昭夫の冒険
帰り道がわからなくなって、初めて、左右で違う靴を履いていることに気づいた。
右は黒い革靴で、左は茶色いサンダル。革靴の爪先はきちんと磨かれているのに、サンダルには乾いた泥がこびりついている。何とも不格好な取り合わせだった。ズボンの裾を引っぱって左足を隠そうとすると、腰から背中へ痛みが走った。まったく、靴一つ満足に履けなくなったか。
見覚えのない商店街の外れに立っていた。片側一車線の道路を挟んで郵便局があり、その隣には白いマンションが建っている。ベランダには洗濯物が並び、外階段の下には自転車が何台も置かれていた。どこにでもある町の眺めだったが、そのどれもが、自分の知っているものとは少し違っていた。
さて、家はどちらだったろう。
目を凝らしてみても、思い当たる道がない。ずいぶん遠くまで来てしまったらしい。
「うーむ」
声に出してみたところで、名案が浮かぶわけでもなかった。
ともかく帰らなくては。
買い物袋は持っていない。病院の薬もない。用事はもう済んだのだろうか。郵便局の赤い看板には見覚えがあった。あそこへ行けば、何か思い出すかもしれない。
横断歩道では、男の子が母親の手を引っぱっていた。早く渡りたくて仕方がないらしい。車は一台も来ていなかったが、私も青になるまで待った。年寄りが事故を起こしては、周りの人が迷惑する。
信号が変わるや、男の子は弾かれたように走り出した。母親が慌てて追いかける。
うちの子も、ああだった。手をつないだつもりでいると、いつの間にか向こうへ駆けていく。捕まえたころには、こちらばかり息を切らしていたものだ。
郵便局の角を曲がり、マンションの脇へ入った。細い路地には日が差さず、壁際の土が湿っている。室外機が唸るような音を立て、その下に溜まった水へ、どこからか雫が落ちていた。
駐輪場の隅に大きな石がある。角の欠けた、平たい石だった。半分ほど土に埋まり、自転車の後輪がその上へ張り出している。
今どき、こんな石を残しておくものだろうか。
どうにも見覚えがある気がしたが、何の石だったかは思い出せなかった。
路地を抜けると、また広い道路に出た。向こうに赤い看板が見える。
郵便局だった。
看板の下には青いビニールテープが斜めに貼られている。さっき見たのと同じだ。
どうやら一回りして戻ってきたらしい。時計を確かめようとして、腕には何もないことに気づいた。
困ったな。
しかし、慌てたところで道が現れるわけでもない。急いでやった仕事ほど、あとで手直しが要る。昔からそういうものだった。
今度は郵便局に背を向け、商店街へ入った。
八百屋では男が大根の葉を揃えていた。向かいの惣菜屋から油の弾ける音がして、揚げたてのコロッケの匂いが漂ってくる。
腹が鳴った。
昼飯を食べたのだったろうか。財布へ手を伸ばしたものの、家で食べれば済むと思い直した。こんなところで無駄遣いをしても仕方がない。
しばらく歩くと、息が上がってきた。右足は革靴の重みでしっかり地面を踏むのに、左のサンダルは踵が浮いてしまう。歩くたびに身体が左右へ傾き、腰に響いた。
電柱にもたれて膝をさすっていると、花壇の草をむしっていた女性が顔を上げた。
「どうかされました?」
「いや、散歩です」
「そうですか。今日は暑いですからね」
「ええ、まったく」
女性は笑って、また草むしりに戻った。
道を聞けばよかったかもしれない。しかし住所も言えないのでは、相手も困るだろう。
昔から、人にものを頼むのは苦手だった。頼まれたことなら、できるだけ引き受ける。けれど、自分の用事で誰かを呼び止めるとなると、どうにも気が進まない。
誰にも知られず帰れれば、それが一番よかった。
商店街を抜けると道が下り坂になり、家々の間に小さな川が見えてきた。橋の向こうには二階建ての家が並んでいる。
欄干に手を置いて、少し休んだ。すぐ脇を車が通ると、その振動が足の裏まで伝わってきた。川底には丸い石がいくつも転がり、その間を細い水が流れている。橋の下だけ、幾分涼しかった。
