きれー…。
「へぇ-、噂通り一心は猫好きなんだー!」
一心が猫を撫でていると、傍らで何やら顕微鏡の準備をし始めた御守が呟いた。それを聞いて、一心がうっとうめいた。
「……その噂は忘れてよ、お願い。あれは、事故なんだよ……。猫は好きだけどさ」
「えー?私はそれ聞いたとき、勇者来たな!さぞかし人気者になっただろうと思ったよ?」
「残念ながらというか、当然ながらクラスで浮いてぼっちだよ……」
一心が悲しそうにそう呟いて御守から視線を逸らした。
そんな一心を見て不思議そうに御守が首を傾げる。結ばれた長い黒髪がさらりと揺れた。
「えー?御守のクラスだったらスターだよ、絶対!」
「……もういいよ、忘れてよ。あれは、だって、だってぇ……ぐすん」
一心がよりいっそう悲しそうな顔になり、嫌なことを思い出したのか涙目になり始めた。
それを見て、成正が慌てて御守を小突いた。
「おま、御守、何一心泣かせてるんだ!」
「あいた!暴力反対ですよ、成正先輩!」
御守は小突かれた額を押さえてむっとしながら成正を見上げる。
すると今度は玉吉が御守に向かって叱るように口を開いた。
「みーもーりー!一心に謝れ!」
御守はそれを不服そうに頬を膨らませて見るが、涙目の一心を見て、なんだか申し訳ない気分になって、しょんぼりと一心に頭を下げた。
「むぅ……。ごめん一心……」
「ぐすん、いいよ、大丈夫だよ。だからお願い、忘れて……?」
「……この子私のこと萌え死なせる気ですか……っ」
一心が涙を拭いながら小首を傾いでお願いした。それを見た御守が、うっと狼狽し始める。一心が不思議そうにまた小首を傾げた。
「御守、まじめに忘れると誓ってやれ」
「御守、俺も今を持って一心の噂は忘れるからさ、まじめにやれよ」
そんな二人の様子を見ていた成正と玉吉が、少しむっとしてそう御守に告げた。
御守が少し不服そうに二人を見て頬を膨らませた。
「なんで先輩たちはそんなに一心にご執心なんですか……分かった気もしますけど。でも先輩!一心ばっかりずるいです!御守のことも執心してください!かまってください!」
「みーもーり!はいかまったー」
「御守、この前テストがここに落ちてたぞ。お前あんなに馬鹿だったのか……。おい、かまったぞ」
「玉吉先輩、雑すぎます!成正先輩はそんなかまい方しないでというかテスト返せとか見るなとかいろいろあるけど、私は馬鹿じゃないです!あれは、その……たまたまです!あとやっぱりかまい方変です!雑です!」
御守がむっとしながら突っ込む。そんな様子を見ていて、一心がくすっと笑った。
「さてさて、御守もぼちぼち活動し始めるのですよー」
そう言うと、御守が何やらシャーレを持ってきて顕微鏡で観察し始めた。
その行動が気になった一心は、御守に近づいてそのシャーレを覗き込んだ。見ると、何やら黄色いものが細かく枝分かれしてシャーレの中を蔓延っている。
「……それ、なに?」
一心が不思議そうに尋ねると、その声に反応して御守が顔を上げた。少し嬉しそうに顔が綻んでいる。
「あぁ、この子?この子はねー、モジホコリちゃんだよ!」
「え、ホコリ……?」
「違う違う、モジホコリ!」
御守が嬉しそうに言うと、一心が訝しそうに首を傾げた。
御守がそんな一心を見て、思い出すように口を開く。
「モジホコリって、研究によく使われてて、あ、ほら!粘菌が迷路を解くってニュース見たことない?カーナビ技術に応用されてるんだけど……」
一心がそんな御守の言葉を聞いて首を振った。御守はそれを見て、少し考え込むように唸ってから、また口を開いた。
「うーん、そっかそっか……。じゃあ、この子たちについて説明してあげるよー」
御守はそう言うと、どこかに姿を消し、少しすると小脇に書物を抱えながらプラスチック製のコンテナを持ってきた。
それをよいしょと実験台の上に置くと、わざとらしく咳払いをひとつついて一心の方を向くと話し始めた。
