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聖域の隣人 ―硝子越しの標本箱―  作者: はまゆう


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第2話 聖域の剥製(はくせい

 このマンションの壁は、防音性に優れているというのが売り文句だが、実際には「耳を澄ます側の意志」次第で、隣人の生活など透けて見える。

 隣の302号室――自称「選ばれた女」の沙織さんが、今朝も五時ちょうどにアラームを止めた音が聞こえた。

 ズズッ、ズズッ。

 私は古い革張りのソファを引きずり、壁際に寄せた。この位置が一番、彼女の「努力の音」がよく聞こえるのだ。スムージーを作るミキサーの回転音、意識の高さが滲み出るようなヨガマットを広げる摩擦音。

 私は、昨日コンビニで買った賞味期限切れのナポリタンをフォークで巻き取りながら、その音に耳を傾ける。

「……ふふ、今日も頑張ってるわね、沙織さん」

 彼女は私のことを、相続だけで生きてきた「だらしない怪物」だと思っている。ゴミ捨て場で会うたび、彼女の鼻筋がわずかにピクリと動く。軽蔑を隠そうとして隠しきれていない、あの若さゆえの傲慢な表情。あれを見るのが、私の密かな愉しみだ。

 彼女は知らないのだ。

 私がわざわざ首の伸びたTシャツを着て、彼女の出勤時間に合わせてゴミを捨てに行く理由を。

 彼女のような「完璧主義の自意識過剰」にとって、私のような存在は、自分の正しさを証明するための「比較対象」として必要不可欠だ。私は、彼女に「私は彼女よりマシだ」というささやかな優越感を与えてあげている、ボランティアのようなもの。

 でも、本当の滑稽さはその先にあった。

 ある夜、私が銀座の馴染みの店へ向かおうと、一張羅のシャネルを纏い、髪を完璧にセットして裏口から出たとき。

 気配を感じた。

 曲がり角の陰に、必死に身を潜める彼女の影。

 ……つけてきている。

 私は、笑いをこらえるのに必死だった。

 彼女は自分のことを「冷静な観察者」だと思っているようだが、その実、私という「謎」に食いつき、私という毒に侵され始めている。

 私はわざと彼女に見えるように、政界の知人との待ち合わせ場所を選んだ。彼との会話なんて退屈極まりない。けれど、物陰で唇を噛み締め、絶望と嫉妬に震える彼女の気配を感じるだけで、その夜の酒は最高に美味くなる。

「沙織さん、あんなに顔を真っ赤にして。せっかくの高級ファンデーションが浮いちゃうわよ」

 数日後のエレベーター。

 私はわざと、彼女が一番屈辱を感じるであろう「憐れみ」を込めて、高級クリームを差し出してみた。

 彼女の目は泳ぎ、声は震えていた。

「……結構です」

 その拒絶の言葉は、まるで「私は負けました」という白旗のように、私の耳には心地よく響いた。

 彼女は、自分が努力して手に入れた「武装」が、私という異物によって剥がされていくことに耐えられないのだ。

 彼女が鏡の前で自分の顔を呪い、クレンジングでプライドを洗い流している間、私は暗い部屋で一人、彼女の生活の音を「鑑賞」する。

 ズズッ、ズズッ。

 またソファを動かす。彼女の寝返りの音、深い溜息。

 彼女は私を「底なしの闇」だと思っているようだが、違う。

 私はただ、彼女という美しい「剥製」が、自意識という重みでゆっくりと自壊していく過程を見守っているだけ。

 明日もまた、彼女は五時に起きるだろう。

 そして、私の存在という毒を全身に浴びながら、必死に「正解の自分」を演じ続けるのだ。

 その無意味な努力、その出口のない絶望。

 それこそが、私の乾いた人生を潤す、最高の娯楽なのだから。

「おやすみなさい、沙織さん。明日の朝、またゴミ捨て場で会いましょうね」

 私は暗闇の中で、欠けた歯を見せて、誰に見せるでもなく優雅に微笑んだ。

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