息子が小さいころ、こういう川で遊んだことがある。
長靴いっぱいに水を入れて帰ってきて、玄関を泥だらけにした。ひどく叱ったつもりだったのに、あの子は笑っていた。どうして笑われたのか、今でもわからない。
橋を渡ると、塀の上に柿の枝を伸ばした家があった。まだ青い実が、葉の間に幾つかぶら下がっている。
うちにも柿の木があった。
子供のころ、母は縁側に新聞紙を広げ、むいた柿をそこへ並べてくれた。兄弟で取り合いにならないように、わざわざ同じ大きさに切るのである。父は玄関の脇に大きな石を据え、帰ったらそこで靴の泥を落とせと言った。私たちは石を使う順番で喧嘩をして、また叱られた。
大人になってからは、今度は私の息子があの柿を食べた。父の運んだ石も、そのころまでは確かにあった。
いや、木はもう切ってしまったのだったか。
息子が切ったのだ。
古い木だったから仕方がない。枝が折れれば危ないし、落ち葉の掃除も大変だ。私だって、そうするように言ったかもしれない。
それなのに、柿の青い実を眺めていると、胸の奥が重苦しくなった。
道の向こうでは洗濯物を取り込む人がいる。犬を抱いて玄関へ入る人がいる。開け放した窓からは、子供を呼ぶ声が聞こえた。
どの家にも食卓があり、誰かが帰ってくるのを待っているのだろう。
私だって帰りたい。
なのに、早く帰ろうと思えば思うほど、足が重くなった。
川沿いを進むうち、また大通りへ出た。どこで角を曲がったのか、もう思い出せない。膝は熱を持ち、サンダルの縁が擦れるたびに左の踵が痛んだ。
道路脇に小さな文具店があった。
店先にはノートと封筒が並び、ガラス戸に「コピーできます」という紙が貼ってある。軒先にベンチもあったので、少し休ませてもらうことにした。
腰を下ろすと、太腿から力が抜けた。左の踵には赤い擦り傷ができている。左右の靴を並べてみると、誰か二人から片方ずつ借りてきたようで、我ながらおかしくなった。
ふと顔を上げた。
道路の向こうに郵便局がある。
看板の青いビニールテープまで見えた。
橋を渡り、あんなに歩いたのに、またここへ戻ってきてしまったらしい。
道順を思い返そうとした。商店街を抜け、橋を渡り、川沿いを歩いた。確かにそれだけは覚えている。それなのに、どこで向きを変えたのか、まるでわからなかった。
店から中年の女性が出てきた。
「おじいさん、大丈夫ですか」
「ええ。少し休ませてもらっています」
「お水、持ってきましょうか」
「いやいや。すぐ行きますから」
そう答えて立とうとしたが、腰が浮いただけだった。女性は急かさずに待っていて、ようやく立ち上がると店の中へ案内してくれた。
冷たい麦茶まで出してもらった。紙コップを握ると、指の間にひんやりした湿り気が広がった。一口飲んで、やっと喉が渇いていたことに気づいた。続けて飲もうとして少しこぼし、女性が布巾を取りに行った。
何か買わなくては。
麦茶だけいただいて帰るわけにはいかない。目の前にボールペンが並んでいた。
「これを一つください」
「無理して買わなくてもいいんですよ」
「いえ、ちょうど欲しかったんです」
百五十円だった。百円玉を二枚出し、五十円のお釣りを受け取る。家にも何本かある気がしたが、ボールペンはいくらあっても困らない。
胸ポケットに差すと、ようやく借りを返せた気がした。
「おうちはお近くですか」
「ええ、すぐそこです」
「どちらの方です?」
答えようとして、口が開いたままになった。
生まれた年も、勤めていた会社の名前もわかる。息子が通った小学校の校歌だって、まだ歌える。それなのに、肝心の住所が出てこない。
昔から覚えのよい方ではなかったが、これは困った。
「ちょっと、ど忘れをしまして」
女性はそれ以上尋ねず、椅子を勧めてくれた。
ガラス戸の向こうには赤い郵便局がある。あそこだけが、さっきから私について回る。
しばらく座って考えた末、思い切って頼んだ。
「あのう。電話をお借りしてもよろしいでしょうか」
