。非常灯の赤い光の点を二十七回数えた先にエレベーターがある。廊下の照明が全滅しているようにこの施設は最低限必要な設備以外のきなみ電源を落としている。当然のごとくこのエレベーターも死んでいた。あたしは使えないエレベーターをスルーしてその左横の階段を二段飛ばしで駆け降りて深い深い闇の最下層に到着した。この階は非常灯の光さえない。でも目的の場所はすぐにわかる。そこからだけ微かに光が漏れているから。あたしはヒビの入った扉の前に立つ。ヒビからこぼれ落ちる光が廊下の埃や壁の血痕を照らしていた。あたしは寝巻きがわりのスウェットのポケットからカードキーを取り出してリーダーに読み取らせる。ぎぎと耳障りな音がしていつものように半分くらい扉が開く。あたしは中途半端に観音開きした扉を蹴破るようにして中に強引に突入する。
蝉の声がした。
あたしの黒い影が白く光る地面で踊る。
周囲の緑からわざとらしいくらい爽やかな匂いが立ち込めている。
一瞬で体温が上昇して、額に汗が浮かんだ。
夏。
夏が広がっていた。
人工のだけど。
あたしはあたしより背の高いキュウリやトウモロコシの茎と茎の間のわずかな空間を、道と呼ぶにはあまりにもせまっくるしい空間を作物の海をかけわけつつ進んでいく。ほんの少し歩いて後を振り返る。さっき蹴飛ばした扉はもう見えなくなっていた。あいつの話によるとこの菜園はちょっとした野球場くらいの広さがあるらしい。その中にほとんど隙間なくびっしりと作物が植えられているのだから、ひとたびその中に飛び込めば視界は東西南北どこを向いても野菜の葉と茎に埋めつくされてしまう。ここは方向音痴のあたしにとって緑色の迷路なのだ。あたしはいつも適当にたぶんこっちと歩いていく。だからあいつの居る広場に十分くらいでたどりつける時もあれば、一時間くらいかかってしまう時もある。そのせいであいつに会えない日もあった。何かしるしでもつければいいのかもしれない。と、一瞬考えてすぐにその考えは打ち消した。何だかそれは違う気がした。今日はなかなか広場につかない。暑いのと空腹で足元がフラついてきた。肺から吐き出す息にも熱気がこもってきた気がする。あたしはその場にぺったりと座り込んでしまう。緑色のフレームに飾られた空を睨んだ。天井にハメ込まれた巨大スクリーンには大きな入道雲のCGが映っていて、雲間にはちゃんと太陽が輝いていたりなんかりする。うっとおしい。小石を拾って投げつけた。当然スクリーンに届きはしなかった。
ふいに曲が聞えた。
あたしも知ってるフォークダンスの曲だ。
あたしは立ち上がると、曲が聞えてくる方へ駆け出した。すぐに視界が開けて見知った背中があたしの網膜に飛び込んできた。
たららった、らららら、らんらんらん
あいつは背中までのびたサラサラの黒髪で空中に何度も弧を描く。白いワンピースが嫉妬するくらい似合っていて、無邪気な笑顔はこんなあたしでも優しい気持ちになるくらい愛くるしかった。でも、その笑顔は今あたしには向けられていない。もういるはずのない誰かに、あいつの隣で踊っていると仮定される誰かに、もうすでに故人となってしまった誰かに向けられていた。あいつはあいつにだけ見える透明なパートナーと毎日毎日フォークダンスを踊り続ける。とっても楽しそうに。本当は一人なのに。
あたしは今日も踊りの輪には交じらない。ただ黙って、はしゃいで踊るあいつを見つめるだけだ。
曲が終わって、あいつが脚を止めた。振り返る。あいつが、カナタがようやくあたしの存在を認識した。あ、何だそこにいたんだというような顔をカナタはあたしに向けて「おはよう」と言った。あたしも「おはよ」と言葉を落とした。
「戦、今日は空豆とジャガイモとほうれん草がとれたの。みんないい感じだよ。きっと地球のよりおいしい」
「そうだといいけど。月の野菜ってちょっと苦いから」
「ふーん。そうなんだ」
「月しか知らないもんね。カナタは」
「うん」
こくんとうなづくカナタ。地球をしらない地球人だ。
「朝ごはん、作るね」
カナタはベンチに置いてあった野菜籠を抱きかかえるとばたばたと忙しなく走っていく。あいかわらず元気な子。あたしは緑の迷路に消えていくカナタの背中をずっと目で追い続ける。
今日もあたしとカナタの朝が始まる。
逃げ出したあたしとぶっ壊れた男の子が迎える朝が。
*
あたしこと南條戦が初めて月に想いを馳せたのは忘れもしない、あたしが施設に入れられた日のことだ。あたしは当時、結構過激なイジメを受けていた。上靴がゴミ箱の中で発見されたり、ノートが引き裂かれて窓から放り出されたりするのはもはや日常茶飯事で、頬を腫らして帰宅する日もそんなに珍しくはなかった。でも、あたしには味方と呼べる存在はただの一人もいなかった。あたしに〝戦〟なんていう物騒な名前をつけた両親は家庭内別居状態であたしを気遣う余裕なんてカケラもなかったし、クラスメートは全員敵で、担任も完全に日和見を決め込んでいた。
ありきたりではあるけれど、あたしにとって絵に描いたような地獄の毎日が延々と続いた。
この世は戦場で、弱い者が奪われて、なぶられて、最後には殺されるんだ。
それが戦いの日々の中であたしが唯一学んだ教訓だ。
だから、あたしが殺される前に殺してやろうと考えたのはごくごく自然な成り行きだった。
ある日の朝、あたしは教室でイジメの主犯格だったクラスメートをナイフで刺した。ナイフは年齢を偽って通販で買った安物だったけど、割と相手の体深くまで届いたと思う。あたしに傷つけられた哀れな兵士が床に崩れ落ちた後、教室という名の闘技場ではいたるところで叫びとも歓声ともつかない声が上がった。あたしはあたしを守ったのだ。誇らし気な気持ちがわきあがってくる。喧騒が心地よい。あはははは。あたしは血で汚れた制服姿のまま教室を飛び出し、大声で笑いながら校舎の中を駆け回った。
あとはすべて予想通り。
あたしは警備員と体育教師に力づくで取り押さえられた。補導された後、形だけの裁判が行われてあたしは精神を矯正する必要があると判断され、施設に入所することになった。
白い壁、白いベッド、白いカーテン。お前はどうしようもなく汚れているんだから漂白するしかないんだと言わんばかりの部屋にあたしは閉じ込められた。唯一黒いものは鉄格子のついた窓からのぞく夜の闇だけだ。その闇のずっと奥の方に今にも折れそうな三日月が浮かんでいた。いつか歴史の授業で習ったことが脳裏に浮かんだ。月には不治の病を治療することを目的とした療養所があった、と。その時、まだ小学生だったあたしはその療養所に大して興味を持たなかった。ふーんと、聞き流していた。でも、今ならわかる。それは治療するための場所なんかじゃない。隔離施設だ。当時の地球政府は強い感染力を持ち、ひとたび発症すれば確実に死に至るその病を何とか根絶させたかった。でも、軌道上に宇宙コロニーをいくつも建設できるほどの科学技術を獲得した人類もすべての病原体に対処できるわけではなかった。感染者は世界規模で増殖し、一刻の猶予もなかったらしい。いっそその時に滅んでおけば良かったねーとあたしなんかは思うけど、政府は当然のごとくそうは考えなかった。だから人類は病原体を感染者ごと『地球の外』に追いやったのだ。
