第4話 聖域の瓦解
沙織の支えは、マッチングアプリで出会った「年収五億」を自称する男だった。
彼とのメッセージのやり取りだけが、隣室の美津子という毒に対抗する唯一の解毒剤だった。
「恵比寿のマンション? 狭くない? 今度、僕の白金のラウンジに来なよ」
その言葉を御守りのように抱きしめ、沙織は美津子を見下し続けた。私はまだ、上にいける。このだらしない女とは、住む階層が違うのだと。
しかし、運命の日は唐突に、無機質な画面の中で牙を剥いた。
デートの約束を取り付けようとした瞬間、画面に表示されたのは「このユーザーは退会済みです」という冷たい文字。
ブロックされた。
何度もメッセージを送り、電話をかけるが、応答はない。彼にとって沙織は、暇つぶしの数多いる「自意識の高い女」の一人に過ぎなかったのだ。
積み上げてきたジェンガが、一番下から崩れ落ちる音がした。
その直後だった。
ゴミ捨て場で、いつものようにスウェット姿の美津子と鉢合わせた。
「あら沙織さん、顔色が悪いわね。高い化粧品も、土台が腐ってちゃ意味ないわよ?」
美津子は、欠けた歯を見せてクスクスと笑った。
その笑い声が、沙織の脳内で何かの導火線に火をつけた。
「……あんたに何がわかるのよ!」
沙織は絶叫し、手に持っていた、三ヶ月分の給料をつぎ込んだバーキンを振り回した。重い革の塊が、美津子の肩を打つ。
「あんたみたいな、親の遺産で食いつないでるだけの寄生虫が! 努力もしてない汚い怪物が! 私を笑うな!」
沙織は正気を失っていた。
倒れ込んだ美津子を、鋭いピンヒールで何度も蹴り上げる。ルブタンの赤いソールが、美津子の古びたTシャツを汚していく。
怒号を聞きつけたコンシェルジュが血相を変えて駆けつけ、警察に通報する声が聞こえた。
美津子は無抵抗だった。ただ、地面に這いつくばりながら、慈しむような目で沙織を見上げていた。その目が、さらに沙織を追い詰める。
沙織はバッグから眉カット用の小さなハサミを掴み出し、美津子の肩口を突き刺した。
「死ね! 死ねばいいのよ!」
薄い皮膚を刃先が裂く。しかし、刃渡りは短く、致命傷には程遠い。
美津子は顔を顰めることもなく、滴る血を眺めてから、穏やかに言った。
「……危ないわよ。今回は外れたからいいけど、心臓だったら大変なことになっていたわ。沙織さん、あなたは本当に、加減が下手なのね」
その声は、叱責ではなく、まるで幼子をあやす母親のような響きを持っていた。
警察官たちが踏み込み、沙織の両腕を組み伏せる。
「離して! 私は悪くない! この女が、この女が私を!」
髪を振り乱し、完璧だったはずのメイクが涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった沙織を、美津子は座り込んだまま見送った。
「警察官の方、大袈裟にしなくていいのよ。彼女、ちょっと疲れているだけだから。私は被害届なんて出さないわ」
美津子のその「慈悲」が、沙織にトドメを刺した。
警察は現行犯逮捕を解かなかったが、美津子の態度は、沙織を「対等な敵」としてさえ認めていないことを示していた。
手錠をかけられ、パトカーへ連行されるエントランス。
そこには、かつて彼女が「自分と同等かそれ以上」だと認めていたマンションの住人たちが、冷ややかな、あるいは好奇に満ちた視線を送っていた。
彼女が何年もかけて築き上げてきた「エリートコンサルタント」「恵比寿の勝ち組」という薄い皮膜が、一瞬にして剥がれ落ち、中から惨めな、ただの「狂った女」が露出した。
「あ……あ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
明日には会社を解雇され、このマンションも追われ、ネットには「殺人未遂」の文字が躍るだろう。
見栄も、キャリアも、自尊心も、全てはあのゴミ捨て場に捨ててきた袋と同じ、ただの汚物になった。
パトカーの窓越しに、マンションの入り口が見えた。
そこには、傷口をハンカチで押さえた美津子が、憐れみの笑みを浮かべて満足げに手を振っている姿があった。
彼女は、これからゆっくりと時間をかけて、沙織が残した部屋の「後片付け」を楽しむのだろう。
沙織は、自分の膝の上に落ちた一筋の髪の毛を見た。
手入れを怠らなかったはずのその髪が、今はただの死んだ糸のように見えた。
(完)