財布のカード入れに、息子の電話番号があった。上には「藤木昭夫」と印刷してある。私の名前だ。一番下には、小さな字で「道に迷った場合はこちらへ」と書かれていた。
息子はこんなものまで作ってくれていたのか。ありがたいが、何とも情けない。
女性が電話をかけ、事情を説明してから受話器を渡してくれた。
「もしもし」
『父さん?』
息子の声だった。間違いない。
ようやく帰れる。風呂に入って、何か温かいものを食べよう。
『いま、どこにいるの』
「いやあ、道に迷ってしまってね。こちらのお店の方が親切にしてくださって」
『何時だと思ってるの』
怒鳴ったわけではない。それなのに、私は受話器を両手で持ち直していた。
「すみません」
『心配したよ』
「本当にすみません。もうしませんから」
『迎えに行くから。そこから動かないで』
「はい」
『お店の人にも、余計な心配かけないようにね』
「はい。すみません」
電話を切った。
迎えに来る。息子が、ここへ。
受話器を置こうとすると、台の縁に何度も当たった。手が震えている。力を込めても、どうにも止まらなかった。
「よかったですね」
女性が言った。
「ええ。ありがとうございます」
笑って答えたつもりだった。口の中はからからで、紙コップを取ろうとして指を滑らせた。
女性が新しい麦茶を注いでくれた。いつ前の一杯を飲み干したのか、覚えていない。けれど喉には冷たさが残っている。飲んだのだろう。
「何度もすみませんね」
「いいんですよ。息子さん、もうすぐいらっしゃいますから」
女性は空のポットを持って奥へ引っ込んだ。
待てばよい。私から頼んだのだ。あの子は仕事を抜けて迎えに来てくれる。これ以上、困らせてはいけない。
そう考えて椅子を離れた。
膝が伸びず、台の縁を掴んで身体を支える。ガラス戸へ近づくと、自分の顔が映った。
知らない老人が、ひどく怯えた顔をしている。
私はその老人から目を逸らし、戸を押した。
外の熱気が顔に当たった。
女性には何も言わなかった。言えば引き止められる。それではきっと、椅子へ座り直してしまう。
郵便局の前にいれば、息子に見つかりそうだった。道路は渡らず、商店街の方へ向かった。
八百屋の男は大根の葉を揃え、惣菜屋には昼より長い行列ができている。さっきと変わらない眺めだった。私はその間を、できるだけ急いで歩いた。
ところが革靴が前へ出るたび、サンダルが遅れる。腰が左右へ揺れ、息ばかり荒くなった。
どこへ行くつもりなのだろう。
わからない。ただ、あの店から離れなければならなかった。
商店街の出口で振り返ると、もう文具店は見えなかった。少しだけ胸が楽になった。
何をそんなに恐れているのか、自分でも不思議だった。
親切にしてくれた女性には、申し訳ないことをした。電話まで貸してもらったのに、何も言わず出てきてしまった。あとで謝らなくては。
息子にも謝らなければならない。
だが、あの子には何と言えばよいのだろう。迎えに来てくれるのが嫌だなどと、口にできるはずもなかった。
また橋が見えてきた。
欄干は日に温められ、掌を置くと熱かった。向こうには柿の木のある家が見える。
橋を渡れば、また郵便局へ戻ってしまうのではないか。それならこちら岸にいればよいのだろうか。
郵便局、商店街、惣菜屋、橋。
覚えている道を順番に並べても、その先が続かなかった。まるで途中まで書いた帳面を、誰かに破り取られたようだった。
腹が空いていた。汗が首筋を流れ、川の水までうまそうに見える。
商店街の方から白い車が来た。
橋の手前で速度を落とした。後ろの扉の下に、黒い擦り傷がある。
見覚えがあった。
運転席の男がこちらを向いた。
息子だった。
間違いない。あの子の顔だ。
迎えに来てくれたのだと思い、片手を上げかけた。
その途端、胸を内側から掴まれたようになった。息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
