第3話 硝子(ガラス)越しの標本箱
このマンション「レジデンス・エビス・テラス」のコンシェルジュデスクに座っていると、住人たちの「裏側」が、頼まなくても見えてくる。
私はここで、彼らの虚栄心を丁寧にパッケージングして、笑顔で手渡す仕事をしている。
最近、私の密かな観察対象になっているのは、三階に住む二人の女性だ。
一人は三〇二号室の望月沙織様。絵に描いたような「努力の人」だ。毎朝、寸分の狂いもないタイトスカートを穿き、背筋を伸ばしてエントランスを通り過ぎる。彼女のヒールの音は、まるで自分自身を鼓舞する軍靴のようだ。
もう一人は隣室、三〇一号室の佐藤美津子様。こちらは「管理規約のバグ」のような存在だ。ボロボロのサンダルでふらりと現れ、共有スペースのソファで平然と週刊誌を読んでいる。
この二人、実は恐ろしく仲が悪い。
……いや、「仲が悪い」という言葉では生ぬるい。彼女たちは、互いの存在を餌にして、自らの自意識を肥大させている「共生関係」にある。
ある雨の日だった。
沙織様が帰宅された際、エントランスで美津子様と鉢合わせた。
沙織様は、美津子様が手に持っていたコンビニのレジ袋を一瞥し、それから自分の腕に下げたバーキンのハンドルを、白くなるほど強く握りしめた。
その瞬間、沙織様の口角がわずかに上がったのを、私は見逃さなかった。
「ああ、今日も勝ったのね」
彼女の背中がそう語っていた。
一方で、美津子様の方はもっと質が悪い。
彼女は沙織様が通り過ぎる際、わざとらしく鼻をクンクンと鳴らし、それから私に向かって、聞こえるような声でこう囁くのだ。
「コンシェルジュさん、最近、廊下がなんだか『焦げた匂い』がしない? 必死に何かを燃やしているような、嫌な匂い」
沙織様の背中が、一瞬だけ硬直する。
私は営業用の笑みを浮かべ、「確認しておきます」と答える。実際には、匂いなどしない。あるのは、剥き出しの殺意に近い執着だけだ。
興味深いのは、彼女たちの郵便物だ。
沙織様宛には、毎日のように高級エステの案内や、督促状まがいのクレジットカードの明細が届く。彼女の「完璧」を維持するためのコストが、限界を突破しているのは明らかだ。
対して美津子様には、時折、差出人のない分厚い封筒が届く。彼女がそれを受け取る時、その指先は驚くほど滑らかで、隠しきれない育ちの良さが漏れ出している。
先週の深夜、私はモニター越しに見てしまった。
誰もいないエントランス。沙織様が、美津子様の部屋のドアの前に立ち、じっと動かずに数分間、ドアノブを見つめていた。
彼女の手は震えていた。ノブに手をかけようとしては、思い直したように引っ込める。その姿は、まるで麻薬の誘惑に耐える中毒者のようだった。
そして次の瞬間、内側からドアがわずかに開いた。
中から美津子様が、あの「欠けた歯」を見せて笑い、何かを差し出した。……それは、以前彼女が拒絶したはずの、あの高級クリームの空き瓶だった。
沙織様は、それをひったくるように奪うと、逃げるように自分の部屋へ消えていった。
その直後、モニターに映る美津子様が、カメラのレンズをじっと見つめて、優雅に一礼した。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
美津子様は知っているのだ。私が見ていることも、沙織様が壊れかけていることも。そして、その全てを「演出」して楽しんでいることも。
このマンションは、外から見れば洗練された成功者の城だ。
けれど、その実態は、硝子張りの標本箱に過ぎない。
一人は、自分を美しく見せるために内側から腐っていく蝶。
もう一人は、その蝶がもがく姿を、安全な場所から観察して愉しむ蜘蛛。
「おはようございます、沙織様。今日も一段とお綺麗ですね」
翌朝、私はいつものように挨拶をした。
沙織様の目の下には、厚いコンシーラーでも隠しきれない隈があった。彼女は答えず、無機質な視線を私に向けた。その瞳は、もう、生きた人間のそれではない。
私は思う。
次にこの箱の中で何かが弾ける時、私はそれをお掃除するだけでいいのだろうか。
……それとも、もっと近くで、その「グロテスクな破滅」を鑑賞させてもらうべきだろうか。




