65: 誰かと踊る前に……
カフェの営業が再開して、十日が経った頃には、町は以前と変わらない賑やかさを取り戻していた。
過剰な噂話もなく、平穏な日々が続き、ルシナは安心して町に出ることが出来るようになってきた。
ブレンダのパン屋には、新商品が並ぶ。
カイの薬草屋には、メンダヴォル対策用の薬草が並んでいるが、売れてはいないようだった。
ミュリーの花屋は、彩り豊かな花が並んでいる。
ルシナは、まだルキに会えていない。
仕入れから帰ってきていると聞いていたのに、店の奥に引きこもっているらしい。
「会いたいな……」
小さな呟きは、白い息となって静かな空気に溶けていった。
セイラから任される仕事も増え、今ではほとんどの仕事をこなせるようになっていた。
それでも、どこか落ち着かない気持ちは残っていた。
(本当にメンダヴォルは落ち着いたのかな……)
曇り空は、ルシナの心を晴らしてはくれなかった。
「ルシナ、コーヒーとサンドイッチをマージさんに持っていってくれる?」
「はい!」
——それでも、カフェでの日常は続いている。
「町もだいぶ落ち着いてきたな……飲み屋も始まったし、嫌な噂も聞かなくなったし」
マージはルシナからコーヒーを受け取ると、ぽつりと話し始めた。
「まだ、みんな遠慮がちだけど、この距離感でいいのかもしれないな」
その表情は、どこか寂しげだった。
「言いたいことが言えないのも……なんだかなぁ」
「そうですね。みんな笑顔ですけど、前と少し違いますね」
「あぁ、そうだな……言いたいことを控えても、解決しないこともあるからな。きっと、ばあ様たちも、同じ思いをしてきたんだろうな……」
マージはコーヒーを飲むと、「ありがとな」とルシナにチップを渡した。
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
ルシナは笑顔で一礼し、マージの席から離れる。
その頃——
セイラはマーリンから、一通の手紙を受け取っていた。
「セイラさん、今日はその一通だけです。では、良い一日を!」
マーリンは、パステルカラーの封筒を渡すと、そのまま次の配達へ向かっていった。
セイラは、『りーちゃん』からのファンレターを手に取ると、歩きながら何気なく表裏を確認する。
うさぎのスタンプ。
その隣に、手書きの星がひとつ。
セイラの歩みが、ピタリと止まった。
「ルシナ、少しお店を任せてもいいかしら?ちょっと裏で休ませてほしいの」
セイラは、いつもと変わりない笑顔を浮かべながら、ルシナをまっすぐ見つめた。
「……はい!分かりました。……セイラさん、大丈夫ですか?」
「えぇ……大丈夫よ。ちょっと立ちくらみがしてね。少し座れば良くなると思うから……悪いけど、お願いね」
そう言うと、セイラは静かにバックヤードへ入っていった。
「セイラちゃん、疲れが出たか?休業中でも、遅くまで灯りついてたからな」
マージはバックヤードの扉を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。長居をすればルシナの負担になるだろうと、静かに席を立ち、カフェを後にした。
セイラは、バックヤードで『りーちゃん』からのファンレターの封を開けると、静かに目を通す。
そして、深く、ため息をつく。
「状況は変わらず……」
セイラは、目をきつく閉じたまま、しばらく動けずにいた。
***
店内の客がひと巡りした頃、セイラはバックヤードから出てきた。そして、何事もなかったかのように、いつもの笑顔でコーヒーを淹れ始めた。
「セイラさん、もう大丈夫ですか?もう少し休んでいても大丈夫ですよ」
「大丈夫よ。少し休んだら、立ちくらみも良くなったから……。ルシナこそ、少し休憩してきたら?一人で大変だったでしょう」
「私は大丈夫です!もっと私を頼ってください!」
ルシナが胸をトンッと叩くと、セイラは眉を八の字にして、控えめに笑う。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……あのテーブルのお客さんたちのオーダーを伺ってきてくれるかしら?」
「はい!お任せください!」
ルシナの明るさに、セイラは眩しそうに目を細めて笑う。
(その明るさが、羨ましくて……妬ましい)