そうして、世界からは死の恐怖がなくなって、人々は平穏な生活をとりもどしたとさ、めでたしめでたし、ということだ。もちろん言うまでもなく、月のサナトリウムは見捨てられた。誰もそうは言わないけど、見捨てられたのだ。もう何十年も前のお話だ。
あたしは憧れた。
すでに廃墟となった月のサナトリウムに。周囲に誰もいない完全な孤独に。
行きたい。月に行きたい。
月に行って、完璧な一人ぼっちになって――そこで朽ち果てたい。
*
サナトリウムの最下層には菜園と同じく電源の生きている施設があとひとつだけある。食堂だ。本来なら何百人もの患者が同時に飲食するために作られたそれはおそろしくだだっ広い。あたしは月に来て以来、数回ここでカナタといっしょに食事を摂っていた。今日の朝食は空豆とジャガイモのスープとほうれん草のサラダ、それにパン。そこにお決まりのカルシウムスティックが加わる。月では土壌の関係で極端なカルシウム不足になるので、毎食これがつくらしい。あたしもカナタも健康のことなんてまるで気にしないけど、お菓子みたいに甘くておいしいからデザートがわりに食べる。あたしは薬みたいな白色をしたカルシウムスティックをかじりながら、食堂の中を見渡した。あたし達が使っている一角以外は叩き割られたテーブルに埃が降り積もっていたり、イスがひっくり返っていたりして一様に荒れ果てていた。よくよく見ると壁には凹みや穴があった。
「ボロボロ」あたしは何気なく感想を述べた。
「昔ここで食べ物の奪い合いがあって、たくさん人が殺し合いをしたんだよ」
まるでちょっとしたイベントがありましたー、みたいにカナタが笑顔で答えた。
口に放り込んだパンを租借しながら、あたしは少し眉を寄せた。
「これでも、結構キレイにしたんだよ? 隆弘と中島さんと僕の三人しかいなかったからすごく大変だった。ね? 中島さん」
カナタは隣の空席に向って声を発する。
あたしには見えない空気色の中島さんとカナタは会話を成立させていた。あたしはカナタのにこにこ笑顔が向けられている空間に視線を移す。中島さんの分としてテーブルに用意された朝食の皿しかあたしの瞳には映らない。もちろん料理は手つかずのまま残っていた。いろいろ何か言いたい気がした。でも、口にパンが入ってるからあたしは黙っていた。
「戦、お願いがあるんだけど」
あたしはサラダを目いっぱい頬張りながらカナタを見る。
「朝ご飯、隆弘に持っていってあげてくれる?」
「どうして、自分で行かないの?」
ミネラルウォーターで口の中の食物を胃に流し込んだ後、あたしは訊いた。
「昨日、隆弘とケンカしちゃったから会いにくい」
「あんたみたいな大人しい子でもケンカするんだ」
「よくわかんないけど、僕が隆弘の体拭いてあげようとしたら、気持ち悪いって言われた。その後、ご飯運んでも食べてくれない」
カナタはしゅんとうつむいた。
「ほっとけばいいじゃん、そんなヤツ。ごちそうさまー」
あたしは吐き捨てるようにそう言うと、わざと大きく音をたてて席から立った。何かムカついていたみたいだ。
「戦、お願い」
カナタは慌ててあたしのスウェットの袖をつかんだ。あたしは一瞬振りほどこうと腕に力を入れた。その時すでにカナタはぐすぐすと泣きはじめていた。鼻をすんすんすすりながら何度も何度も「戦、お願い」を繰り返す。結局、あたしはため息をついて、腕の力を抜いた。
「わかった。行くよ。で、その隆弘というヤツはドコにいるの?」
「あ、ありがとう。この上の208号室にいるから」カナタは涙目のまま満面の笑顔を咲かした。
あたしはぶつぶつ文句を言いながら、トレイを手にした。
「その隆弘が変なヤツだったら、トレイぶつけて蹴り入れるけどね」
「ううん。隆弘いつもは優しいから大丈夫」
「ふーん。そりゃ良かったわね。ねぇ、カナタ」
あたしはトレイを持ったまま、カナタを見た。
「何? 戦」
「その隆弘って、生きてるんだよね?」
一瞬の沈黙。
その後、カナタはにっこりと笑って答えた。
「戦、変なの」
あたしは二度目のため息を落とした後、トレイを持って食堂を出た。
*
病室の扉をノックすると、返事があった。若い男の声だ。
どうやら隆弘なる人物は本当に存命しているらしい。何か言おうかと思ったけどいい台詞が思い浮かばなかったので黙って扉を開いた。ベッドに横たわった包帯だらけの少年が顔をあたしの方に向けた。年はあたしと同じくらいの特に特徴をあげるのが難しいごくごく普通の感じの子だった。隆弘はあたしに首だけでぺこりと会釈をして、上体を起こそうとした。でも左腕だけで体を起こすのはつらいのか、なかなか起き上がれなかった。ちなみに右腕は点滴注射を打つためにベッドに固定されていた。
「いいよ。起きなくても」
あたしはベッドの方へ歩いていくと、朝食ののったトレイを隆弘の前にあるテーブルにのせた。テーブルの隅には旧式のポータブル動画プレイヤーが置いてあって、画面の中では海の中をイルカの群れが泳いでいた。隆弘は小さな声で、ありがとうと言った。
「あたしのことはカナタから聞いてるよね?」
「うん。地球から来た子がいるって聞いてる。もっとも、半分くらいは嘘だと思ってたけど」
「あたしも実際に会うまでは、あんたのこと死んだ人だと思ってた」
あたしがそう言うと、隆弘はくすくすと笑って、「無理ないね」と言った。
隆弘はあたしの予想以上にまともな精神と思考回路を持った子のようだ。体は一人では起きることもままならないほど傷ついてるけどそれでも、あたしやカナタとは違って〝向こう側〟の人間という感じがした。
「一時間くらいしたら、食器下げに来るから」
あたしは隆弘に背を向けて、入り口の方へ歩き出す。
「あ、ごめん、待って」
隆弘の声に振り返る。
「良かったら、少し話さない?」
「あたし、何も面白い話とか知らないけど?」
「地球の話が聞きたいんだ」
「あんな腐った星のことなんて、話たくないよ」
あたしは顔をしかめて、べーと舌を出す。
「君は地球が嫌いなの?」
「大嫌い。だから、ここに来たんじゃん」
「それでも聞かせてほしいんだ。僕は君に何かを返せるわけじゃないけど、自分の生まれた星のことが知りたいんだ」
隆弘の言っていることはまともだった。まともなのはわかるけど、あたしには理解できなかった。
「どうして、そんなに過去にこだわるのかわからないけど」
「過去が積み重なって今がある。そして、未来につながる」
隆弘は必死だった。こんな廃墟同然の療養所で頭のおかしな子と二人きりで生きるあんたが、一人じゃ数日だって生きられないあんたが未来とか言うのかよと思った。ため息を一つつく。あたしはベッドのほうへ戻ると、そばにあったパイプイスに座った。