「この子はモジホコリなんだけど、これは粘菌っていう生き物の一種なんだよっ。粘菌って言うのは、簡単に言うと枯れ木とか枯れ葉なんかにアメーバー状の身体を広げて生息してる微生物のことっ。粘菌には主に、真正と細胞性と原生の粘菌がいるんだけど、このモジホコリは真正だよっ。粘菌で有名なのは、教科書に載ってるのだと、細胞性のキイロタマホコリカビが有名かな?知ってるかな?」
「あ、キイロタマホコリカビなら教科書で見たことあるよ!あの、黄色くて綺麗な……」
一心がそう思い出したように言うと、御守が満足げに頷いた。
「そうそうそれ!あとは、アニメで言うと、『風の谷のナウシカ』に粘菌がモデルになった生物が出てくるんだけど、ほら、腐海の瘴気を出す菌類の……」
「あ、うん、分かった!ナウシカはこの前金曜ロードショーで見たしねっ」
その言葉を聞くと、御守が驚愕の表情を見せた。どうやら見忘れたらしい。御守が悔しそうな悲しそうな表情を見せた。諦めたように溜息をつくと、気を取り直してまたわざとらしく咳払いをした。
「こほん!まぁそれはさておき」
「なんかごめん……」
一心が少しあわあわしながら謝った。御守がいやいや私こそと頭を下げた。何故か成正が御守に一心を困らせるなと怒る。御守が不満そうにえぇ…と言葉を漏らした。
また気を取り直して、御守が話し出す。
「まぁ、粘菌がなんなのかって言うのはそれで分かったかな?このモジホコリやキイロタマホコリカビ……まぁ、タマホコリカビ、以外にも他に粘菌っていうのはいっぱい居るんだけど、私が飼ってるのはこのモジホコリ以外には、えっと、ムラサキホコリ、エダナシツノホコリ、ツヤエリホコリ、ルリホコリ……」
そう言って、御守がコンテナの中からいくつものシャーレを取りだして説明し始めた。その中にはいろんな形の小さな生物が、色鮮やかに蔓延っている。
「わぁー……、いろんな種類いて綺麗だねー」
一心がそれを見て呟くと、それを聞いた御守がずいっと一心に近づいた。
「そうなんだよ!粘菌はまず綺麗なのが魅力なんだよ!」
「うわ、そ、そうなの!?」
急に近づいてきた御守に驚いて、一心が後ろに背を反らす。すると、それを見た玉吉が御守に向かってボールをぽんと投げた。見事御守の頭に命中する。
「うにゃ!」
御守が頭を抱えてしゃがみ込む。ボールは床を転がってゆき、それを見たみたらしがボールを追いかけて一心の元を離れた。少し一心が悲しそうに表情を揺らす。みたらしがボールとじゃれ合い始めた。
「御守ぃー、一心が驚いてるじゃんかー。一心に近づきすぎだぞ?セクハラー」
「うぅー……。先輩方、過保護すぎですよ……」
御守が呻き声を上げる。一心がどうしていいのか分からずおろおろとしていた。
御守が呻きながら実験台によじ登るように立ち上がり始める。そして、実験台の上に置かれた分厚くて大きな書物を開くと、また口を開いた。
「……でね、粘菌ってとっても綺麗な所が魅力的なんだけど、肉眼で見てもそれは可愛いんだけどね、これを拡大して見るともっと綺麗なんだー!これ、粘菌図鑑なんだけど、このムラサキホコリがこの図鑑でいうこれで、ルリホコリがこれ!」
御守が指さした先にあったのは、お伽噺の世界に出てくるような不思議で可愛らしい形をした粘菌の写真だった。一心は、その美しさに思わず感嘆の声を漏らす。
「きれー……」
「でしょ!他にもいろんな粘菌があるんだけど、どれも綺麗でうっとりなんだよー」
御守はいろんな粘菌の姿を一心に見せようと図鑑を捲ってゆく。そこには様々な形をした色鮮やかな粘菌が写っており、ついつい一心も見入ってしまうほどの美しさだった。
「こんな生物がこの世にいたんだー……」
「うん、すごいでしょ!一心は話分かるねー、うんうん、さすが一心」
「え、それどういう意味?」