セイラは視線を落とし、爪を弾いた。
(今日は、やけにルシナの明るい声が胸に響く……ダメね、私)
セイラは、表情を変えないまま接客を続けていた。
客足が徐々に少なくなり、営業終了の時間が迫っていた。
「そろそろ、お店を閉じましょうか」
セイラはルシナに声をかけると、二人で静かに閉店準備を始めた。
カフェの扉がそっと開き、冷たい風が店内に流れ込む。
そこには、靴箱を抱えたルキが、穏やかな笑顔を浮かべながら立っていた。
「ルキ!」
ルシナの声が、わずかに弾む。
「ルシナ、久しぶり。何度か店に来てくれてたみたいだね。ごめん……顔を出せなくて」
ルキはルシナに近づくと、指先でそっと頬に触れた。
「できたんだ……ハイヒールが。いち早く見せたくて」
ルキは靴箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと開いた。
そこには、ボルドーのハイヒールが収められていた。
深みのある赤。
ヒールからつま先へと流れる曲線は、思わず目を奪うほど美しかった。
「あれ?きらきらした飾りがついてる?」
「あぁ……ビジューをつけたんだ。ルシナに似合うと思って」
細やかに光を放つビジューが、ヒールと履き口に丁寧に配置され、ボルドーのハイヒールは、いっそう美しく輝いていた。
「それを仕入れに出かけていたのね……」
セイラはハイヒールに視線を落とすと、妖艶に微笑んだ。
(えっ……わざわざ、このために?)
ルシナがルキを見つめると、ルキは少しだけ照れたように、視線を外した。
「セイラ……それは言わないでくれ」
「ふふ……いいじゃない。そのビジュー、ルシナのために、王都まで買いに行ったんでしょ?……言わないと伝わらないわよ?」
「……ルシナに合うビジューを、どうしてもつけたくて」
ルキはまっすぐルシナを見つめ、ボルドーのハイヒールを取り出し、そっと手渡した。
「素敵……このハイヒールを履いて……」
ルシナは、崖上小屋にあるシンプルなハイヒールを思い浮かべていた。
手の中には、装飾の美しいボルドーのハイヒール。
眺めるだけでも、うっとりしてしまう。
「それを履いて、俺と踊ってくれませんか?」
ルキはルシナの手の上のハイヒールを、そっと足元に置く。片膝を床につけると、ルシナの手を取った。
(他の誰かと踊る前に……俺と……)
ルキの瞳に、わずかに熱が宿る。
「……はい」
ルシナは、突然のダンスの誘いに戸惑いと、胸の高鳴りを感じながら、すぐに返事をしていた。
(ルキの視線から逃れられない……)
ルキはルシナをそっと椅子に座らせ、ハイヒールを丁寧に履かせた。
(……ルキ、どうしたの?どうしよう。ドキドキしてきた)
ハイヒールは、少しきつめではあるが、履いているうちに馴染んでちょうど良くなりそうだ。
インソールのクッションが足首の負担を和らげていた。
立ち上がると、ルキの顔との距離が、いつもより近くなる。
「踊るなら、この場所を使いなさいな……もう閉店だし」
セイラがテーブルをずらすと、わずかな空間が生まれた。
「そういえば、蓄音機があったわね……」
セイラがバックヤードへ向かう間に、ルキはテーブルを動かし、さらにスペースを広げていく。
「えっ……えっ?」
ルシナは二人の動きについていけず、きょろきょろと視線をさまよわせた。
「蓄音機、持ってきたわよ。音楽流すわね」
セイラは、バックヤードから運んできた蓄音機に、針を落とす。
店内に音楽が流れ始めた。
「店の鍵はかけずに、そのまま出ていっていいからね。じゃあ……あとはごゆっくり」
そう言うと、セイラは静かにバックヤードへと姿を消した。
***
音楽が流れる店内には、ルキとルシナの二人だけがいた。
ルキはルシナの正面に立つと、胸に手を当てて一礼する。
ルシナもつられてスカートをつまむと、軽く膝を曲げて応えた。
二人は、手を合わせると、蓄音機から流れる音楽にのり、静かに踊り始めた。
息づかいが聞こえる程、近い距離。
絡み合う視線。
心臓の音がやけに大きく感じる。
踊りやすい足運びに、ルシナの思いは、大きくなっていった。
(ルキが好き……流美も、ルシナも。どちらも諦められない程に……)
音楽が鳴り終わるまで、ゆっくりと二人は踊り続けた。