「いいよ。でも、あたし話すの上手くないから」
「ありがとう」
「あと、ちゃんとカナタのごはん、食べてあげて」
「うん」
あたしはあたしが知っている地球の大雑把な歴史と、あたしが実際に見て感じてきた地球について話をした。当然のことながら、あたし自身いまいち実感の伴わない過去の話よりもあたしが見つめてきた地球の話の方が圧倒的に多かった。隆弘もそっちの話の方を面白がっていたように思う。特に学校の話になると隆弘は何度か質問をしてあたしの話を中断させた。学校なんてテロリストかなんかに占拠されて爆破されればいいのにと常々考えていたあたしはその度に憮然とした顔を隆弘に向けた。月で古いドラマか映画でも観て、勝手に楽しい青春学園生活でも夢みていたんだろうか。そんなのドコにもないから。あ、でも今気がついたけど、地球のことを話そうとすると、それはあたしの中にある地球について話すことになる。それは、あたしのことを話すのと同じだ。
「ねぇ、君はどうやって月に来たの? もうずっと月と地球の間はシャトルが飛ばなくなっているはずだよ」
学校の話が一段落した後、隆弘は急に思いついたようにそう聞いてきた。
「あたしが施設に入ってたってことは話したわね。その後、あたしは航空宇宙科のある学校に転校したの。あたしはパイロット候補生だったのよ。ほんの三週間ほど前まで」
「随分、優秀だったんだね」
「優秀かどうかの判定基準なんて、その時、その時の比較対象で変化するじゃん。意味ないよ」
「でも、シャトルのパイロットなんてそうそうなれるもんじゃないだろう。それに訓練だって大変だと思う。君はどうしてパイロットになりたかったの?」
「パイロットになりたかったんじゃないよ。月に来たかったの。ただそれだけ」
あたしはテーブルの上でリピート再生されている動画プレイヤーの画面を眺めながら言った。
「三週間前に月の軌道上を周回航行する訓練があったの。あたしの乗ったシャトルは航行プログラムに不備があって途中で手動航行に切り替わった。でも、あたしは上手くシャトルを操縦できなくて、泣く泣く月に不時着陸した――ということになってる」
あたしは口元を歪めて、笑う。
「わざと不時着するようにしたのかい?」
「結構簡単だったわよ。10個程パスワードを突破して、引っこ抜いたモジュールを逆アセンブルしてソース書き換えて、アセンブルして新しいモジュールに入れ替えただけ。ログを消すのも内部の人間なら楽勝だったし」
流れる映像の中ではクジラの親子が海原を悠々と泳いでいた。海がすごく青い。昔の海はこんなにも青かったのか。
「失敗したら死んでただろう。君はとんでもないことをするな。そんなにしてまで何でこんなトコロに来るんだよ?」
隆弘は呆れたような声をあげた。あたしは画面に視線を固定したまま言った。
「だから、言ったじゃん。月に来たかったの」
隆弘はふぅと息をついて、ようやく朝食に手をつけはじめた。あたしは黙って動画プレイヤーの映像を眺め続けた。席を立ってもよかったけど、またすぐに食器を取りにくるのは面倒だ。動画が一度終わり、再び始めに見たイルカのシーンが再生された。ヒマになったあたしは視線を隆弘の方に向けた。隆弘はもう食べ終わっていた。
「カナタのことだけど」
あたしはテーブルの食器を重ねながら、前から疑問に思っていたことを尋ねることにした。
「あいつがどうかした?」隆弘は暑いのか、寝巻きの一番上のボタンをはずしながらあたしを見た。
「あの子、本当に男の子?」
「ああ、なるほど。当然の疑問だよな」隆弘はまたくすくすと笑う。
「カナタは正真正銘、男だよ。僕はあいつがほんの小さな子供だったときからの付き合いだからあいつのことはよく知ってる。いっしょに風呂に入ったこともあるよ。ちゃんと男だった」
「だったら何でいつもワンピース着てるのよ。あたし初めてあいつと会ってから三日くらいは女の子と思って話してたのよ。見た目は完璧に女の子だったから」
「あいつ可愛いだろう?」
「ムカつくくらいにね」
「あいつなりの処世術だよ」隆弘はベッドに寝転がると、ぽつりと言った。
「僕達が子供の頃はもうこの療養所は地球に見捨てられていた。患者は一人残らず死んで、その家族だけになった。残り少ない倉庫の備蓄と菜園の食料をめぐって大人達が四六時中争っていたんだ。ルールも秩序もあったもんじゃない。パンひとカケラのために平気で人殺しがおこるんだよ」
あたしは黙って、隆弘の言葉に耳を傾けた。
「子供は大人に、それも強い大人に従うしかなかった。カナタも僕もとっくに両親は殺されていたから力の強い大人に何とか気に入れられるよう最大限の努力をした。ここには女性は少なかった。特にカナタみたいにキレイな子はほとんどいなかった」
「強い大人に守ってもらうために、仕方なくってこと?」あたしは重ねた食器を持ったまま隆弘を見る。
「最初はそうだったと思う。もっとも五つくらいの時からずっとだから、もうあいつは体以外は女の子なんじゃないかな。僕と僕の仲間達が力をつけて大人たちを全員始末してからも、あいつはあのままだったし」
「始末?」あたしは目を細めて、隆弘に聞いた。隆弘はあたしから目線をはずして言った。
「カナタは殺してない。あいつはずっと後方支援だった。僕は七人殺した」
「ありがとう。今のでだいたいここの歴史もわかったよ」あたしは隆弘に背を向けて、扉の方へ歩いていく。
「軽蔑した?」
背中に声が届く。あたしは振り向いて、首を振った。
「あたしも似たようなもんだよ」
「これ、カナタに渡してやって」
隆弘はそう言うと、テーブルのポータブル動画プレイヤーからデータチップを取り出した。
「この海の映像、カナタが好きなんだ。あいつといっしょに観てやってほしい。プレイヤーなら、元々僕が使ってた部屋のパソコンでいいから」
「あなたがいっしょに観てあげればいいのに。カナタ喜ぶよ」
今度は隆弘が首を振った。
「あいつは僕にくっつきすぎる。なるべくなら他の人間とも接したほうがいい」
あたしは扉のノブを回しながら、まるでお兄さんみたいだと思った。
扉を開けて、隆弘の病室を出ると
「戦っ! 隆弘ごはん食べた?」
心配顔のカナタがいきなり登場した。
「うわっ!? 急に出てこないの!」
あたしは思わずトレイを落としそうになる。
「あっ、お皿空っぽだ。隆弘食べたんだね。良かった~」
カナタは大仰にはぁと息を落とす。
「あんた、まさかずっとここで待ってたの?」
「うん。そうだけど?」
「こんな暗い廊下に一人で突っ立ってて、バカみたいじゃん」
「僕は暗いの平気だし。それに九十六時間、一人でロッカーに隠れてたこともあったよ。あのときは暑くて、お腹へって、のど渇いて死にそうだった」
「何それ。なんでそんなことしたの?」
「よくわかんないけど、そういう作戦だったから」