手を下ろし、橋の脇の細道へ入った。車の通れない川沿いの道だった。背後でブレーキが軋んだが、振り返れなかった。
ブロック塀に手を擦りながら進んだ。右の革靴が先へ出ても、左のサンダルが追いつかない。自分の足が、まるで人の足のようにもどかしい。
どうしたのだろう。
あれは息子なのだ。
小さいころ、熱を出すたびに背負って病院へ走った。初めて自転車に乗れた日も、学校で賞状をもらった日も覚えている。
あんなにかわいがった息子が、迎えに来てくれた。
どうして私は逃げているのだろう。
角を曲がったところで、膝が折れそうになった。塀に背中を預け、息を整える。胸の辺りを押さえると、ポケットの中で紙が擦れた。
取り出すと、小さく折り畳んだ紙だった。古い封筒の裏に、何行も文字が書いてある。
私の字だ。
『昭夫へ。忘れてしまうから書いておく』
自分宛ての手紙だった。
おかしなことをするものだ。どうして自分に手紙など書いたのだろう。
続きを読んだ。
『白い扉は寝室の扉。外側に鍵がついている。昨夜、便所に行こうとして開かなかった。何度叩いても、息子は開けてくれなかった』
白い扉。
古い木製で、下の方だけ塗料が剥げている。
その取っ手を回す自分の手が浮かんだ。向こうで金属の鳴る音がする。
封筒を持つ指が強張った。
暗い部屋にいた。
何度叩いたか知れない扉へ、また拳を当てている。喉が渇き、便所にも行きたかった。指の関節が痛むのに、叩くのをやめられない。
向こうから息子の声がした。
「父さん、お願いだから寝てくれよ。もう朝になるんだぞ」
「開けておくれ」
「また外へ出るだろ。昨日だって車に轢かれかけたじゃないか」
「出ないよ。便所に行くだけだから」
「さっきもそう言ったんだよ」
鍵の向こうで、息子の足音が遠ざかった。
あの子は疲れていた。仕事があるのに、夜中まで私の面倒を見てくれていた。
だから、それ以上頼めなかった。
扉の前に座り込むと、床の冷たさがズボンを通して尻に染みた。朝になれば開けてくれる。今は我慢しよう。あの子を寝かせてやらなくては。
そう思いながら、明るくなるのを待っていた。
塀にもたれたまま、目を開けた。
夕日が道路の端まで差している。握りしめた封筒が汗で柔らかくなっていた。
思い出した。
今朝、息子が仕事へ出る前に鍵を外したのだ。それからどうにか家を出た。玄関で黒い革靴を履いたが、もう片方が見つからず、サンダルを引っかけてきた。
靴のことまで、やっとわかった。
封筒には続きがあった。
『息子は食事も作ってくれる。病院にも連れていってくれる。私が何度も外へ出るから、鍵をかけるしかないのだと言っていた』
『あの子をここまで疲れさせたのは私だ。それでも、もうあの部屋には戻れない』
『迎えに来ても、ついていかないこと。忘れたら、またこれを読むこと』
何度も読み返した。
自分の字だった。いつもより筆圧が強く、ところどころ紙が破れかけている。
これを書いたとき、私はよほど怖かったのだろう。
それなのに、息子の顔を思い浮かべると、玄関で靴を履かせてやった小さな子供の姿が重なる。片足を上げたまま私の腕にしがみつき、早くしろと催促していた、あの子だ。
あの子が、私を閉じ込めた。
帰ればまた鍵がかかる。
理由はわかった。それでも息子を悪く思うことが、どうしてもできなかった。できないまま、もうあの家へ帰ることもできないのだった。
遠くで車の扉が閉まる音がした。
封筒をポケットへ押し込み、塀に手をついて歩き出した。
川沿いの細道は、やがて大通りの下をくぐった。頭上で車が走るたび、コンクリートの天井から重たい音が降ってくる。壁には雨水の跡が黒く残り、足元を細い水が流れていた。
この道を通ったことがあるだろうか。
見覚えはなかった。
それでも振り返ったとき、橋が見えなくなっていたので、少し安心した。
地下道の先には知らない町が広がっていた。道路は太く、建物はどれも見上げるほど大きい。昔はこの辺りにも畑があったはずだ。いや、それは別の町だったかもしれない。
