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異常の余白

昭夫の冒険

作者: 大窟凱人
掲載日:2026/11/07

 帰り道がわからなくなって、初めて、左右で違う靴を履いていることに気づいた。


 右は黒い革靴で、左は茶色いサンダル。革靴の爪先はきちんと磨かれているのに、サンダルには乾いた泥がこびりついている。何とも不格好な取り合わせだった。ズボンの裾を引っぱって左足を隠そうとすると、腰から背中へ痛みが走った。まったく、靴一つ満足に履けなくなったか。

 見覚えのない商店街の外れに立っていた。片側一車線の道路を挟んで郵便局があり、その隣には白いマンションが建っている。ベランダには洗濯物が並び、外階段の下には自転車が何台も置かれていた。どこにでもある町の眺めだったが、そのどれもが、自分の知っているものとは少し違っていた。

 さて、家はどちらだったろう。

 目を凝らしてみても、思い当たる道がない。ずいぶん遠くまで来てしまったらしい。


「うーむ」


 声に出してみたところで、名案が浮かぶわけでもなかった。

 ともかく帰らなくては。


 買い物袋は持っていない。病院の薬もない。用事はもう済んだのだろうか。郵便局の赤い看板には見覚えがあった。あそこへ行けば、何か思い出すかもしれない。

 横断歩道では、男の子が母親の手を引っぱっていた。早く渡りたくて仕方がないらしい。車は一台も来ていなかったが、私も青になるまで待った。年寄りが事故を起こしては、周りの人が迷惑する。

 信号が変わるや、男の子は弾かれたように走り出した。母親が慌てて追いかける。

 うちの子も、ああだった。手をつないだつもりでいると、いつの間にか向こうへ駆けていく。捕まえたころには、こちらばかり息を切らしていたものだ。

 郵便局の角を曲がり、マンションの脇へ入った。細い路地には日が差さず、壁際の土が湿っている。室外機が唸るような音を立て、その下に溜まった水へ、どこからか雫が落ちていた。

 駐輪場の隅に大きな石がある。角の欠けた、平たい石だった。半分ほど土に埋まり、自転車の後輪がその上へ張り出している。

 今どき、こんな石を残しておくものだろうか。

 どうにも見覚えがある気がしたが、何の石だったかは思い出せなかった。

 路地を抜けると、また広い道路に出た。向こうに赤い看板が見える。

 郵便局だった。

 看板の下には青いビニールテープが斜めに貼られている。さっき見たのと同じだ。

 どうやら一回りして戻ってきたらしい。時計を確かめようとして、腕には何もないことに気づいた。

 困ったな。

 しかし、慌てたところで道が現れるわけでもない。急いでやった仕事ほど、あとで手直しが要る。昔からそういうものだった。

 今度は郵便局に背を向け、商店街へ入った。


 八百屋では男が大根の葉を揃えていた。向かいの惣菜屋から油の弾ける音がして、揚げたてのコロッケの匂いが漂ってくる。

 腹が鳴った。

 昼飯を食べたのだったろうか。財布へ手を伸ばしたものの、家で食べれば済むと思い直した。こんなところで無駄遣いをしても仕方がない。

 しばらく歩くと、息が上がってきた。右足は革靴の重みでしっかり地面を踏むのに、左のサンダルは踵が浮いてしまう。歩くたびに身体が左右へ傾き、腰に響いた。

 電柱にもたれて膝をさすっていると、花壇の草をむしっていた女性が顔を上げた。


「どうかされました?」


「いや、散歩です」


「そうですか。今日は暑いですからね」


「ええ、まったく」


 女性は笑って、また草むしりに戻った。

 道を聞けばよかったかもしれない。しかし住所も言えないのでは、相手も困るだろう。

 昔から、人にものを頼むのは苦手だった。頼まれたことなら、できるだけ引き受ける。けれど、自分の用事で誰かを呼び止めるとなると、どうにも気が進まない。

 誰にも知られず帰れれば、それが一番よかった。


 商店街を抜けると道が下り坂になり、家々の間に小さな川が見えてきた。橋の向こうには二階建ての家が並んでいる。

 欄干に手を置いて、少し休んだ。すぐ脇を車が通ると、その振動が足の裏まで伝わってきた。川底には丸い石がいくつも転がり、その間を細い水が流れている。橋の下だけ、幾分涼しかった。