作戦という言葉に隆弘との会話を思い出した。ここでの物資を奪い合った戦いのことか。
「よくあんたみたいなのが生き残れたと思うよ。ほら隆弘が前使ってた部屋に案内して」
あたしはトレイを持って、階段の方へ歩き出した。
「えっ? 何で隆弘の部屋に行くの?」まだ隆弘の病室の前に立ったままカナタが尋ねた。
「海の動画、見たいでしょ? 隆弘が一緒に観ろって貸してくれた。嫌ならいいけど」
「行く行く! 待って!」
カナタはあわてて駆け出した。あたしはカナタが来るまで階段の前で待っていた。非常灯の微かな赤い光に映し出されたカナタの影が廊下を滑り、やがてあたしの影と重なった。
「早く早く!」
上機嫌のカナタに背中を押されて、あたしは階段をのぼった。
*
頬に感じた衝撃は寝相の悪いカナタの放った掌底が原因だった。
「……痛いぞ、この野郎」
安眠を妨害されたあたしはソファーの隣ですやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている見た目だけなら百パーセント美少女な少年の額に、割と容赦のない力加減の水平チョップを叩き入れた。
「……あうっ。……ん? ……はぅん」
カナタは一度小さくうめいただけで、そのまま夢の世界に居座り続けた。この子は思ったより図太い神経を持っているのかもしれない。あたしは今度は鼻でもつまんでやろうかなどと考えたけど、カナタの馬鹿みたいに平和な寝顔(ちょっとよだれ垂れてる)を見ているうちに「まあ、いいや」と思ってしまった。
ガラステーブルの上のノートパソコンは省電力モードのせいで画面が真っ黒になっていた。マウスを軽く滑らせる。瞬時に画面が切り替わりもう何度も見た海の映像が再生される。その画面を見て、ようやくあたしは隆弘の部屋でカナタといっしょに動画を見ているうちに眠ってしまったことを理解した。いくら好きだからって毎日毎日、朝昼晩、延々と同じ映像を観ることはないと思う。て言うか、毎回あたしを誘うなよ。小さな子供にせがまれて何回も同じ絵本を読まされている母親のような心境だ。くすくすと微かに笑い声がした。何か楽しい夢でも見ているのかカナタは今まで見たことがないくらい穏やかな表情を浮かべていた。また「まあ、いいや」と思ってしまった。
あたしは画面上のカーソルを走らせて時刻を表示させた。午前五時七分。とりあえず早朝だ。もっとも身体リズムのために決めたただのルールにすぎないけど。この療養所は永久影の領域に作られている。永遠に太陽を見ることはない年中無休の夜間営業状態だ。朝も昼も本当はない。きっと時間さえもない。あるのは暗闇とあたし達が勝手につくったシステムだけだ。
くぅとおなかが鳴った。
あたしじゃなかった。隣を見ると、カナタは目をこすこすと擦りながらあくびをしている真っ最中だった。
「おはよー。戦」
カナタはあたしと目が合うと、にこと笑った。
「おはよ。おなかすいた?」
あたしがそう尋ねると、カナタは「うん。ぺこぺこ」と頷いた。
「今日はあたしが作ろうか。倉庫にお米や味噌もあったし、たまには和食とか」
「わしょく、って?」カナタがきょとんとした目をあたしに向ける。
「日本食。あんたのお父さんとお母さんが生まれた国の料理」
「僕のおとーさんとおかーさんは地球で生まれたんだけど?」
「その地球にはね、いくつも国があるの」
「くに、って?」ますますわからないと、カナタが首を傾げる。
「簡単に言えば、地球では星をいくつかの領域に区切ってそれぞれの場所で管理してるの。その領域の単位が国なの」
あたしの説明の仕方が悪いのか、カナタは両腕を組んでうーんと悩み始めた。昔からあたしは人に何かを説明するのが苦手なのだ。それはたぶん、あたしが他人に何かをわかってもらいたいと思わなかったからだろう。わかってもらえるなんて、最初から思ってなかったから。ずっとそういう風に生きてきた。でも、
今度はあたしのおなかが鳴った。
それも大きな音で、きゅるるるるんという感じの音だった。
カナタはソファーの上で両脚をバタつかせて、きゃははははと遠慮なしに笑ってくれた。
「笑うな!」
あたしは恥ずかしいのと、ムカついたのとで顔がかぁと熱くなった。
「戦、子供みたい」目の端に涙をためて、カナタが笑う。
「うわっ、あんたにだけは言われたくねー」
「きゅるるるん」
「口で言うなっ!」
あたしは床に転がってたクッションを手に取り、カナタの頭をぽすぽすと叩く。「あははは」カナタは笑いながらソファーの上を寝転がったままの姿勢でころころと転がって移動した。
「ひゃうっ?!」
で、すぐにソファーから転げ落ちた。
「あー、もう! そんなことしたら落ちるに決まってるでしょう。大丈夫?」
「うん。全然平気。でも戦、この部屋エアコン調子悪いね。ふぅ、あっつー」
カナタは立ち上がると、スカートの裾をつまんでパンツが見えるのなんて気にしないぜとばかりにぱたぱたと脚に風を送った。おいおいまてまて。
「こら、そーゆーことしないの。下着見えるでしょ」
「別に見えてもいいけど?」
にへらと笑ったカナタがばっ! とスカートを両手で目いっぱいまくりあげた。おへそまで見えた。おなかも細い脚もツルツルで綺麗だった。白いパンツに包まれた微かなふくらみはエロかった。どきどきした。ていうかあたし見すぎだ。
「ばかばか! あんたって子はー!」
耳まで熱くなってきた。
「戦、えっち」
「自分で見せたんでしょーが!」
「騒いだら、余計におなか空いちゃった」
「……あんた、誰のせいで騒いでるのかわかってないでしょ?」
あたしは言葉といっしょにため息を吐き出す。
「朝ごはん、作ろうよ。一緒に」
カナタの少しはにかんだ笑顔があたしの目の前に浮かんだ。
「あ、う、うん」
あたしは色々な感情に頬が染まるのを感じつつ、何とか笑顔で返事を返した。
その後、テーブルに並べられた皿が二人分だけだったから、あたしはすごく驚いた。
あたしが「中島さんの分は?」と訊くと、カナタは困ったような表情をして答えた。
「中島さんは、もう居ないから」
*
人工の夏空の下、あたしは年代物の音楽プレイヤー(ラジカセというらしい)をぶら下げてカナタとともに田舎道を歩いていた。あたしの隣に並ぶカナタはちょっとサイズが大きすぎる麦わら帽子をかぶっている。手にしたバスケットには二人で作ったサンドイッチと凍らせたミネラルウォーターが入っていた。天井のどこかに仕掛けられたライトからは作り物の太陽光線がさんさんと降り注ぎ、壁に埋め込まれた通気孔からはランダム設定された風がときどき発生して涼を運んできた。カナタは風が吹くたびに麦わら帽子がズレて、「んしょ」と直していた。あんまりしょちゅうその仕草を繰り返すから、あたしは空いてるほうの手でカナタの麦わら帽子をちょうどいい具合に支えながら歩く事にした。あたしのほうを向いてカナタが笑った。暑いのか頬が少し赤かった。
