病院の中庭で
「私、もう、ここに半年いるんです」
「………そうですか………」
女は、ひと呼吸おくと、眩しそうな目で向こうの建物の屋根の辺りを見ながら、ゆっくりと話し始めた。最初に見たときには、ほっそりとした体つきと無造作に後ろでひとつに束ねた髪やまったく化粧っけのない顔から、中学生か高校生くらいの少女のように見えたが、近くでよく見ると、二十代半ばくらいなのであろうか、表情は落ち着いていた。
僕は、こちらから話すべきことも思い付かず、ただその女が話すことを曖昧なあいづちで応えながら聞くしかないと思った。
「毎日、この建物とわずかな敷地の庭から一歩も出ずに暮らしています」
「………」
「テレビや新聞も見ません。見てはいけないわけではないのですけれど、一度そういうものから離れてしまうと、もう興味が湧かなくなるのです」
「そうかも……、しれませんね」
「ええ。ですから、毎日同じ時間に起きると、窓の外に見える庭の木や、こうして歩く中庭の草の一つ一つが、昨日と何か違っているかを注意深く見ることにしています」
「………」
「毎日見ていても、例えばこの目の前にある草が昨日とどう違うかなどということは、ほとんど気がつきません。でも、何日か経ってみると、その草は明らかに大きく成長しています。だから……、その何分の一かは、今こうして見ている間にも大きくなっているはずなのです。そう思って見ていると、この草の中にもこの草の命があって、その命がこの草の中で何かを作り出しているのが見えてくるような気がします。そして、この草の中に何かが流れている音も、聞こえてきます」
女は、落ち着いた口調で、静かに、慎重に言葉を選びながら、それでも自分のいうことに絶対の確信を持っているかのように話し続けた。
「だから、ある日、その草が白い小さな花をつけていたりするのをみつけると、私は心から感動します。でも、その瞬間に、哀しくなります」
「哀しく………?」
「ええ。どういったらいいか、その草がそうして生きて、成長して、ひとつの喜ぶべき結果を生み出したその同じ時間の流れの中で、私は一体どうしていたのか、と思うのです」
「………」
彼女の話すことはそれほど突飛なことではなかったのかもしれないけれど、それでもこんなことを淡々と語る彼女に僕は少なからずうろたえ、どう言葉を返していいのか途方に暮れた。僕は、例えば、そうしている間にあなたも何がしかの成長をしたはずではないか、とか、その花が咲いたということに感動している自分を発見できたじゃないか、などというようなことを言ってみようかと思ったが、そうしたことが彼女にどんな影響を与えるか予想もつかなかったので、じっと黙っていた。そんな僕の心の動きが見えているかのように、一呼吸おくと彼女はまた言葉を継いだ。
「その間、私はといえば、わずかの空間に寝起きし、わずかの物を食べ、この施設の多くの人に迷惑を掛け、そして、少しばかり年をとりました」
「………」
「そればかりではありません。その食べ物となる運命を背負うことになった生き物たちの命を奪い、環境を汚すことでやっと出来上がっているいろいろな物を使いながら、そうして私は『死』に一歩ずつ近づいていくのです」
「………」
「あなたは、やはり私は心が病んでいるとお思いですか? こんな風に考えるのはおかしいことでしょうか?」
そこまで話すと、初めてその女は僕のほうへ顔を向けて、僕の目を見つめた。大きな瞳だった。
僕は戸惑った。こんなふうに問い掛けられて、本当はなにか気の利いたことをいいたいところだったけれど、そんな台詞は咄嗟には思い浮かばなかった。
だが、これ以上沈黙を守り続けることはできなかった。なんだかよくわからないが、追い詰められたような気分だった。とにかく、なにかしゃべらなければいけないと思い、しかたなく、ごくありきたりのことを口にした。
「いや、あなたの言われることはわかるような気がします。たぶん、それは、間違ってはいない。でも、大部分の人達はそんなことは考えないし、そんなことを考えないから、毎日を過ごしていけるのかもしれない………。あなたも、ここにくる前からそんなことをずっと考え続けてきたわけではないでしょう。そして………、その頃のほうが、もしかしたら今より楽しかったのではないですか?」
「………。わかりません………。でも、そんなふうに言っていただけてうれしいです」
「え?」
「私の話したことに耳を傾けて、そして、正面から受け応えをしてくださったことに感謝しているんです。あの、失礼ですけど………、あなたはなんでここへ来られたのですか?」
「……いや、………」
「ごめんなさい。やはり、聞くべきではありませんでした」
「いや、いいんです。最近ちょっと、夜、寝付きが悪くて、会社の診療所に行ってみたら、ここを紹介してくれました。あ、もうそろそろ僕の順番かもしれない。待合室の方に戻ります」
「………」
僕は、これ以上会話を続けても彼女の満足するような受応えはできそうもないような気がしたし、それに自分のことを詮索されたくないという気持ちもあって、このあたりで話を打ち切って逃げようと思った。
「あなたも、お元気で……」
「………」
女は、うつむいている。僕はちょっと気になって、もう一言声を掛けた。
「どうか、しましたか? 気分でも……」
「あの………、あなたにお手紙を書いてもよろしいでしょうか?」
女は、思い詰めたように顔を上げ、はっきりした口調でそう言うと、再び、大きい瞳で僕を見つめた。訴えるようなまなざしだった。
僕はうろたえた。だが、こういう場合、はたして拒絶できるものだろうか。
「………。そ、それは構わないけれど、でも………、僕も忙しいんで、返事は書けませんよ………」
「いえ、読んでいただくだけでいいのです」
「そうですか。困ったな………。じゃあ、どうしてもと言うのなら、ここが会社の住所なので、親展というふうに封筒に書いてください。そうすれば、そのまま僕のところにくるはずだから」
そう言って、僕は会社の名刺を渡した。さすがに、僕の自宅の住所を教えるのはためらわれた。
「ありがとうございます。私、サチコ、といいます。幸せな子だなんて、嘘みたいでしょう?」
そう言って、彼女は初めて微笑んだ。
僕は、ゆっくりとベンチから立ち上がって、彼女のほうに目で挨拶すると、あとはもう振り向かずに、中庭を横切ってもとの廊下の椅子に戻った。夏草の香りが遠のき、ほこりと、何人かの息と、薬と、黴のようなものが混ざった空気が、再び僕を包んだ。
僕は、たった今の中庭での出来事が、本当に現実にあったことなのかよく分からない思いだった。ガラス越しにそちらのほうを見てみたが、もう女の姿はどこにもなく、ただ明るい陽射しが静かに溢れているだけだった。
僕は、医師の幾つかの質問に答え、とりあえず薬を出すから一週間それを飲んでみてもう一度来るように、と言われてその病院を出た。
病院の門の前には、来たときと同じように水田が広がっていた。その、植えられたばかりの苗は相変わらず細く弱々しかったが、これから半年足らずの間にはたくましく延び、見事な稲穂となってコメを実らせるのだと思うと、その生命力が羨ましいような気がした。