 息子が小さいころ、こういう川で遊んだことがある。

 長靴いっぱいに水を入れて帰ってきて、玄関を泥だらけにした。ひどく叱ったつもりだったのに、あの子は笑っていた。どうして笑われたのか、今でもわからない。

 橋を渡ると、塀の上に柿の枝を伸ばした家があった。まだ青い実が、葉の間に幾つかぶら下がっている。

 うちにも柿の木があった。

 子供のころ、母は縁側に新聞紙を広げ、むいた柿をそこへ並べてくれた。兄弟で取り合いにならないように、わざわざ同じ大きさに切るのである。父は玄関の脇に大きな石を据え、帰ったらそこで靴の泥を落とせと言った。私たちは石を使う順番で喧嘩をして、また叱られた。

 大人になってからは、今度は私の息子があの柿を食べた。父の運んだ石も、そのころまでは確かにあった。

 いや、木はもう切ってしまったのだったか。

 息子が切ったのだ。

 古い木だったから仕方がない。枝が折れれば危ないし、落ち葉の掃除も大変だ。私だって、そうするように言ったかもしれない。

 それなのに、柿の青い実を眺めていると、胸の奥が重苦しくなった。

 道の向こうでは洗濯物を取り込む人がいる。犬を抱いて玄関へ入る人がいる。開け放した窓からは、子供を呼ぶ声が聞こえた。

 どの家にも食卓があり、誰かが帰ってくるのを待っているのだろう。


 私だって帰りたい。


 なのに、早く帰ろうと思えば思うほど、足が重くなった。


 川沿いを進むうち、また大通りへ出た。どこで角を曲がったのか、もう思い出せない。膝は熱を持ち、サンダルの縁が擦れるたびに左の踵が痛んだ。

 道路脇に小さな文具店があった。

 店先にはノートと封筒が並び、ガラス戸に「コピーできます」という紙が貼ってある。軒先にベンチもあったので、少し休ませてもらうことにした。

 腰を下ろすと、太腿から力が抜けた。左の踵には赤い擦り傷ができている。左右の靴を並べてみると、誰か二人から片方ずつ借りてきたようで、我ながらおかしくなった。

 ふと顔を上げた。


 道路の向こうに郵便局がある。


 看板の青いビニールテープまで見えた。

 橋を渡り、あんなに歩いたのに、またここへ戻ってきてしまったらしい。

 道順を思い返そうとした。商店街を抜け、橋を渡り、川沿いを歩いた。確かにそれだけは覚えている。それなのに、どこで向きを変えたのか、まるでわからなかった。

 店から中年の女性が出てきた。


「おじいさん、大丈夫ですか」


「ええ。少し休ませてもらっています」


「お水、持ってきましょうか」


「いやいや。すぐ行きますから」


 そう答えて立とうとしたが、腰が浮いただけだった。女性は急かさずに待っていて、ようやく立ち上がると店の中へ案内してくれた。

 冷たい麦茶まで出してもらった。紙コップを握ると、指の間にひんやりした湿り気が広がった。一口飲んで、やっと喉が渇いていたことに気づいた。続けて飲もうとして少しこぼし、女性が布巾を取りに行った。