カナタに誘われて、お墓参りにいく途中だった。
あたしは今まで何度かこの菜園に来たことはあったけど、墓地なんてものがあるとは思わなかった。でも、考えて見れば当然だ。カナタも隆弘もこのサナトリウムで戦って生き残った。ということは生き残れなかった人たちもいるのだ。それもたくさん。
あたしとカナタは墓地まで向う間、ほとんど口をきかなかった。あたしは何を話していいのかわからなかった。安易に死んでいった人たちのことを聞くこともできなかったし、まるで関係のないことを話すのも変だと思った。普段はよくしゃべるカナタも、今は黙ってまっすぐ前を向いて道をいつもより早足で歩いていく。それに合わせてあたしも少し広めの歩幅をとった。時おりカナタの方を見る。麦わら帽子の影の下に、口をきゅっと閉じてどこかしら憂いを帯びた瞳をしたカナタの顔があった。そんなカナタはいつもより少しだけ大人びて見えた。あたしの視線に気づくと、カナタは「どうしたの?」という感じに目を細める。あたしは「何でもないよ」と首を小さく横に振った。
やがて、細い田舎道が終わり緑色の迷路からあたしたちは解放された。
カナタが立ち止まる。
「ついたよ」
あたしの予想に反して、墓地はキレイに整備されていた。雑草の類はほとんど生えてなかったし墓標の前にはまだ新しい花が供えられていた。きっとカナタは毎日ここに来て手入れをしていたのだろう。ただ墓碑だけはとても貧弱で全部ベニヤ板だった。そのベニヤ板にペンキで故人の名前が書きこまれていた。
『中島さん』、『チェンさん』、『マイキーさん』
ベニヤ板の文字は擦れて、消えかかっていた。没年月は全員いっしょで、四年前のちょうど今ぐらいだった。カナタは墓標の前に突っ立っていたあたしに、「みんな地球に帰ろうとして、シャトルが落ちて死んだの」と教えてくれた。その際、隆弘は大怪我をしカナタだけが無事だったらしい。あたしはカナタからその話を聞いても「そう」としか言えなかった。
カナタは近くのタンクから汲んできた水をていねいに地面にまいた。月では水は貴重な資源だから、本当ならこんな無駄なことに使うべきではないけど、そんなことはもちろん言えなかった。あたしはカナタに付き合いバケツでたくさんの水を運んで、汗だくになって掃除をして、最後の仕上げに近くの畑に咲いていた向日葵を墓に供えた。墓に向日葵はどうかと思ったけど、実際に眺めてみると重苦しい空気が和らいだ気がして、良かった。
ひと仕事終えたあたしとカナタは、墓場のすみの常緑樹が作り出した日陰に腰掛けた。凍らせたミネラルウォーターはすっかり溶けていた。でも、ペットボトルに触れるとまだ十分冷たかった。あたしは常緑樹の幹に背中を預けて、ペットボトルの中身を口に含ませる。麦わら帽子を脱いだカナタは額にペットボトルを押し付けて、目を閉じていた。少し辛そうに見える。線の細いカナタに炎天下での重労働はかなりきつかったはずだ。あたしはカナタに「大丈夫?」と声をかけた。カナタは「うん」と目を閉じたまま答えた。首筋と頬を流れる汗をハンカチで拭ってやる。カナタは少しだけくすぐったそうにしてたけど、大人しくあたしの行為を受け入れてくれた。
木の上の方で蝉が鳴き始める。あたしは反射的に顔をあげた。木漏れ日がまぶしくて、あたしも目をつむった。
「怖い大人たちがみんな死んじゃった後」
蝉の鳴き声にかき消されてしまいそうな、小さな声でカナタが言葉を紡いだ。
「僕は、やっとみんなで仲良く楽しく生きてけるって、思ってた」
蝉の声が止んだ。そのせいで、カナタの声が微かに震えていることに気づいた。
あたしはまぶたの裏で明滅する光の残像を見つめながら、カナタの次の言葉を待った。
「だけど、そうじゃなかった。そんなのありっこなかった。なかったんだよ。あはははは」
目を開けて、カナタを見た。カナタは笑っていた。笑いながら、泣いていた。
あたしはカナタにかける言葉が見つけられない。泣かないでほしいのに、そうも言えない。あたしの口をついて出るすべての言葉が全部嘘っぱちで、カナタを却って傷つけてしまいそうな気がした。何も言えないから、黙っていた。黙って、カナタの悲しみにまみれたボロボロの笑顔とただ向き合っていた。
カナタはあたしが運んできたラジカセのスイッチを入れた。いつもカナタが踊っているフォークダンスの曲が流れる。ノイズ混じりの能天気に明るい曲が沈黙を埋めてくれた。
「僕がすっごい小さかった頃、みんなで踊ったの。僕は初めてだったから、ただくるくる回ってただけだったと思うけど、隆弘と中島さんとチェンさんとマイキーさんと踊ったの。五人しかいないから何回も同じ人とパートナーになったよ。みんな優しくて、僕、と踊るのが、た、楽しいって、言ってくれて、僕、すごく嬉しくて、」
しゃくりあげながら話すカナタの言葉はよく聞き取れなかった。あたしは手にしたハンカチでカナタの涙を拭うことしかできなかった。カナタは苦しそうに嗚咽混じりの声を絞り出すように何度も「みんな優しかった。優しかったんだよ」と繰り返した。あたしはカナタの剥きだしの感情を前にして、自分の無力さを噛みしめる。
ラジカセがプツンと音を立てて曲を終えた。
蝉が再び鳴き始めた。泣きつかれたのか、カナタはようやく大人しくなった。
あたしとカナタはしばらく幹にもたれたまま、蝉たちの夏の歌を聞いていた。
「泣いてゴメンね」
カナタが小さな声で謝った。
「う、ううん」
その時の自分の声で、ようやくあたしは自分も泣いていたことに気がついた。
*
それからの数日間、あたしは毎日、太陽のない暗い朝を迎えて、カナタに会いに菜園まで行き、いっしょに朝ごはんを作って食べた。毎食後、隆弘の世話をした後、カナタと海の映像を観た。お風呂から出た後、寝るまでカナタといっしょに居ることも割りとあった。たいした話はしなかった。好きな食べ物の話とか、倉庫の奥に転がってた本の話とか、動画に映っていたイルカの話とか、そんなものだった。
話の内容なんて別に何でもいい。空気を声で震わせて、伝えることができればそれでいいんだと思う。何を伝える? そんなのあたしにだって、わからない。
でも、伝えないと。
*
お昼ごはんを食べた後、あたしとカナタはいつものように隆弘の部屋で海の映像鑑賞会を開いていた。正直、ノートパソコンの映像をあたしもカナタももう真面目に観てはいない。二人ともカルシウムスティックをかじりながら、ソファーでだらだらと時を過ごすだけだ。暇つぶしにあたしはカナタの髪をいじった。カナタの髪は特に手入れをしていないとは思えないくらいキレイで、いつもいい匂いがしていた。触ってるだけでも気持ちいい。
カナタはあたしが手で髪をすいている間、くすぐったいと笑いながらも大人しくしていた。三つ編みにしてみる。カナタが「何これ~」と言って振り向く。可愛い。あまりにも似合っていたのでそのままにしておくことにした。カナタは部屋のすみにある姿見に映る自分を見て、「へ~」と感心していた。三つ編みを見るのは初めてらしい。
