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エピローグ、夏の光

 最初に病院に行った日から、一週間が経った。

 僕は、また同じローカル電車に乗って、小さな駅を降り、その病院に向かって歩き出した。この前よりも暑い日だった。もう梅雨が明けたのではないかと思うほどに太陽が眩しく光っていた。

 道の両側の水田は、この前とは明らかに様子が変わっていた。全体にうっすらと緑の膜がかったように見え、もう、雲も山も映してはいなかった。ただ、ちょうど植えられた苗が一列に並ぶ延長線上に立ったときだけ、縞模様の空が映っていた。この一週間の間に、稲の苗たちからはもう弱々しい感じは消え去って、しっかりと大地に根を張りたくましく成長していた。

 そして、この前麦畑だったところは、この一週間の間に刈り取りが行われたらしく、一面に焼け野原のようになっていた。今は、根元の株だけが残った畑に、スズメやハトがたくさん舞い降りて、一生懸命に何かをついばんでいた。ただ、機械で刈り取ったときに残ってしまったのだろう、四角い畑の隅の部分に、数本の、刈られていない麦があって、それらは、規則正しく交互に実を付けたまま青空に向かって立っていた。でも、その麦も、やがて枯れ、そして土に還っていくだろう。一体、刈り取られてパンになっていく麦と、刈り残されて今ここに立っている麦はどちらが幸せなのだろう、そんなことをふと思ってしまった。

 サチコという女からの手紙を読んでいくうちに、僕もこんなことを考えるようになったか、と思い、一人で苦笑した。


 問題は、今日サチコに会うべきか、ということだった。

 彼女からの最後の手紙に従うのであれば、恐らく会うべきではないのだろう。 しかし、僕は、三通の手紙を読んで、そして、それは決しておかしなことではなくて、僕自身もいろいろなことを考えさせられた、ということは伝えたいと思った。そのほうが、今は思い込みにすぎないことが現実のものとなって、彼女にもっと自信を与えられるのではないかと思った。少なくとも、彼女が、フィクションかもしれないと言っていた不安だけは解消でき、それだけでも彼女のためになるのではないかと考えた。

 だが、その一方で、僕は、本当に彼女のことを分かっているのだろうか、もしまた会話をしていく中で、彼女の思っていることと僕がしゃべったことの間に何かずれが生じてくれば、彼女はまた自分の殻の中に閉じこもってしまうかもしれない、というようなことが気になった。そして、彼女が考えていることの何分の一くらいがあの手紙に文字として書かれているかもわからないし、彼女が頭の中に描いている円と、その手紙を読んで僕が頭の中に思い描いた円は、重なり合う部分はあっても、決して一致することはありえないのだ、とも思った。

 僕自身の診察はすぐに終わった。薬はあと一週間分出すがもう通って来なくてもいい、またどうしても眠れないようなことがあったらいつでもいらっしゃい、ということだった。

 薬を受けとり、お金を払い、すべての事が終わったのに、僕はまだ迷っていた。中庭の方を見たが、もちろん彼女の姿は見えなかった。


 それでも、やはり、手紙を確かに受けとったこと、興味深く読ませてもらったことだけは伝えておきたいと思い、受付けの人に、サチコさんという女性がいるはずだが面会できないか、と尋ねてみた。僕は、彼女の名字も、病室番号も何も知らなかった。

 受付けの女性は、僕の方をちらりと見ると、そのような名前の入院患者はいない、と極めて事務的に答えた。そんなはずはない、というと、しばらく前に退院した人でそういう名前の人がいたかもしれないが、とのことだった。

 僕は、悪い夢でもみているような気分で、その建物を出た。

 それ以上のことを聞いたりしても、たぶん、僕自身の身分や本人との関係を問いただされたりするのだろう。先週中庭であったことや、手紙をもらったことなど言うわけにもいかない。

 諦めざるを得なかった。僕は、彼女にもう一度会おうとしたことを後悔した。どこかで元気にしていると信じ込むしかないと思った。


 それにしても、サチコという女は一体なんだったのだろう。

 もともと、そんな人は実在しなかったのではないのか、でも、そうだとすれば、あの手紙はどこの誰から送られてきたものなのか、そんなことを思いながら、僕は病院の建物を後にし、簡素な門の方へ歩いていった。

 そこには紫陽花があったが、すでにその花は鮮やかさを失い、渇いた土の上で強い陽射しを浴び、そのままの形で朽ちていくようだった。


(了)

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