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プロローグ、出会い

 僕らは、好むと好まざるとにかかわらず、大勢の人に囲まれて生きている。

 そして、偶然か必然か知らないが、そのいずれかによって引き合わされた何人かと、特に深い、密接な関係を持ち、そうして、影響を与えたり与えられたりして、毎日を重ねていく。

 しかし、そのような特に親しい人ではないある人に対して、自分では何もしないうちに、まったく気づかないうちに、大きな影響を与えてその人生を変えてしまうというようなことは、あり得るだろうか。

 なぜそんなことを言うかというと、それは、もう十年以上も前の初夏、そう、ちょうど紫陽花が咲いている頃、ある女と、ほんの小さな、しかし不思議な関わりを持ったことを思い出したからだ。

 ローカル電車を降りて小さな駅を出ると、一本の道が真っ直ぐに延びていた。

 振り向くと、いま乗ってきた三両編成の列車がゆっくりと遠ざかっていき、その音が聞こえなくなるとあたりは時がとまったかのように静かになった。

 梅雨の晴れ間の眩しい陽射しの中、人通りのまったくない駅前の道ををゆっくり歩いていくと、商店も住宅もやがて消え、細い道の両側には田植えが終わったばかりの水田が見えてきた。水を張った田は遠くの山を映し、その手前は空と雲を映し、雲の流れと共に動いて行く。揺らめくような線に沿って植えられた弱々しいばかりの苗がなければ、その足元から広がっている空に吸い込まれていきそうだ。

 思えば、こんな風景は、子供の頃にはもっと沢山、それこそどこにでもあった。そして、見渡す限りの水田に、山や森がその輪郭を完全な形で映し、空が二倍に広がったような気がしたものだ。

 今は、こんなに町から離れたところにも家が幾つか建ち、水田の間にはとうもろこしやナスの畑や、麦畑、そして休耕田があって、その分、もう一つの空は継ぎはぎだらけになっている。麦畑には、みごとに育った麦が茶色い穂を空に向けて並んでいて、そこにだけ秋がきているようだった。


 しばらく歩いていくと、道のだいぶ先のほうに、木々が固まっているところが見えてきた。ひときわ高い木はヒマラヤ杉だろうか、田園地帯の真ん中にそれは鬱蒼として茂り、そこだけは何か普通とは違う、聖域のような雰囲気を漂わせていた。

 そこが、今日僕が行こうとしている病院であることはすぐに分かった。

 近付いてみると、それはかなり広い敷地で、頑丈そうな塀と樹齢を経た木々に囲まれたその奥の方は、しんと静まりかえっていて、回りの田園風景とは明らかに違う空気が流れているようだった。

 僕は、塀に沿ってぐるりと回ると、××病院とだけ書かれた簡素な門を通って建物のほうに向かった。それは、正面から見える範囲はすべて平屋で、灰色のコンクリートがむき出しになっていて、何の装飾も、人目をひくようなものもなく、そこにあった。


 受付けを済ませると、薄暗い廊下に置かれた粗末な長椅子に座った。黒い合成樹脂が鋲で止められている、固い椅子だった。

 いままでに何人の人々がどのような思いを抱えてここに座ってきたことだろう。その椅子は長い年月の間に染み込んだほこりと、体温と、絶望感と、そしてほんの少しの希望で、爬虫類の肌のような生暖かい湿り気を感じさせた。僕は、そこにじっと座り、その椅子から発せられるそうしたものが、徐々に僕の体内に入ってきて血管に沿って流れだし、僕のからだの一部になっていくのを感じながら、埃っぽい廊下を見つめていた。

 その廊下は、僕のいるところから左右に一直線に伸びていて、蛍光灯の光が床に落ちて鈍く光るリズムに合わせて、艶を失ったドアの取っ手が続いていた。それは、遠い昔、忘れ物かなにかをして、放課後もう生徒のいなくなってしまった学校の職員室の前で教師が出てくるのを待っているような光景を思い起こさせた。

 僕が座っている廊下の椅子のすぐ近くには待合室があって、そこでは十数人の人々が、前の方に置かれたテレビに視線を投げている。テレビは、有名女優が朝帰りの現場を写真に撮られたとかで、芸能レポーターだか何かが、大事件であることを強調する自分の口振りに酔うようにしきりとまくしたてていた。が、そこにいる人々は、そのテレビが必死になって盛り上げようとしていることに何ら反応を示さず、それでも画面からは目を放さずに、無表情なままで時間がたつのを待っている。


 僕は、息苦しさを感じて、やりきれないような思いで『外来者はご遠慮ください。』と書かれたドアを開けて中庭に出た。

 かび臭い空気が消え、夏草の香りがそれに変わった。明るい陽射しを浴びて紫陽花が申し訳けなさそうにうなだれ、花壇に植えられたサルビアの赤だけが鮮やかだった。ねっとりと空気の澱んだ建物の中と比べて、そこは楽園だった。どうせ三十分くらい待たされるのならばこの中庭を散歩しようと思い、とりあえず大きな伸びをした。

 その時、丁度反対側のドアが開いて、一人の少女が中庭に出てきた。

 僕は、大きく開いて頭の上に挙げた両手を一瞬どうしようかと迷い、ぎこちなく腰のあたりまでおろしてようやくポケットに収め、何とかそれらしい格好を取り戻すと、その少女はこちらに向かって軽く会釈をした。

 ここの入院患者だろうか、もちろん、知り合いでも何でもないのだが、こういうところでは視線が合ってしまうと一応は挨拶をするものなのだろうか。

 仕方がないので、とりあえず僕も小さく会釈をして、さてどうしたものか、待合室に戻るのも気が進まないが、このままここにいては迷惑だろうか、と思っていると、その少女はゆっくり近付いてきて、

「外来の方ですか?」

と尋ねた。そうだ、と答えると、

「もしご迷惑でなければ、少しお話ししてもいいでしょうか」

と言った。静かな、しかし、はっきりとした意思の込められた声だった。


 たぶん、ここに長いこと入院しているから、普段あまり話し相手もいなくて声を掛けてきたのだろう。しかし、一体どんな話をすればいいのか、会話が成り立つのか、医師に見付かったら咎め立てされることなのではないかなどと思って、僕は返事ができないでいた。

 が、彼女は、お願いします、とでもいうように僕を見上げている。ためらったが、断る理由もないし、待合室へ戻る気にもなれなかったので、

「順番が来るまでの時間ですけど、よかったら………」

というと、その少女はほっとした表情を浮かべて、中庭の端のほうにあるベンチのほうへ誘った。

 そのベンチも、もう随分前からそこに在り続けているようで、ペンキは端の方を除いてほとんど剥げており、その代わり、すべらかな木の感触があたたかみを感じさせていた。

 やや傾いたそのベンチに、少し離れて並んで座ると、目の前には雑草が混じった芝生が広がり、中庭の反対側の方へ細い道が曲がりながら延び、ところどころに人の背の高さほどの木が茂り、その先は平屋建ての建物が視界を区切り、そしてその向こうには大きいヒマラヤ杉や松の木が見え、その上には青い空が広がり、そして、白い雲が浮かんでいた。

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