唐突にテーブルの上の目覚ましが鳴った。
「あっ、薬の時間」
カナタは三つ編みのまま、ドタバタと冷蔵庫まで駆けていき、中から黄色い薬の入った点滴パックを取り出した。隆弘の点滴だ。
「いっしょに行こうか? ついでに体拭いたりするんでしょ?」
あたしはソファーから立ち上がる。
「ううん、戦はいつも食事の世話をしてくれてるし。一人で大丈夫だから」
カナタは素足にスニーカーを引っかけると、扉を開ける。
「すぐ戻るから、まってて。帰っちゃ嫌だよ」
あたしは、うんと返事をして手を小さく振った。カナタは微笑んで、元気よく部屋を出ていった。あたしはテーブルの上のグラスに残っていたカルシウムスティックを一つつまんでかじりながら、ノートパソコンのディスプレイに視線を移した。惰性で再生し続けていた海の映像を停止させる。ゲームでもしようと思って、カーソルで色々なフォルダを開けまくった。ゲームらしき実行ファイルは見つからない。ブラウザのアイコンをクリックしてみた。ページを表示できないと、警告メッセージに叱られた。履歴に残っていたどのサイトにも接続できない。このノートパソコンは一応、ネットワークに接続してあるはずだからたぶんサーバが死んでしまっているのだろう。あたしはブラウザを閉じると、仕方なくもう一度、動画再生ソフトを立ち上げた。データチップのファイルを開こうと、選択しかけて再生履歴にいくつかのファイル名が表示されていることに気がついた。
クリック。再生。
若いアジア系の女性が、色っぽい声を出して男と絡み合っていた。
直球ど真ん中のエロ動画だ。
速攻で停止させた。
あたしはようやくこのパソコンの持ち主が自分と同世代の男の子だということを思い出した。しょうがないなー。まあ、しょうがないんだろうけど。あたしはもう少し観てみようかなとか、カナタが間違ってこれを観てしまったらどうしようとか思いつつ、ソファーに体を投げ出した。テーブルにのった目覚ましの文字盤が午後三時五分前だとあたしに教えてくれた。扉の方を見る。「ただいまー」という声とともに帰ってくるカナタの姿を探す。そこにはまだ誰もいない。あたしはソファーに寝転がったまま、右手の手のひらを鼻に押し付けた。まだ微かにカナタの髪の匂いが残ってるような気がした。あたしは目を閉じて、そのまま左腕で自分の体をぎゅっと抱しめるようにソファーで体を丸くした。ソファーがぎしと音を立ててきしむ。あたしが体をよじると、それに合わせて何度もソファーのきしむ音がした。「カナタ」と声を出して呼んだ。誰にも聞えないように小さな声で呼んだ。もちろんカナタの返事はなかった。あたしはそっと目を開けて、また扉の方を見た。カナタはまだ帰らない。
あたしは起き上がると、玄関に残された自分のスニーカーを履いた。
もうすでに慣れっこになっていた真っ暗な廊下を駆けて、あたしは隆弘の病室の前まで来た。あたしが足を止めると、とたんに周囲は無音になる。あたしの息遣いだけがあたしの中で反響していた。まるで闇そのものが呼吸しているみたいだ。そんな感覚にも、もう慣れていた。あたしは扉のノブに触れようとした。瞬間、あたしの手が扉に弾かれた。
「カナタ」
カナタが突き飛ばすような勢いで扉を開けた。あたしは反射的にカナタの名前を呼んだ。
あたしに背を向けていたカナタが、あたしを見る。あたしの編んだ三つ編みはほどかれていて、そのせいかいつもキレイだったカナタの髪は今はひどく乱れていた。カナタは何かを言おうとした。でも、カナタは手で口元を押さえると、またあたしに背を向けて暗闇の中へ駆け出していった。
「カナタ!」
あたしはカナタの背中を追った。カナタは今にも転びそうになりながらも、まるであたしから逃げるように長い髪を振り乱して走り続けた。あたしとカナタ二人分の靴音が廊下に響く。カナタは思ったよりずっと脚が速くて、あたしとの距離はだんだん開いていく。カナタの姿が闇の向こうに消えかける。あたしは何度もカナタの名前を叫んだ。でも、カナタは応えてくれない。あたしの中の鼓動が速くなった。カナタがあたしの視界から消える。カナタが闇に飲み込まれた。鼓動がまた速くなる。カナタが闇に溶けた。鼓動がもっと速くなる。
壊れてもいいと思った。脚が折れても、心臓が破裂してもいいと思った。だから、あたしはもっともっと体に負荷をかけた。加速する。苦しくて痛かったけど、平気だ。だって、闇の中にカナタの姿が微かに見えたから。
カナタは急に思いついたように脚を止めると、左横のシャワー室に駆け込んだ。そこは隆弘の体を洗うときに使う場所だった。あたしもすぐにドアノブを掴んで、中に飛び込んだ。水がコンクリートを激しく叩く音がした。カナタは服を着たまま、頭からシャワーを浴びていた。膝を折って、床に座り込みうつむいていた。水音に混じって、時折苦しそうに咳き込んで嘔吐するカナタの声がする。あたしはカナタの後ろに立って、カナタの背中をゆっくりさすった。冷たい水滴があたしの体からも熱を奪う。服が肌に貼りつく。髪が濡れて重くなる。あっと言う間に二人そろって濡れねずみだ。カナタがぽつりと「風邪ひいちゃうよ」と言った。あたしは「そんなの平気」と言った。「僕今吐いてるから、汚いし、くさいよ」カナタが背をあたしに向けたまま声を震わせた。あたしはもう一度「全然平気」と応えて、カナタの背中をさすり続けた。
しばらくして、ようやくカナタの嘔吐がおさまった。
カナタは下を向いたまま立ち上がり、コックをひねってシャワーを止めた。あたしも立ち上がってカナタの背に「カナタ」と声を投げた。カナタは無言だった。ぽちゃん。蛇口から漏れた冷水が等間隔でコンクリートの床を叩いた。あたしはもう一度、カナタの名を呼ぶ。カナタはようやくあたしの方を見た。目が真っ赤だ。
「気分悪いの?」
「うん、ちよっとだけ。でも、吐いたら楽になったから」
「何かあった? またケンカした?」
「ケンカはしてないよ」
「うそ。泣いてるじゃん」
「うそじゃないよ」カナタは何度も手の甲で目をごしごしと拭った。「本当にケンカしてないから」カナタはまるで自分自身に言い聞かせるように「ケンカはしてない」と繰り返した。カナタが心配で、あたしはカナタの顔をのぞきこむようにして見た。充血した瞳が痛々しかった。どうしてこの子ばかり泣かなければならないのだろう。
「うん。わかったよ」あたしはカナタをなだめるようにそう言うと、カナタの濡れた髪をそっとなでた。
「三つ編み、ほどいちゃったんだ」
「……隆弘に気持ち悪いって言われたから」
「そんなことないよ」
「ううん。僕、気持ち悪いんだよ」
「絶対にそんなことない。あたしがあいつぶっとばしてやるよ」
あたしがそう言うと、カナタはふるふると首を横に振った。水滴があたしの頬にも飛んだ。
