◆7
時は待ってくれなかった。鎌の鋭い切っ先が真鵬をかすめ、いくつもの切り傷を残す。
──ちくしょう!
そんな悪態も瞬時に消えて思考回路が止まった。福見の白かった体操着に嫌な色が滲んでいる。
赤。紅。緋色。血の色。
ぐったりして動かない福見を見た瞬間、真鵬は自分の鼓動が大きく波打ったのを感じた。
──俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだ……。
助けるために一緒に逃げたのに怪我をさせては元も子もないではないか。
──俺なにしてんだろ……。
また大きく鼓動が波打つ。早鐘を打ち始める。耳の奥で心音が騒ぐ。冷や汗が噴き出る。口の中が渇く。目の焦点がブレる。
──ニクイ。ニクイニクイニクイニクイニクイニクイ……。
全身にゾワッと鳥肌が立ち、切れた頬が徐々に黒く変わっていく。黒く変わった部分には短く揃えられた毛が生えてきていた。
──いやだ、憎くなんか、ない……!出てくるな、出てくるな、出てくるな、頼むから。
どこからともなく現れた行き場のない憎しみをどうにか抑え込もうとするが、吹きこぼれた鍋のようにどんどん溢れ出てくる。ここでヘルハウンドに乗っ取られてはそれこそ福見になにをしでかすかわからない。
「うう……っ」
自我があるうちに離れなければ。
呻きながらもその一心で足を動かそうとするが、まるで重りを付けたかのように中々動かない。
──なんでだよ……っ。
きつく下唇を噛む。犬歯が唇に食い込んで皮を破り、口の中に鉄の味が広がった。
「俺は今動かないとダメなんだよ!動けよ!動け!」
無理矢理足を一歩前に出したが、間を置かずにへその下が猛烈に熱くなった。火で炙られているかのような熱さに思わず叫んでしまう。
「ああああああ熱い!あちちちち」
さらに重くなる足をこれ以上動かすこともできず、ただその場で熱さに悶えることしかできない。その光景は傍からだと気の狂った少年が喚いてる姿にしか見えなかった。
ヘルハウンド化しつつある真鵬に鎌鼬はおいそれと手が出せないようで、さきほどと比べると大人しくなった。それでも鎌を下ろすことはせず、じっと真鵬のことを見つめている。
すると思い立ったように真鵬と福見の周りを高速で回りはじめ、小さな竜巻のようなものを作り始めた。真鵬と福見が台風の目だ。
「お前……許さないからな……」
ぼそぼそと口に出すものの鎌鼬がそれを聞くわけもなく、高速回転は加速していく。ビュオオという音に遮られてその他の音はなにも聞こえなくなった。
脳裏にエンの言葉が浮かぶ。
『ヘルハウンドを感じ取った他の悪霊とかが君を狙いにくる。こっくりさんの話をするとこっくりさんがやってくるっていうだろ、あれと同じようなものだ。そうなると近くにいる人たち 友達や家族に危険が及ぶ可能性がある』
──関係ない人まで巻き込んでいるのに俺はなにもできない、無力な、ただひたすらに無力な……。
確かに忠告されていたのに、それなのにすっかり頭からすり抜けていたこの言葉。こういうことだったのか。胡散臭いとあしらった罰がこれなのか。でも一体俺がなにをしたっていうんだ、ただ学校に来て授業を受けていただけなのに。俺だって被害者なのに。どうして加害者になるんだ。
いや、俺は害を加えてない?いや、俺は外を歩くだけで、生きながらにして加害者なのか?害を被る側じゃないのか?今被害を受けているのは誰だ?その責任は誰にある?誰にある?誰にあると思ってる?その相手が憎い?
「ご、ごめんなさい、福見さん、みんな、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
台風の目の中で真鵬は顔を覆い、砂の塔のように少しずつ崩れていく精神に自問自答しながら泣きじゃくることしかできなかった。
俺のせいだ、俺がここにいるからこんなことになったんだ。俺の中に犬なんているから、ああ、憎い、俺は自分の中にいる犬が憎い、こいつさえいなければこんなことには一生ならなかったのに、そうだ、寝れないのもなにもかもお前が全部悪いんだ。お前のせいだ、俺のせいじゃない。
お前のせいで俺の日常生活は一体どこに消えた?俺の日常を消すぐらいならお前が消えてしまえ、消したいなら自分から消えろ。