 何か買わなくては。

 麦茶だけいただいて帰るわけにはいかない。目の前にボールペンが並んでいた。


「これを一つください」


「無理して買わなくてもいいんですよ」


「いえ、ちょうど欲しかったんです」


 百五十円だった。百円玉を二枚出し、五十円のお釣りを受け取る。家にも何本かある気がしたが、ボールペンはいくらあっても困らない。

 胸ポケットに差すと、ようやく借りを返せた気がした。


「おうちはお近くですか」


「ええ、すぐそこです」


「どちらの方です?」


 答えようとして、口が開いたままになった。

 生まれた年も、勤めていた会社の名前もわかる。息子が通った小学校の校歌だって、まだ歌える。それなのに、肝心の住所が出てこない。

 昔から覚えのよい方ではなかったが、これは困った。


「ちょっと、ど忘れをしまして」


 女性はそれ以上尋ねず、椅子を勧めてくれた。

 ガラス戸の向こうには赤い郵便局がある。あそこだけが、さっきから私について回る。

 しばらく座って考えた末、思い切って頼んだ。


「あのう。電話をお借りしてもよろしいでしょうか」


 財布のカード入れに、息子の電話番号があった。上には「藤木昭夫」と印刷してある。私の名前だ。一番下には、小さな字で「道に迷った場合はこちらへ」と書かれていた。

 息子はこんなものまで作ってくれていたのか。ありがたいが、何とも情けない。

 女性が電話をかけ、事情を説明してから受話器を渡してくれた。


「もしもし」


『父さん?』


 息子の声だった。間違いない。

 ようやく帰れる。風呂に入って、何か温かいものを食べよう。


『いま、どこにいるの』


「いやあ、道に迷ってしまってね。こちらのお店の方が親切にしてくださって」


『何時だと思ってるの』


 怒鳴ったわけではない。それなのに、私は受話器を両手で持ち直していた。


「すみません」


『心配したよ』


「本当にすみません。もうしませんから」


『迎えに行くから。そこから動かないで』


「はい」


『お店の人にも、余計な心配かけないようにね』


「はい。すみません」


 電話を切った。

 迎えに来る。息子が、ここへ。

 受話器を置こうとすると、台の縁に何度も当たった。手が震えている。力を込めても、どうにも止まらなかった。


「よかったですね」


 女性が言った。


「ええ。ありがとうございます」


 笑って答えたつもりだった。口の中はからからで、紙コップを取ろうとして指を滑らせた。

 女性が新しい麦茶を注いでくれた。いつ前の一杯を飲み干したのか、覚えていない。けれど喉には冷たさが残っている。飲んだのだろう。


「何度もすみませんね」


「いいんですよ。息子さん、もうすぐいらっしゃいますから」


 女性は空のポットを持って奥へ引っ込んだ。

 待てばよい。私から頼んだのだ。あの子は仕事を抜けて迎えに来てくれる。これ以上、困らせてはいけない。

 そう考えて椅子を離れた。

 膝が伸びず、台の縁を掴んで身体を支える。ガラス戸へ近づくと、自分の顔が映った。

 知らない老人が、ひどく怯えた顔をしている。

 私はその老人から目を逸らし、戸を押した。


 外の熱気が顔に当たった。

 女性には何も言わなかった。言えば引き止められる。それではきっと、椅子へ座り直してしまう。

 郵便局の前にいれば、息子に見つかりそうだった。道路は渡らず、商店街の方へ向かった。

 八百屋の男は大根の葉を揃え、惣菜屋には昼より長い行列ができている。さっきと変わらない眺めだった。私はその間を、できるだけ急いで歩いた。

 ところが革靴が前へ出るたび、サンダルが遅れる。腰が左右へ揺れ、息ばかり荒くなった。

 どこへ行くつもりなのだろう。

 わからない。ただ、あの店から離れなければならなかった。

 商店街の出口で振り返ると、もう文具店は見えなかった。少しだけ胸が楽になった。

 何をそんなに恐れているのか、自分でも不思議だった。

 親切にしてくれた女性には、申し訳ないことをした。電話まで貸してもらったのに、何も言わず出てきてしまった。あとで謝らなくては。

 息子にも謝らなければならない。

 だが、あの子には何と言えばよいのだろう。迎えに来てくれるのが嫌だなどと、口にできるはずもなかった。


 また橋が見えてきた。

 欄干は日に温められ、掌を置くと熱かった。向こうには柿の木のある家が見える。