「ダメ。隆弘をいじめちゃダメ」
「何でアイツを庇うの? カナタにずっと面倒みてもらってるのにそんなこと言うのおかしいよ」
「戦も隆弘には優しくしてあげて。お願い」
「カナタをいじめるヤツなんかに優しくできないよ」
「隆弘もうすぐ死んじゃう、から!」
カナタが爆ぜるように、泣き叫んだ。
ぽちゃん、と水滴が跳ねた。あたしは一瞬停止した思考がようやく動き始めた。でも、何も言葉は出なかった。
「隆弘、ごはん食べないの。食べてもすぐもどしちゃう。点滴うっても苦しがって、全然良くならない。体に変なぶつぶつが出来てた。たぶん、みんなを殺したあの病気になった」
「……間違いないの?」まだどこか現実味のない感覚のまま、自動的に声が出た。
「僕のおとーさんとおかーさんと同じぶつぶつだったから」
カナタはうつむいたまま答えた。あたしも黙ってうつむくことしかできない。なんて、無様なんだろう。排水口から流れ出る水の音がやけに耳障りに感じた。カナタの体が小刻みに震えていた。寒いのだろうか。あたしはカナタの肩に触れようと、手をのばした。でもカナタはあたしの手から逃れて濡れたままの姿で出口へと向った。
「カナタ、体拭こう」あたしは脱衣籠にねじこんであったバスタオルを手にして、カナタを追いかける。
「隆弘のとこに、戻る」
カナタは片手で、額に張り付いた髪をはがしながら、あたしを振り返った。
「馬鹿、行っちゃダメだよ。カナタにも病気がうつっちゃうよ」
カナタはにっこりと笑って、いつもの無邪気な笑顔になって、当たり前のことのようにあたしに言った。
「僕、自分が死ぬのなんか怖くないよ」
*
次の日の朝。
菜園でカナタに会えなかったあたしは、息を切らして食堂に駆け込んだ。
カナタの姿はない。
テーブルにはカナタが準備した、五人分の朝食が並んでいた。
あたしは感情にまかせてそばにあるイスを蹴り倒した後、朝食も摂らずに扉から飛び出した。
ベニヤ板の墓碑が並ぶお墓の真ん中で、カナタは倒れていた。
「カナタ!」
あたしは暑さも忘れてカナタのところに駆け寄った。肩を抱きかかえて何度も名前を呼ぶ。カナタは微かなうめき声を上げるだけでちっとも目を覚まさない。顔が真っ赤で熱が異常に高かった。熱中症かもしれない。あたしはカナタを抱きかかえて、木陰に運ぶとタンクから水を汲んできて、カナタの額や首筋にかけた。それでも、カナタは目を開けない。
タンクの生温い水では、ダメなのかもしれない。あたしがカナタを背負って部屋に戻ろうと決心した時、
「……のど、かわいた」
カナタが目を薄く開けて、小さく口を動かした。
「水飲みたいの? カナタ、ペットボトル持ってきた?」
カナタは首を横に振った。あたしはバケツに汲んであったタンクの水を手ですくうと、カナタの口元に運んだ。でもカナタは上手く飲めなくて、水はほとんどカナタのワンピースの胸元にこぼれた。「……あ」カナタが眉を寄せて、泣きそうな顔になった。
「平気だよ。飲ませてあげるから」
あたしは自分の口に水を含むとカナタの顔を両手で持って、上を向かせた。カナタの顔にあたしの顔を近づける。汗の匂いと石鹸の匂いがした。カナタはあたしをじっと見つめたままだ。気にせず唇を重ねた。ぴくっとカナタの体が震えるのを感じた。でも、あたしの口から注入される水をカナタはのどを鳴らして飲んでいた。すぐに水はなくなった。唇を離す。あたしはカナタにまだ飲みたいかと訊ねた。カナタがほしいと答えたので、あたし達はもう一度唇を重ねた。今度はさっきよりもゆっくりと飲ませてあげた。
「今日は優しいんだね」カナタが自分の唇を指先で触れながら、あたしを見た。
「いつもだって、優しいつもりだったんだけどな」あたしは苦笑する。
「うそだよ。僕がどんなに痛いって言っても、中島さんはやめてくれないもん。ううん、中島さんは僕が泣いた方が喜ぶって隆弘が言ってた」
「え?」あたしはカナタが何を言ってるのか、わからなかった。あたしはカナタの顔を凝視する。カナタは微笑を浮かべて、あたしの方を見ていた。でも、あたしを見てはいなかった。カナタの視線は目の前にいるあたしをすり抜けて、あたしの後ろに立つ誰かに向けられていた。振り返って、後ろを見た。もちろん誰もいない。ぺらぺらのベニヤ板の墓碑があるだけだった。とくん、とあたしの心臓が高く鳴った。
「違うよ。カナタ、違う」
あたしは両手でカナタの肩を掴むと、顔を近づける。
「え? 何が」
カナタがあいまいな笑みを浮かべる。
「あんたのそばにいるのは、中島さんでも隆弘でもない。あたしだよ。戦。なんじょう、いくさ。あたしが、あんたのそばにいるんだよ! ねぇ、本当はわかってるんだよね? あたしを見てるんだよね? お願いだから、こんな冗談言わないでよ。ねぇ、カナタ!」
あたしのカナタの肩を掴む手に力がこもる。がくがくと揺さぶる。カナタが整った顔を歪ませて、抵抗する。
「い、痛いよ! 離してよ! 中島さん、痛いよ!」
「違う!」
「嫌っ!」
鈍い音がした後、額が熱くなった。
流れ出る血の量のわりに痛みは大してなかった。
音、熱、血。あたしは頭の中で今起きたことを反芻した。ぼんやりとした思考。視界に石を握り締めて、震えているカナタの姿が入った。そうか、あたしはカナタに石で殴られたんだとようやくわかった。
途端に泣きたくなってきた。
「中島さんなんか、大嫌いだよ!」
カナタはあたしの血の付着した石を地面に投げ捨てて、駆け出していった。
一人取り残されたあたしは額を押さえながら、つぶやいた。
「せめて、あたしを嫌ってよ」
額の傷を手当てするために、隆弘の部屋に足を運んだ。
あたしはベッドの枕元で埃をかぶっていた救急箱を手に、いつもカナタといっしょに動画を観ていたソファーに座った。その間、床やあたしの服に額から流れた血が点々と付着したけど、気にしない。救急箱をテーブルに置いた。テーブルの上は昨日あたしとカナタが散らかしたままの状態だった。飲み干したペットボトルが横倒しになっていて、食べ残したカルシウムスティックがグラスの中に残っていた。救急箱を開けると消毒液の匂いが鼻についた。あたしは黄色く変色したガーゼに消毒液を含ませるとかなりテキトーに額の傷を消毒して、固いチューブからひねり出した薬を塗った。包帯も自分では上手く巻けなくて、緩い。でも、もうどうでもよかった。
あたしはもうカナタとここに座っていっしょに過ごすことはないかもしれない。
額の傷の痛みが強くなった。ひどいよ。あたしはテーブルを両手で激しく叩いた。テーブルの上から空のペットボトルが転げ落ちた。暗かったノートパソコンの画面が瞬時に復活した。あたしは何気なく、マウスをクリックして動画プレイヤーを立ち上げた。また例の海の動画を観ようかと思ったけど、やっぱり観たくない気もする。あたしは少し迷って動画の再生履歴から一番古いものクリックした。
