73:『りーちゃんより』
ルシナは、強烈な頭痛とともに目を覚ました。
見慣れない天井に、違和感を覚える。
「あれ……ここは……」
窓から差し込む光がきらきらと反射している。
微かに、革とコーヒーの香りが漂っていた。
「起きた?」
足元から、穏やかな声が聞こえる。
「えっ……ルキ?」
「おはよう」
「お……おはようございます!」
ルシナは、痛む頭で昨夜の記憶を必死に探る。
(大失態した……?それとも、朝チュン……?)
起き上がって、流れるように四つん這いになると、頭を下げた。
「ご、ご迷惑をおかけしました……すみませんでしたぁ……」
ルキは、頭を下げるルシナに困りながらも、顎にそっと手を添え、顔を上げさせる。
「何も迷惑なんてかけられてないよ。可愛かったし」
(可愛かったって、私何したの?)
ルキはそのまま、ルシナの頬に軽くキスをした。
それから水を渡し、テーブルに卵焼きとパン、野菜スープを並べる。
「食べられそう?」
「……二日酔いが……」
「じゃあ、スープだけでも食べて」
「……うん、ありがと」
ルキの向かいに座ると、スープを飲む。
優しい味が、そっと胃に染みていった。
(……アルコール、弱くなったのかも)
ルシナは、これからは流美の時のペースで飲むのはやめようと、そっと決めた。
「今日もカフェが終わる時間に行くよ」
「うん、ありがとう」
*****
朝帰りもせず、そのままカフェに出勤したルシナは、少しだけ気まずさを感じていた。
「おはようございます」
「おはよう……あら?」
セイラはにやりと笑う。
「昨日は飲み会だったんでしょう?楽しかった?」
「……はい……たぶん……」
「多分?」
「……早々に酔っ払ったらしくて、あまり覚えてなくて……」
ルシナは手をもじもじさせながら、ぽつりとつぶやいた。
「ふふふ……まあ、ルキたちがいたなら、大丈夫ね」
セイラは、深く聞くこともなく微笑んだ。
でも、その目は、揶揄うように光を帯びていた。
***
カフェの仕事も一段落し、閉店も近づいた頃、コハナがやってきた。
「あら?コハナ珍しいわね。どうしたの?」
「コーヒー、飲みにきた」
コハナはそうつぶやくと、カウンターの席に座る。
「パン屋の仕事はもう、終わったの?」
「うん」
ルシナはコーヒーを淹れると、カウンターにそっと置いた。
「そうだ、コハナが作ってくれた栞、大切に使わせてもらってるわ」
セイラが微笑む。
コハナは小さく頷くと、目を細めた。
「白い花の小瓶、ルシナもありがとう。あまりにもきれいだったから、妹に送ったの。よかったかしら?」
「もちろんです……妹さんも、喜んでもらえると嬉しいです」
「……ええ……そうね。きっと……喜んだと思うわ」
ルシナは、セイラのその笑顔に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
(セイラさん……?)
ルシナが声をかけようとした、その瞬間——
カフェの扉が、勢いよく開いた。
「まだやってる〜?」
カイが扉を大きく開けて入ってくる。
その後ろで、ルキが静かに扉を閉めた。
「あらあら、今日はみんな揃ったわね。アンナは?」
セイラは、閉まった扉を見つめたまま聞く。
「今日は仕事〜。夜勤なんだ〜」
カイは、のんびりとした口調で答えた。
「そう……アンナも忙しいのね。あっ、でも昨日はみんなで食事したのよね。少しは発散出来たのかしら」
「うん!楽しかったよ!なっ、ルキ!」
カイは、ニヤけながらルキに同意を求めた。
「あぁ……そうだな」
ルキは、酔ったルシナを置いていったカイを、少しだけ睨みながら答えた。
「ルシナが酔っぱらってさ〜。ルキん家泊まるって言い張ってさ〜。面白かったよ〜、あれ」
「え!!……私、そんなこと言ってたの?」
「覚えてないの〜?……んで、ルキん家泊まったの?」
悪気の一欠片もない、陽気なカイの発言に、
その場の空気が、ぴたりと止まる。
コハナが、ぽつりと呟く。
「……ルシナ、昨日帰ってこなかった」
「あらあら……そういうこと……」
セイラは、ふふっと笑うと、ルシナに視線を向けた。
「あ……あの、はい、気づいたらルキの部屋に居ました……」
「……ルキ、まさか?」
セイラは、ルキに疑いの目を向ける。
「いや……さすがに、酔ったルシナに……その……」
ルキは、首をぶんぶん振って否定する。
「……?ルキ、どうしたの?」
ルシナは首を傾げる。
「……いや、何でもないよ……」
「え〜なんだよ、俺てっきり……」
カイが何かを言いかけたが、カイの脛に、ルキの蹴りが入った。
「いってぇ!……なんだよルキ!」
「おまえは、余計なこと言うな!」
ルキは、カイの頭を掴むと、指先に力を込める。
「うぎぎぎぃ〜、ルキやめて〜、もう喋らないから〜」
「あははは」
セイラは、お腹を抱えて笑う。
ルシナは、久しぶりにこんなふうに笑うセイラを見た気がした。
その様子を、コハナは無表情で見つめていた。
激甘ミルクティーと、ブラックコーヒーをカウンターに置くと、それぞれの会話が、ゆるやかに始まる。
(こうして、このメンバーが集まったのも、久しぶりな気がした)
メンダヴォル。
魂の選択。
ルキへの告白。
そして、完成したボルドーのハイヒール。
ルシナは、たくさんの想いを重ねてきたことに、ふと気づく。
「もう、閉店にしましょう。みんなはこのまま、話をしていていいわよ」
そう言って、セイラは店の扉に『閉店』の札をかけるため、カウンターから出る。
そのタイミングで、控えめにカフェの扉が開いた。
郵便屋のマーリンが、申し訳なさそうな表情で顔を出した。
「セイラさん、すみません。一通だけ、お渡ししそびれてしまって……」
マーリンは頭を下げ、パステルカラーのファンレターを差し出す。
「この時間に、わざわざ届けてくださったの?ありがとう。この時間はリーリエとの時間って仰っていたのに……ありがとう」
セイラは、ファンレターを受け取る。
「本当に、申し訳ない……では、私はこれで……」
マーリンはもう一度ぺこりと頭を下げると、静かに扉を閉めて去っていった。
セイラは、『閉店』の札をかけ、ファンレターに視線を落としながら、カウンターへ戻ってくる。
―はずだった。
セイラの動きが、ピタリと止まり、指は震えている。
パステルカラーのファンレターは、『りーちゃんより』と書かれており―
うさぎのスタンプに、手書きで星が三つ加えられていた。
「セイラ……さん?」
セイラの手の震えが、大きくなる。
「…………あぁぁぁぁ」
声にならない叫びが、セイラから漏れてくる。
セイラの視線が、ルキに向けられる。
「ルキオ……、ジャスミンが……」
何かが、壊れる―
そんな響きに似ていた。