交差点で信号を待っていると、隣の若い女性が携帯電話で話していた。
「もう帰るから。ご飯、先に食べてて」
帰る。
私も帰らなくては。
そう思ってから、ポケットの封筒に触れた。
帰ってはいけないのだった。
まったく、ややこしいことになった。
信号が青になり、周りの人について横断歩道を渡った。渡り終えるころには息が切れ、電柱に手をついて休まなければならなかった。
左の踵がひどく痛む。
どうしてこんな靴を履いているのだろう。
見下ろすと、黒い革靴と茶色いサンダルだった。何ともみっともない。ズボンの裾を引っぱって隠そうとしたが、腰が痛くて手が届かなかった。
しばらく先に小さな公園があった。ベンチに腰を下ろすと、両脚が細かく震えていた。立っている間は気づかなかったのだ。
喉が渇いた。
水道が見えたが、あそこまで歩くのも億劫だった。休んでいれば、そのうち楽になるだろう。
胸ポケットにボールペンがあった。
いつ買ったものだろう。新品らしく、軸にはまだ値札の糊が少し残っている。
ポケットから封筒を取り出した。何か大切なことが書いてある。これは忘れないようにしなくては。
余白へ『帰るな』と書き足そうとした。
しかし、どこの家へ帰るなというのだったろう。
ペン先が紙に触れたまま止まり、黒い点を作った。
自分で書いたものなら、読み返せば思い出すはずだ。最初の行から目を通した。
『昭夫へ。忘れてしまうから書いておく』
昭夫。
私の名前だ。
その下には息子のことが書いてある。
そうだった。私には息子がいる。結婚して、子供を育てたのだ。
あの子はいま幾つになったろう。幼稚園に入ったばかりだったか。いや、小学校の運動会で転んで泣いていた。駆け寄って抱き起こすと、膝から血が出ているのに、まだ走ると言って聞かなかった。
あの子はもう、私より大きくなっただろうか。
封筒を畳んだ。
自分がなぜこんなことを書いたのか、よくわからない。けれど、いい加減なことを書いたりはしないはずだ。私は昔から、書きつけたことは守る方だった。
そう思って封筒をしまった。
公園の時計が六時を指していた。
夕飯の時間が近い。家では妻が何か作っているだろう。
今日は何を頼まれて出かけたのだったか。買い物袋を持っていない。何も買わずに帰ったら、また笑われるかもしれない。
いや、妻はもう亡くなったのだったか。
いつだったろう。
考えているうちに、公園の向こうを親子が通った。ランドセルを背負った男の子が、つないだ手を大きく振り回し、父親を困らせている。
いいものだ。
私の息子も、あんなふうだった。
いつかあの子と、また散歩をしたいものだ。
そう考えていると、何だか眠くなった。
目を開けると、公園は薄暗くなっていた。
いつの間にか眠っていたらしい。ベンチから立とうとしたが、腰が伸びない。膝に手をつき、どうにか身体を起こした。
何をしていたのだったか。
そうだ。
家へ帰るところだった。
母が待っている。
もう夕飯の時間だ。兄弟たちも帰っているだろう。私だけ遅くなったら、母が心配する。
早く帰らなくては。
公園を出ると、知らない建物ばかりだった。
こんなに大きな道路は、昔はなかったはずだ。畑がずっと続いていて、川には小さな橋が架かっていた。
どちらへ行けばよいのだろう。
道を尋ねようにも、家の住所が出てこない。困っていると、郵便局の赤い看板が頭に浮かんだ。
そうだ。あそこからなら帰れる。
郵便局の隣には、うちの柿の木がある。
母は毎年、柿が赤くなるのを楽しみにしていた。縁側に新聞紙を広げ、兄弟の分まで丁寧にむいてくれた。父は玄関の脇に大きな石を運んできて、泥のついた靴はそこで綺麗にしてから上がれと言った。
角の欠けた、少し平たい石だった。
私も運ぶのを手伝った。ずいぶん重かったが、父が一人前の働きをしたように褒めてくれたので、嬉しかった。
あの石は、まだ玄関にあるだろうか。
あるはずだ。
父は母が重いものを運ばずに済むように、わざわざあそこへ据えたのだから。