手ぶれがひどい画像が再生され始めた。たぶんハンディタイプの録画装置で素人が録ったものだろう。場所はこの施設内のどこかで、たくさんロッカーが立ち並んでいる部屋だった。三人の見知らぬ若い男たちの背中が映っていた。男たちは部屋の中をだるそうに歩いている。背中しか映っていないから表情はわからない。でも笑い声が聞える。へらへらした感じの下品な笑い声だった。突然画面が切リ変って、次はロッカーの扉がアップで映し出された。男たちの笑い声はあいかわらずであたしは気分が悪くなった。微かに違う声がした。知ってる声だった。その声は助けて、出して、と言っていた。男たちはその声を聞くたびに大笑いをした。一人の男がロッカーを蹴って、何だまだ生きてたのかよ、カナタ、と笑った。あたしは心臓が止まるような感覚を覚えた。男の中の一人がロッカーの扉を開いた。中から手足を拘束されたカナタが飛び出して、床に投げ出された。カナタは衰弱しきっていて、はあはあと激しく苦しそうに呼吸をしていた。脱水症状を起こしていると一目でわかった。男たちはそんなカナタを見ると、例のへらへらとした笑い声をあげて、カナタを口汚くののしった。カナタは手足を縛られたまま、床の上で悲しそうな顔をして男たちを見上げていた。男たちの一人がカナタの腹を蹴り飛ばした。カナタは体をくの字に曲げて小さくうめいて、吐いた。違う男がこいつ汚ねーと言ってカナタの顔を何度も踏みつけた。カナタは、ごめんなさいごめんなさいと何度も泣きながら謝った。画面に映っていない男の声が、この画像を録画している隆弘の声が「そろそろやろうぜ」と言った。男たちは今まで以上に下劣な顔になって、笑いながら、カナタの衣服を破りとって、カナタを陵辱した。
あたしはノートパソコンをテーブルから叩き落した。
あたしは隆弘の病室に向った。
隆弘はすでに息を引き取っていた。体中を赤黒い斑点が覆い、苦悶にみちた表情で天井をにらんでいた。
あたしは隆弘と繋がっている点滴台を押し倒して、隆弘だったモノの顔面に叩きつけた。
菜園の広場でフォークダンスを踊っているカナタにあたしは伝えた。
「隆弘、死んだよ」
カナタは踊るのをやめると、三メートルほど離れた場所に立っているあたしを見た。
あたしもカナタをじっと見つめる。
風が凪いで、カナタのワンピースの裾を揺らす。周囲の作物がかさかさと葉を鳴らした。蝉がそれに負けじと合唱を続ける。そこにフォークダンスの曲が混じっていた。音の洪水の中、あたしとカナタは黙って見つめあっていた。カナタは瞬きもせずにあたしを瞳に映したまま、まるで時が止まったかのように身動き一つしなかった。あたしもカナタをただ見つめ続けた。ラジカセがぱちんと音を立てて、フォークダンスの曲を終えた。風が止んで、蝉が鳴くのをやめた。沈黙が顔をのぞかせ、それをカナタの言葉がぶん殴った。
「殺したの?」
カナタが無機質なトーンで、あたしに尋ねた。
「殺したよ」
あたしは答えた。カナタは突然、糸の切れた操り人形みたいにがくんと膝を折って、その場に座り込んだ。うつむいて、顔を両手で覆っていた。あたしはカナタのそばに駆け寄って、カナタの顔をのぞきこもうとした。
カナタのこぶしがあたしの顔面に飛び込んできた。
刹那、あたしはカナタの腕を取った。カナタは空いてるほうの手で、またあたしの顔を狙う。あたしはその手も掴むと、カナタをその場に組み伏せようとした。カナタはあたしに両手を取られながらも、めちゃくちゃに暴れて抵抗した。カナタの頭突きがあたしの顎に当たった。あたしはカナタの腕を放して、後ろに倒れた。カナタは泣き叫びながらあたしの体に馬乗りになると、あたしの顔をこぶしで殴った。思いっきり力を入れているみたいだ。手加減なし。あたしの額に巻いてあった包帯はとっくにほどけていて、傷口が開いて血が噴出した。痛い。痛いよ、カナタ。口の中で血の味がした。あたしの目に涙がにじんでぼやけた視界に泣いてるカナタが浮かんでいた。あたしは、血を飛ばしながら言った。
「あんただけが、一人なんじゃないよ」
カナタの攻撃が止まる。カナタは怯えたような表情をして、あたしを見下ろしていた。あたしは唇の端を流れる血を舌で舐め取った後、言葉を続けた。
「ありもしないキレイな思い出まででっちあげて、すがってもどうしようもないよ。そんなことしたって、ずっと一人なんだよ。あたしたちはずっと一人と一人なんだよ」
カナタはばっと立ち上がると、あたしから離れた。首を横に何度も振っている。何を否定したいのかわからない。カナタはわんわん子供のような泣き始めた。あたしは、額から血を流し続けたまま、ベンチに向ってふらふらと歩き出した。ラジカセが置いてあった。あたしはボタンを押して、テープを巻きもどすともう一度、フォークダンスの曲を再生させた。たららった、らららら、らんらんらん。あたしはその場で踊り始める。人工の夏の日差しの下、汗をかいて馬鹿みたいにはしゃいで踊り続ける。目に見えないパートナーに必死になって満面の笑みを浮かべ、楽しそうに踊り続ける。カナタはぐすぐすと嗚咽を漏らしながら、しばらくそんなあたしを黙って見ていた。あたしは頑張って、とてもとても楽しそうに踊ってみせた。カナタはあたしから少し離れたところで踊り始めた。あたしは見えないパートナーの手を取り、くるくると弧を描く。カナタの長い髪が陽光を浴びて光の粒を生み出していた。あたしたちの距離が少しずつ縮まっていく。あと三人。あたしの心臓の鼓動が速くなる。カナタはあたしと目線が合うと、うつむいてしまう。怖い。あと二人。あたしの足が少しもつれた。血を流しすぎたのか、体が重くなってきた。でも、あたしは踊り続ける。カナタの不安げな視線。あたしは目を細めて、その視線を受け止めた。あと一人。カナタはずっとあたしを見ていた。キレイに体を動かしながら、見えないパートナーと踊りながら、ずっとあたしと結んだ視線をはずさない。あたしもずっとカナタを見つめていたい。ターンの時、一瞬でも姿が見えなくなるのだって嫌だ。でも、このターンをしないと、次のパートナーと踊れない。加速気味に回ってしまう。ちょっと曲からズレた。ありゃりゃ。カナタが微笑んだ。あたしも笑った。あたしは次のパートナーに手をのばした。ほんの少しだけ躊躇した後、カナタも手をのばした。
あたしとカナタの距離がゼロになった。
この小説はおよそ9年前に書きました。瀬尾順のオリジナル長編小説『君からの距離、君までの距離』(2015年に千代田区立図書館のイベント「としょかんのこしょてんVOL.75 若者向けライトノベル作家の自費出版本」http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20150616-16551/で取り上げていただきました)のプロトタイプ版みたいな位置づけの作品です。皆様のお暇つぶしにでもなれば幸いです。