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聖域の隣人 ―硝子越しの標本箱―  作者: はまゆう


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第1話 聖域の隣人

 恵比寿駅から徒歩十分。緩やかな坂を上った先にあるそのマンションは、周囲の喧騒を遮断するように厚い石壁に囲まれている。エントランスに足を踏み入れるたび、私は自分が「選ばれた側の人間」であることを確認し、安堵の溜息をつく。

 私の名前は沙織。外資系コンサルティングファームで働き、それなりの収入と、それに見合った「武装」を身に纏っている。

 しかし、この平穏な私の聖域に、一年前から「おり」のような存在が紛れ込むようになった。

 隣室の住人、佐藤美津子。

 彼女は、この界隈にはおよそ似つかわしくない女だった。年齢は四十代後半だろうか。いつも首の伸びきったTシャツに、膝の出たスウェットを穿いている。髪は手入れもされず、白髪が混じったまま後ろで無造作に束ねられている。

 何より許せないのは、彼女がこの高額な家賃のマンションに、私と同じ資格で住んでいるということだ。聞けば、彼女は地主の親からこの一室を相続したのだという。

「努力」という言葉を知らず、ただ血筋という幸運だけで私の聖域に居座る怪物。

 ある火曜日の朝、ゴミ捨て場で彼女と鉢合わせた。

「おはようございます、沙織さん。今日もバリバリお仕事?」

 美津子は、欠けた歯を見せて下品に笑った。彼女の持つゴミ袋からは、コンビニ弁当の空き容器が透けて見える。私は鼻をつく揚げ物の油の匂いに顔を顰め、無言で会釈だけして立ち去った。

 私の心の中には、常に「はかり」がある。

 容姿、学歴、年収、バッグのブランド、そして「どれだけ自分を律しているか」。

 私は毎朝五時に起き、ヨガをし、スムージーを飲み、寸分の狂いもないメイクを施す。それは、この醜悪な世界で踏みつけられないための儀式だ。対して美津子はどうだ。彼女はただ、生を垂れ流している。そのだらしなさが、私の積み上げてきた努力を嘲笑っているように感じてならない。

 その日の夜、残業を終えて帰宅すると、隣の部屋から奇妙な音が聞こえてきた。

 ――ズズッ、ズズッ。

 何かが床を引きずるような音。そして、低く、湿ったような笑い声。

 私は壁に耳を押し当てた。心臓の鼓動が早くなる。嫌悪感と同時に、抗いがたい好奇心が首をもたげた。『グロテスク』の主人公が、妹やクラスメイトを観察してはその欠落を愛でたように、私もまた、美津子の「底」を覗き込みたいという欲求に駆られたのだ。

 翌週、私は行動に出た。

 美津子が外出する隙を狙い、彼女の玄関前に落ちていた郵便物を拾い上げたのだ。それは公共料金の督促状だった。

「……あら、お金がないのね」

 口角が上がるのを止められなかった。不動産という資産はあっても、現金がない。彼女の生活は、内側からボロボロに崩れているのだ。私はその事実を栄養にして、自分の正しさを再確認した。

 しかし、観察を続けるうちに、奇妙なことに気づき始めた。

 美津子は時折、深夜に正装をして出かけていくのだ。いつもの汚い格好ではない。私が数ヶ月の給料を貯めてようやく手に入れたものと同じ、あるいはそれ以上のクラスのブランド服を身に纏い、完璧な夜会巻きで、別人のような気品を漂わせて。

 私は彼女の後をつけた。

 タクシーは銀座の路地裏で止まった。彼女が入っていったのは、看板もない会員制のバーだった。私は一時間ほど外で待った。

 出てきた美津子の隣には、中年の紳士がいた。どこかで見覚えがある。……政界の大物だ。

 美津子は彼の腕にすがり、少女のような笑みを浮かべていた。その顔には、朝のゴミ捨て場で見せる下品さなど微塵もない。代わりにあったのは、冷徹なまでに計算された「女」の武器だった。

 私は震えた。恐怖ではない。屈辱だ。

 私は必死に働き、規律を守り、自分を磨き上げて、ようやくこの場所の「末席」を確保した。しかし、彼女は……。彼女は昼間、わざと「底辺」を演じることで、夜の闇で振るう権力を隠蔽していたのだ。あるいは、あの汚い姿こそが、彼女にとっての「休息」で、私のような必死な女を嘲笑うための仮装に過ぎなかったのか。

 数日後、エレベーターで二人きりになった。

 美津子はいつものスウェット姿で、私にこう言った。

「沙織さん、あんまり根を詰めると、肌が荒れちゃうわよ。ここの保湿クリーム、いいわよ。余ってるからあげようか?」

 差し出されたのは、数万円もする高級ブランドのクリームだった。

「……結構です」

 私は絞り出すように言った。

 鏡に映る自分の顔を見た。完璧なメイクの下で、私の顔は疲弊し、憎悪で歪んでいる。対して美津子の肌は、手入れされていないはずなのに、どこか瑞々しく、余裕に満ちている。

 私は気づいてしまった。

 私が必死に守ろうとしている「聖域」は、彼女にとっては単なる「遊び場」に過ぎないのだということに。

 私は、自分が美津子を観察しているつもりでいた。しかし、実際には彼女の巨大な鏡の中に閉じ込められ、自分のみすぼらしい自意識を晒し者にされていたのは、私の方だったのだ。

 部屋に戻り、私は鏡の前でメイクを落とした。

 クレンジングで剥がれ落ちていくのは、私のプライドそのものだった。

 隣の部屋から、またあの音が聞こえてくる。

 ――ズズッ、ズズッ。

 それは、私の心が、現実という床に擦れて削れていく音のように聞こえた。

 私は明日もまた、五時に起きるだろう。スムージーを飲み、鎧を纏うだろう。

 そうしなければ、私は隣室の住人が吐き出す濃厚な「生」の臭いに、飲み込まれて消えてしまうからだ。

 東京の夜は静かだ。しかし、この壁一枚隔てた向こう側には、私を食い尽くそうとする底なしの闇が、確かに口を開けて待っている。

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