 橋を渡れば、また郵便局へ戻ってしまうのではないか。それならこちら岸にいればよいのだろうか。

 郵便局、商店街、惣菜屋、橋。

 覚えている道を順番に並べても、その先が続かなかった。まるで途中まで書いた帳面を、誰かに破り取られたようだった。

 腹が空いていた。汗が首筋を流れ、川の水までうまそうに見える。


 商店街の方から白い車が来た。

 橋の手前で速度を落とした。後ろの扉の下に、黒い擦り傷がある。

 見覚えがあった。

 運転席の男がこちらを向いた。


 息子だった。


 間違いない。あの子の顔だ。

 迎えに来てくれたのだと思い、片手を上げかけた。

 その途端、胸を内側から掴まれたようになった。息を吸おうとしても、うまく入ってこない。

 手を下ろし、橋の脇の細道へ入った。車の通れない川沿いの道だった。背後でブレーキが軋んだが、振り返れなかった。

 ブロック塀に手を擦りながら進んだ。右の革靴が先へ出ても、左のサンダルが追いつかない。自分の足が、まるで人の足のようにもどかしい。

 どうしたのだろう。

 あれは息子なのだ。

 小さいころ、熱を出すたびに背負って病院へ走った。初めて自転車に乗れた日も、学校で賞状をもらった日も覚えている。

 あんなにかわいがった息子が、迎えに来てくれた。

 どうして私は逃げているのだろう。


 角を曲がったところで、膝が折れそうになった。塀に背中を預け、息を整える。胸の辺りを押さえると、ポケットの中で紙が擦れた。

 取り出すと、小さく折り畳んだ紙だった。古い封筒の裏に、何行も文字が書いてある。

 私の字だ。


『昭夫へ。忘れてしまうから書いておく』


 自分宛ての手紙だった。

 おかしなことをするものだ。どうして自分に手紙など書いたのだろう。

 続きを読んだ。


『白い扉は寝室の扉。外側に鍵がついている。昨夜、便所に行こうとして開かなかった。何度叩いても、息子は開けてくれなかった』


 白い扉。

 古い木製で、下の方だけ塗料が剥げている。

 その取っ手を回す自分の手が浮かんだ。向こうで金属の鳴る音がする。

 封筒を持つ指が強張った。


 暗い部屋にいた。

 何度叩いたか知れない扉へ、また拳を当てている。喉が渇き、便所にも行きたかった。指の関節が痛むのに、叩くのをやめられない。

 向こうから息子の声がした。


「父さん、お願いだから寝てくれよ。もう朝になるんだぞ」


「開けておくれ」


「また外へ出るだろ。昨日だって車に轢かれかけたじゃないか」


「出ないよ。便所に行くだけだから」


「さっきもそう言ったんだよ」


 鍵の向こうで、息子の足音が遠ざかった。

 あの子は疲れていた。仕事があるのに、夜中まで私の面倒を見てくれていた。

 だから、それ以上頼めなかった。

 扉の前に座り込むと、床の冷たさがズボンを通して尻に染みた。朝になれば開けてくれる。今は我慢しよう。あの子を寝かせてやらなくては。

 そう思いながら、明るくなるのを待っていた。


 塀にもたれたまま、目を開けた。

 夕日が道路の端まで差している。握りしめた封筒が汗で柔らかくなっていた。

 思い出した。

 今朝、息子が仕事へ出る前に鍵を外したのだ。それからどうにか家を出た。玄関で黒い革靴を履いたが、もう片方が見つからず、サンダルを引っかけてきた。

 靴のことまで、やっとわかった。

 封筒には続きがあった。


『息子は食事も作ってくれる。病院にも連れていってくれる。私が何度も外へ出るから、鍵をかけるしかないのだと言っていた』


『あの子をここまで疲れさせたのは私だ。それでも、もうあの部屋には戻れない』


『迎えに来ても、ついていかないこと。忘れたら、またこれを読むこと』


 何度も読み返した。

 自分の字だった。いつもより筆圧が強く、ところどころ紙が破れかけている。

 これを書いたとき、私はよほど怖かったのだろう。

 それなのに、息子の顔を思い浮かべると、玄関で靴を履かせてやった小さな子供の姿が重なる。片足を上げたまま私の腕にしがみつき、早くしろと催促していた、あの子だ。


 あの子が、私を閉じ込めた。


 帰ればまた鍵がかかる。

 理由はわかった。それでも息子を悪く思うことが、どうしてもできなかった。できないまま、もうあの家へ帰ることもできないのだった。

 遠くで車の扉が閉まる音がした。

 封筒をポケットへ押し込み、塀に手をついて歩き出した。


