第1話
「逃げましょう」
と、みちるに言われて、ふたりでアパートを出て、もうどれくらい経っただろう。
(今日は何日だ…)
と、駅のホームでカレンダーを見ても、そもそも今日が何日か見当がつかない。
何か日付を示しているものはないかと、辺りをキョロキョロ見回すと、壁にかかっている針時計の文字盤の下のところに、デジタル表示で12月10日(金)とあった。
(もう五日も旅をしたのか…)
と、私はため息をついた。
このため息に私は、自分でついておきながら、思わずハッとしてしまった。
愛の逃避行。
聞く分にはなんだかカッコよく聞こえるこの言葉も、実際行動を起こしてみると、大して面白くもなく、一体いつまでこんなこと続けるんだ…と、自問している自分がいる。
五日前の12月5日の月曜日に、私は恋人のみちるとアパートを飛び出した。
職場にも連絡をしなかった。
五日間も無断欠勤したのだから、当然、解雇だろう。
(それでもいい…)
当初はそう思っていた私だが、連絡がきたら煩わしいと電源を切ったケータイを見ると、なぜか心が重くなるのを感じた。
(このケータイの電源を入れたら、どうなるのだろう…)
そう思うと、正直怖かった。
就業時もやたらと叱責を買ってた私が、突然逃げ出したのだから、上司は今頃カンカンだろう。
ふと、上司の木島が怒ったときの顔が脳裏に浮かび、私の胸は締め付けられた。
「どうしたの?」
と、みちるが聞いてきた。
きっと、私は冴えない表情をしていたのだろう。
「え、なんで?」
と、私は内心分かっていながらも、聞いた。
「いや、なんか、暗い顔してたから」
「いや、なんでもないよ。大丈夫」
と、言った直後に(こんなになんでも「ある」状況があるか)と、自分自身に突っ込んでしまい、苦笑いがこみ上げてきた。
会社が嫌で、恋人とふたりで逃避行するなんて、どう考えても普通じゃない。
「今日はどこまで行く?」
と、聞くみちるに対して、
「いや、もうどこか行くのはよそう。ここまで来れば、もうどこに行っても一緒だよ」
と、私は言った。
私たちは住まいである仙台から、南に下っていって群馬の水上まで来ていた。水上どころか群馬にも初めて来たので、私たちは全く勝手が分からなかった。
駅から出ても、目に入ってくるのはお土産屋とかタクシー会社ばかりで、足を休ませるような場所は見当たらなかった。
「旅館とかないのね」
と、みちるがボソッとつぶやく。
「無いことはないだろう」
と、ケータイで調べようとして、使えないことに気づいた私は、
「ちょっと調べてみてくれない?」
と、みちるに頼んだ。
「うん」
みちるが調べている間、タクシーに乗った運転手が私たちの方を見て(乗ってくか?)と、ジェスチャーをしてきたので、私は手を横に振った。
なんとなく、乗りたくなかった。
みちると逃げ出してから、人と話しをするのを避けるようになっていた。
ケータイで旅館を調べたみちるが「あるけど、しばらく歩くわね」と言った。
「そうか…」
今の私は、返事をするのでさえ億劫に感じるほど憔悴していた。
そんな私の様子を気づかってかミチルは私の右手を強く握りしめた。
ミチルの手の温もりを感じながら、(なぜコイツはこんな俺に付いてきてくれるのか…)と、ふと考えた。
(私がいなければこの人はダメになる…)という使命感でもあるのだろうか。
この五日間、口に出して確認した事はないが、その辺の気持ちが私には分からなかった。
しばらく歩くと川沿いに建てられた旅館が見えてきた。
「あ、あそこね」
と、ミチルが楽しそうに言うのを聞きながら、
(まるで遠足に来た子供のようだな…)
と、私は可笑しかった。
ミチルはもうそろそろ30歳になると言うのに、挙動や見た目が幼いせいか、よく若く見られる。
憔悴しきっている私にはそんなミチルの放つ「若さ」が救いでもあり、少々煩わしくもあった。
旅館に入り、チェックインを済ませると、私たちは案内された部屋で旅装を解いた。
「いい部屋だね」
と言うミチルの言葉に私は相槌を打った。
この旅館は利根川沿いに建てられているため、川の流れる音が微かに聞こえる。
私はベランダまで歩き、窓を開け真下の利根川を眺めた。
(こんな事情で来たのでなければ、もう少し楽しめただろうな…)
と、ぼんやり考えていると、私の腰にミチルの腕が回された。
「……」
私たちはしばらくそのまま無言でいた。
背中にミチルの乳房が当たり、欲情に駆られそうになるが、思い直し、ミチルの手首を掴み、腰に回した腕を離させた。
向き直ると、ミチルは明らかに不満そうな顔をしている。
まるで少女のように表情豊かなミチルが可笑しくて、私は少しだけ笑った。
部屋の扉がノックされ、私は返事をした。
「失礼します」
仲居さんがお茶菓子を持ってきてくれた。
私たちはそこで仲居さんから旅館の説明や、軽い雑談を交わした。
しかし、私は会話はほとんど頭に入らなかった。自分が話している言葉も誰か別の人間が話している様な感じさえあった。
私はいつからか、生きていても、何かの膜に覆われている様な感覚があり、現実感が希薄になっていた。
(俺は本当に生きているのか…?)
そんな問いが私の双肩にのしかかる時がある。
「お風呂行ってくるね」
と、言い残し、ミチルは部屋を出て行った。
しばらく一人でぼんやりしていたが、(俺も行くか…)と思い、浴衣に着替え部屋を出た。
温泉は良かった。
さすが、温泉で有名なだけはあるなと思った。
とりわけ露天風呂が素晴らしかった。
冬で枯れ木になってるとは言え、風景と温泉が織りなす情景は一時ではあるが、憂さから離れられた。
(こんな理由で来たんじゃなけりゃ、尚良かったんだけどな…)
そんな事を思いながら、部屋に戻った。
部屋ではすでにミチルが戻っていた。
「おかえりぃ、良い湯だったね」
「あぁ…」
と、私はわざと気の無い風に答えた。
見ると、いつの間にか和室に布団が敷かれている。私たちがいない間に仲居さんが敷いてくれたのだろう。
「こんなにゆっくりお風呂に浸かったの久しぶりかもぉ〜」
「そうだな」
話そうと思えばあそこが良かったとか、露天風呂が素晴らしいとか色々話せたのだが、そういう時のミチルの快活さに、きっと私はついてけなくなるだろう…と思い、細かい感想は控えた。
(それよりも…)
私は風呂上がりで頬が上気したミチルを見た。
ミチルは微笑みながら、少しだけ首をかしげている。
私は無言でミチルに抱きつき、布団の上に押し倒した。
短い悲鳴をあげたミチルの口に、私は自分の唇を強引に押し付け、まだ乾ききっていないミチルの髪の毛をかき分けた。
「ん…んん…」
ミチルは瞳を閉じ、苦しそうにしているが、嫌がってない証拠に私の首に自分の腕を巻きつけている。
会社を逃げてから、 私は生きるのが怖くなっていた。
その恐怖を打ち消そうとするには、頭ではなく肉体を駆使するしかなかった。
もういっそ快楽という海原の中で溺れ死にたい気分だった。
ミチルと激しく求め合いながらも、時折頭をかすめる(そんな事をして何になる?)という自問を打ち消すように、私はミチルの柔らかい身体を貪った。