第一の手紙
その病院に行った日から、僕はもらった薬を飲んで何とか夜眠れるようになっていた。しかし、毎日の慌ただしい仕事に対する違和感というか、漠然とした不安のようなものは消えることはなく、かえって気力が萎えてきたような気がしていた。
二日後、外回りから帰った僕のデスクの上には、万年筆で丁寧に宛名書きされた白い封筒が置いてあった。 差出人の名前はなかったが、このまえ病院の中庭で会った女からの手紙だ、と直感した。
その封筒は厚く膨らんでいて、便箋が何枚も入っているようだったので、そのまま開封せずに持ち帰って、食事やシャワーを済ませてからゆっくりと読み始めた。
× × ×
[第一の手紙]
昨日は、突然変なことを言って、驚かれたかもしれません。でも、お話を聞いてくださって、そして、お手紙を書くことを許してくださって、ありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。
今日は朝から雨です。雨の日は嫌いだという人が多いのですが、私は、雨が好きです。絶え間なく降り続く雨を見ていると、こんなふうにいろいろなことが過ぎていけばいいのに、と思います。
雨の日は、紫陽花がとてもきれいです。この前は雑草のお話をしました。でも、それと同じくらい、私は、毎日紫陽花の花を見て、その色が昨日とは少し違って見えるのを発見したときに、たまらなくうれしい気持ちになります。ただ、これは今の季節しかできないのですけれども………。
紫陽花の中でも、特に、私は、木陰の薄暗いところに咲いている、がくあじさいというのでしょうか、あの、こんもりと丸まった花ではなく、四つ葉のクローバーのような花が回りに幾つかまばらについている花にひかれます。それは、暗い雨雲の下で、鋭利なナイフか、ガスの炎のように、青白くきらめくのです。
さっき、傘をさしてお庭を散歩していたら、紫陽花の葉の上にカタツムリがいました。そのカタツムリは、ゆっくりゆっくりと葉の表から裏へと進み、そのまましばらく動かずにいて、そのうち違う葉のほうへと進んでいきました。私が、ずっと長い時間そこにそうして立って見ている間、カタツムリには私が見えていたかどうかわかりません。でも、そのカタツムリにとっては、私がそこで見ていようがいまいが、何も関係ないのです。彼は、私にはまったく関心を払わずに、自分の命を生きているのです。
それにしても、カタツムリというのは、何のために、どこへ向かって歩いて行くのでしょうか。一生の間にどの位の距離を歩けるのでしょうか。いまいる紫陽花の一株のほかにも世界があるということを知っているのでしょうか。そして、梅雨が明け、雨が上がり、眩しい夏の陽射しが輝く頃、そのカタツムリはどこに行くのでしょうか。
この、紫陽花の一株よりはほんの少し広い敷地の中を、毎日同じように歩き、そうして日を送っていると、私は、もうここだけが私の生きる世界なのだと思い込みそうになります。もちろん、本当はそうではなくて、この塀の外に「普通」の人々が住む世界があって、大勢の人が忙しく働いている社会というものがあるということはわかっています。でも、そこで暮らしをしていくためのいろいろなことは、もう観念的にしか理解できなくなりました。だから、せめて、カタツムリのように、ほかの誰を気にすることもなく、ゆっくりと、静かに、毎日を過ごしていけたらいいと思います。そして、疲れたらすぐにその中で眠ることのできる殻、だれにも邪魔されない自分だけの家が欲しいと思っています。
今、私はこの施設、いや、まわりの人々はそう呼びますが、はっきり精神科の病院というべきでしょう、そういうところで暮らしています。
でも、それはもちろん私の家ではありません。半年前、ほんの些細なこと、そうはいっても当時はそれなりに大問題でしたが、今となっては本当に些細なことのために、ここに入院させられてしまいました。そのときは、そのような境遇に私を陥れた人達を憎みましたが、いつのまにか、やはり私は病気だったような気がして、そうして、この病院で過ごす毎日に慣れていき、草花や、その回りを巡る小さな生き物たちや、その上を流れて行く雲を見ながら一日一日を過ごしていくのが、私の生活そのものになってきました。
そういうふうにして、二度とは巡ってこない今日という一日を送っていっていいのかどうか、悩むこともよくあります。でも、それならばどこでどのような一日を送れば本当に悔いのない一日になるのか、私にはわかりません。この塀の外の生活がそんなに有意義で、充実していて、生きるに値するものであるとは、どうしても思えないのです。
そして、そんなことを考えても考えなくても、太陽は西の空に沈んで夜になり、翌日にはまた同じような朝が来ます。その朝は、その前の日とは絶対に違うもので、それを迎える私も、昨日の私と同じではありえないのですが、そう考えていると辛くなるので、また同じように散歩をします。
つまらないことばかり書いてごめんなさい。
でも、私は、自分の本当の心を誰かに伝えたくて、このところ少し焦っていたような気がします。かといって、ここの先生や、同じようにここで暮らしている人に、このような話をする気にはなれませんでした。でも、どこの誰かわからないあなたに向かってなら、素直に自分の思っていることを言えそうな気がしたのです。そして、あなたにとっても、そのまま忘れていただければご迷惑にはならないと思って、とりとめのない手紙を書きました。
もちろん、破り捨ててくださって結構です。お返事もいりません。
ただ、この世の中にたった一人、私のつたない手紙を読んで下さる人がいる、ということだけでいいのです。でも、また次の手紙を書くことはお許しください。それでは、また……… かしこ
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僕は、読み終わると、何か本当に、梅雨のしとしとと降る雨の中で紫陽花の青い花に出会ったような気持ちになって、その手紙を丁寧にたたみ、読み掛けの本に挟んだ。
それにしても、丁寧な美しい字でこんな手紙を書く彼女が、どうしたわけで半年もあの病院に入っているのか、もっといろいろとサチコという女のことを知りたいと思った。