 川沿いの細道は、やがて大通りの下をくぐった。頭上で車が走るたび、コンクリートの天井から重たい音が降ってくる。壁には雨水の跡が黒く残り、足元を細い水が流れていた。

 この道を通ったことがあるだろうか。

 見覚えはなかった。

 それでも振り返ったとき、橋が見えなくなっていたので、少し安心した。

 地下道の先には知らない町が広がっていた。道路は太く、建物はどれも見上げるほど大きい。昔はこの辺りにも畑があったはずだ。いや、それは別の町だったかもしれない。

 交差点で信号を待っていると、隣の若い女性が携帯電話で話していた。


「もう帰るから。ご飯、先に食べてて」


 帰る。

 私も帰らなくては。

 そう思ってから、ポケットの封筒に触れた。

 帰ってはいけないのだった。

 まったく、ややこしいことになった。


 信号が青になり、周りの人について横断歩道を渡った。渡り終えるころには息が切れ、電柱に手をついて休まなければならなかった。

 左の踵がひどく痛む。

 どうしてこんな靴を履いているのだろう。

 見下ろすと、黒い革靴と茶色いサンダルだった。何ともみっともない。ズボンの裾を引っぱって隠そうとしたが、腰が痛くて手が届かなかった。


 しばらく先に小さな公園があった。ベンチに腰を下ろすと、両脚が細かく震えていた。立っている間は気づかなかったのだ。

 喉が渇いた。

 水道が見えたが、あそこまで歩くのも億劫だった。休んでいれば、そのうち楽になるだろう。

 胸ポケットにボールペンがあった。

 いつ買ったものだろう。新品らしく、軸にはまだ値札の糊が少し残っている。

 ポケットから封筒を取り出した。何か大切なことが書いてある。これは忘れないようにしなくては。

 余白へ『帰るな』と書き足そうとした。

 しかし、どこの家へ帰るなというのだったろう。

 ペン先が紙に触れたまま止まり、黒い点を作った。

 自分で書いたものなら、読み返せば思い出すはずだ。最初の行から目を通した。


『昭夫へ。忘れてしまうから書いておく』


 昭夫。

 私の名前だ。

 その下には息子のことが書いてある。

 そうだった。私には息子がいる。結婚して、子供を育てたのだ。

 あの子はいま幾つになったろう。幼稚園に入ったばかりだったか。いや、小学校の運動会で転んで泣いていた。駆け寄って抱き起こすと、膝から血が出ているのに、まだ走ると言って聞かなかった。

 あの子はもう、私より大きくなっただろうか。

 封筒を畳んだ。

 自分がなぜこんなことを書いたのか、よくわからない。けれど、いい加減なことを書いたりはしないはずだ。私は昔から、書きつけたことは守る方だった。

 そう思って封筒をしまった。


 公園の時計が六時を指していた。

 夕飯の時間が近い。家では妻が何か作っているだろう。

 今日は何を頼まれて出かけたのだったか。買い物袋を持っていない。何も買わずに帰ったら、また笑われるかもしれない。

 いや、妻はもう亡くなったのだったか。

 いつだったろう。

 考えているうちに、公園の向こうを親子が通った。ランドセルを背負った男の子が、つないだ手を大きく振り回し、父親を困らせている。

 いいものだ。

 私の息子も、あんなふうだった。

 いつかあの子と、また散歩をしたいものだ。

 そう考えていると、何だか眠くなった。


 目を開けると、公園は薄暗くなっていた。

 いつの間にか眠っていたらしい。ベンチから立とうとしたが、腰が伸びない。膝に手をつき、どうにか身体を起こした。

 何をしていたのだったか。

 そうだ。

 家へ帰るところだった。

 母が待っている。

 もう夕飯の時間だ。兄弟たちも帰っているだろう。私だけ遅くなったら、母が心配する。

 早く帰らなくては。


 公園を出ると、知らない建物ばかりだった。

 こんなに大きな道路は、昔はなかったはずだ。畑がずっと続いていて、川には小さな橋が架かっていた。

 どちらへ行けばよいのだろう。

 道を尋ねようにも、家の住所が出てこない。困っていると、郵便局の赤い看板が頭に浮かんだ。

 そうだ。あそこからなら帰れる。

 郵便局の隣には、うちの柿の木がある。


 母は毎年、柿が赤くなるのを楽しみにしていた。縁側に新聞紙を広げ、兄弟の分まで丁寧にむいてくれた。父は玄関の脇に大きな石を運んできて、泥のついた靴はそこで綺麗にしてから上がれと言った。