郵便局へ帰ろう。
行く場所が決まると、足も幾分軽くなった。やはり、道を知っているのと知らないのとでは大違いだ。
どれほど歩いただろう。
途中で雨が降り始めた。
街灯の下で道路が白く光り、歩道の端に水が溜まっている。足を踏み出すたび、左のサンダルへ水が入り、指の間まで冷たくなった。
どうしてこんな履物で出てきたのだろう。
母に見つかったら叱られるだろう。家へ帰れば靴下を替えてくれるし、濡れた足も拭いてくれる。
今日はずいぶん遠くまで遊びに来てしまった。
父にも叱られるかもしれない。
それでも家へ帰れるのだから、少しくらい我慢しなくては。
川沿いを歩いていると、見覚えのある大通りへ出た。
向こうに郵便局の赤い看板がある。
よかった。あそこだ。
車が何台も通り過ぎ、そのたびに泥水が跳ねて、ズボンの裾を濡らした。母に洗濯の手間をかけてしまう。
困ったことだ。
信号が青になるのを待って、郵便局の前へ渡った。
そこから角を曲がる。
白いマンションが建っていた。
おかしい。
ここにはうちの塀があったはずだ。塀の上から柿の枝が伸びていて、玄関の脇には父が据えた石がある。
家が見当たらない。
マンションの脇へ回ってみた。駐輪場には自転車が並び、屋根から雨粒が落ちている。
その奥の壁際に、石があった。
角の欠けた、少し平たい石だ。半分ほど土に埋まり、雨に洗われて、昔より色が黒くなっていた。
私は近づいて、石に手を置いた。
間違いない。
父が運んできた石だった。
ここだ。
石の向こうが、うちの玄関だった。
家はすっかり変わってしまったらしい。きっと父が建て直したのだろう。ずいぶん立派にしたものだ。
母はどこにいるだろう。
呼んでみようか。
「母さん」
声がうまく出なかった。
立ち上がろうと石に手をついたが、身体が持ち上がらない。膝も腰も痛み、濡れたズボンが脚に貼りついていた。
どうしてこんなに疲れているのだろう。
しかし、もう帰ってきたのだ。
ここまで来れば、あとは玄関へ入るだけでよい。
顔を上げた。
目の前に古い家があった。
黒ずんだ木の柱。少し傾いた雨樋。塀の上へ伸びた柿の枝。
玄関に明かりがついている。
ああ、やっぱりここだった。
間違えずに帰ってこられたのだ。
扉が開いた。
母が立っていた。
若いころの母だった。いつもの前掛けをして、濡れた手を拭いている。
「昭夫、どこまで行ってたの」
叱られるかと思ったが、母は足元を見て眉を寄せた。
「そんなに濡れて。早く上がりなさい」
家の奥から父の声がした。
「帰ってきたのか」
新聞を畳む音がする。座敷では兄弟たちが何かを言い合っていて、時々笑い声が上がった。
台所から茶碗の触れ合う音がした。
温かい米と味噌汁の匂いが、玄関まで漂ってくる。
私は手を伸ばした。
けれど、身体がうまく動かなかった。
母がこちらへ来た。
「どうしたの。そんなところに座って」
「……疲れちゃった」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
母は笑った。
「ずいぶん遊んできたんだね」
その声を聞くと、急に泣きたくなった。
今日は何か怖いことがあったような気がする。知らない男が、私をどこかへ連れていこうとしたのだ。
でも、もう思い出せない。
母が手を差し出してくれた。
握ろうとして、自分の手を見た。
ひどく皺だらけだった。
父の手より、ずっと年寄りの手に見える。いつ、こんな手になったのだろう。
母は何も言わず、その手を握ってくれた。
すると不思議なことに、立ち上がれた。
さっきまで痛んでいた膝も腰も、もう何ともない。
玄関へ向かいかけ、ふと振り返った。
石の脇に、知らない老人が座っていた。
雨に濡れた顔をうつむかせ、身じろぎもしない。
右は黒い革靴、左は茶色いサンダル。
ひどい履き方だ。家へ帰る前に、誰かが教えてやればよかったのに。
「おかえり、昭夫」
母が手を引いた。
「ただいま」