一心が不安そうにそう尋ねると、御守がそれ以上でも以下の意味でも無い!と何故か威張って言った。意味が分からない。一心が不思議そうに首を傾げた。御守がまた話を続ける。
「歴史を見てみると、粘菌は諸人物にその魅力から研究されてきた訳なんだけど、有名なのは、自宅の柿の木からミナカテラ・ロンギフィラっていう新族新種の粘菌を発見した南方熊楠かな?後は、みんなが驚くのは昭和天皇だねっ。天皇が自ら那須御用邸付近で粘菌を採取、標本にした粘菌の中には新種がいくつも発見されたって話もあるんだよ!」
「そーなんだ!昭和天皇が海洋生物とか植物の研究してた生物学者でもあったのは知ってたけど、粘菌の事は知らなかったー」
一心が関心したように口を開いた。そんな一心を見ていて御守も楽しそうに微笑んだ。
「でね、粘菌の研究と言えば有名な話がこれなんだよ!」
そう言って御守は一冊の本を取り出した。そこには、粘菌の文字が表紙に大きく書かれており、その下に副題として驚くべきその知性についてと書かれている。
「……?何の本なの?」
一心が訝しそうにその本を見つめると、御守がその本をパラパラと捲りながら話し出した。
「これはね、イグノーベル賞っていう、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞っていうのがあるんだけど、それに受賞した粘菌の研究について書いてある本なんだー。で、その研究は何かというと、なんと粘菌には迷路を最短ルートで解くっていう能力がある!っていう研究なんだよ!」
「え、微生物なのに、そんなこと出来ちゃうの!?」
一心が驚いてそう聞いた。すると、その反応が嬉しかったらしい御守が、嬉々として頷いた。
「うん!その能力を示した実験はね、粘菌を寒天培地の上につくった迷路内に蔓延らせて、その迷路のスタートとゴールに餌を置いて、数時間放置してみるとその粘菌はどうなるかっていうものなんだけど、するとなんと、粘菌は餌同士を最短ルートで結んだんだよ!理屈的には、粘菌を管として考えたときに、多量の水が流れる管は太くなって、水量が増し、逆に流れが小さくなると管は細くなって、流れが小さくなって最後は消滅するからなんだけど、これは粘菌が最短経路だけに集まることで餌を効率よく得ようとしているからと考えられているんだー。このことから、粘菌の行動は知性を持つと言ってもいいのではないかって議論があって、「知性とは発達した大脳皮質をもつ生きものだけが持てるものである」とされてたんだけど、知性とは何かって我々は考えさせられる事象になってるんだよー」
「へぇー……。確かに常識的に言えばそうだけど、その粘菌の行動からして微生物でも知性があるとも考えられるよねー……。やっぱり、生物学に常識なしって感じだねー」
一心が興味を持ってふむふむと聞いている。一心の言葉に、御守が生物学は常識が通用しない所がまた魅力だよねーと頷く。個々の活動をしている玉吉と成正も同感だと声を上げた。
「だから、俺がホムンクルスを完成させることも夢では……!」
「いや、ちょっとそれはどうだろ、成正……」
成正がガタンと立ち上がって、突然力強くそう叫びだした。玉吉がそれを見て困ったように突っ込む。そう突っ込まれた成正が、むっとしながらも大人しく着席する。また二人は黙々と自分の活動に戻った。一心が突然起こったその寸劇にぽかんとする。御守がいつもの事だよーと呆けた。
「後ね、粘菌は他にも知性的な行動をするんだー。一回自分が通った道を、その通った道に残る粘液の痕跡から把握し、そこを避けて移動したりするとかねっ。迷路の話の続きでいくと、自らに危険の及ぶ場所を避けて、最短ルートを結ぶことが出来るんだよっ。それはカーナビ技術とかに応用されてるんだ!」
「カーナビに?知らなかった!」
「粘菌は、私たちの暮らしにも役立ってるんですよー。すごいでしょ!」
御守が威張るようにそう言った。一心が感心して思わず拍手した。