 角の欠けた、少し平たい石だった。

 私も運ぶのを手伝った。ずいぶん重かったが、父が一人前の働きをしたように褒めてくれたので、嬉しかった。

 あの石は、まだ玄関にあるだろうか。

 あるはずだ。

 父は母が重いものを運ばずに済むように、わざわざあそこへ据えたのだから。

 郵便局へ帰ろう。

 行く場所が決まると、足も幾分軽くなった。やはり、道を知っているのと知らないのとでは大違いだ。


 どれほど歩いただろう。

 途中で雨が降り始めた。

 街灯の下で道路が白く光り、歩道の端に水が溜まっている。足を踏み出すたび、左のサンダルへ水が入り、指の間まで冷たくなった。

 どうしてこんな履物で出てきたのだろう。

 母に見つかったら叱られるだろう。家へ帰れば靴下を替えてくれるし、濡れた足も拭いてくれる。

 今日はずいぶん遠くまで遊びに来てしまった。

 父にも叱られるかもしれない。

 それでも家へ帰れるのだから、少しくらい我慢しなくては。


 川沿いを歩いていると、見覚えのある大通りへ出た。

 向こうに郵便局の赤い看板がある。

 よかった。あそこだ。

 車が何台も通り過ぎ、そのたびに泥水が跳ねて、ズボンの裾を濡らした。母に洗濯の手間をかけてしまう。

 困ったことだ。

 信号が青になるのを待って、郵便局の前へ渡った。

 そこから角を曲がる。


 白いマンションが建っていた。


 おかしい。

 ここにはうちの塀があったはずだ。塀の上から柿の枝が伸びていて、玄関の脇には父が据えた石がある。

 家が見当たらない。

 マンションの脇へ回ってみた。駐輪場には自転車が並び、屋根から雨粒が落ちている。

 その奥の壁際に、石があった。

 角の欠けた、少し平たい石だ。半分ほど土に埋まり、雨に洗われて、昔より色が黒くなっていた。

 私は近づいて、石に手を置いた。

 間違いない。

 父が運んできた石だった。


 ここだ。


 石の向こうが、うちの玄関だった。

 家はすっかり変わってしまったらしい。きっと父が建て直したのだろう。ずいぶん立派にしたものだ。

 母はどこにいるだろう。

 呼んでみようか。


「母さん」


 声がうまく出なかった。

 立ち上がろうと石に手をついたが、身体が持ち上がらない。膝も腰も痛み、濡れたズボンが脚に貼りついていた。

 どうしてこんなに疲れているのだろう。

 しかし、もう帰ってきたのだ。

 ここまで来れば、あとは玄関へ入るだけでよい。


 顔を上げた。


 目の前に古い家があった。

 黒ずんだ木の柱。少し傾いた雨樋。塀の上へ伸びた柿の枝。

 玄関に明かりがついている。

 ああ、やっぱりここだった。

 間違えずに帰ってこられたのだ。


 扉が開いた。

 母が立っていた。

 若いころの母だった。いつもの前掛けをして、濡れた手を拭いている。


「昭夫、どこまで行ってたの」


 叱られるかと思ったが、母は足元を見て眉を寄せた。


「そんなに濡れて。早く上がりなさい」


 家の奥から父の声がした。


「帰ってきたのか」


 新聞を畳む音がする。座敷では兄弟たちが何かを言い合っていて、時々笑い声が上がった。

 台所から茶碗の触れ合う音がした。

 温かい米と味噌汁の匂いが、玄関まで漂ってくる。

 私は手を伸ばした。

 けれど、身体がうまく動かなかった。

 母がこちらへ来た。


「どうしたの。そんなところに座って」


「……疲れちゃった」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 母は笑った。


「ずいぶん遊んできたんだね」


 その声を聞くと、急に泣きたくなった。

 今日は何か怖いことがあったような気がする。知らない男が、私をどこかへ連れていこうとしたのだ。

 でも、もう思い出せない。

 母が手を差し出してくれた。

 握ろうとして、自分の手を見た。

 ひどく皺だらけだった。

 父の手より、ずっと年寄りの手に見える。いつ、こんな手になったのだろう。

 母は何も言わず、その手を握ってくれた。


 すると不思議なことに、立ち上がれた。

 さっきまで痛んでいた膝も腰も、もう何ともない。

 玄関へ向かいかけ、ふと振り返った。


 石の脇に、知らない老人が座っていた。

 雨に濡れた顔をうつむかせ、身じろぎもしない。

 右は黒い革靴、左は茶色いサンダル。

 ひどい履き方だ。家へ帰る前に、誰かが教えてやればよかったのに。


「おかえり、昭夫」


 母が手を引いた。


「ただいま」

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