63: 静かな境界線
カイの店を後にすると、ブレンダから預かったリストからパンの配達の注文を聞いてまわった。
最後は、セイラのカフェだ。
店内は、コーヒーの香りがするものの、客はマージ一人だけだった。
「おっ……噂をすれば」
マージはルシナの顔を見ると、ニヒルに笑い、手を振る。
「マージさん、こんにちは!セイラさん、カフェ再開したんですか?」
「ルシナ、久しぶりね」
セイラは手をひらひらと振りながら、にこりと笑って、ルシナとコハナを迎え入れた。
「カフェはまだ再開していないけど、マージさんだけ特別にご招待しているの」
「そうだったんですね!……それで、噂って?」
「あぁ……ルシナちゃんが来てくれたら、またカフェも活気づくから、そろそろ連絡したら?って話をしてたんだよ」
マージは足を組み直し、軽くウィンクをした。
「わーありがとうございます!今日、久しぶりにコハナと町を回っていたんです。ブレンダさんのパンの注文を聞いて回りながらですけど」
「そうだったの……。それで、そのパンを抱えていたのね」
セイラはルシナが抱えているカゴを見ながら、納得したように頷いた。
「はい、セイラさん、マージさん。食べませんか?ブレンダさんの試作品で、感想も知りたいって」
「あら?いいわね。マージさんは、何を食べる?」
セイラは皿とトングを用意し、マージが選んだパンと自分の分を皿に乗せた。
マージはチーズがたっぷり混ぜ込まれたパンを選び、セイラはレモンの香りがするクリームパンを選んだ。
「チーズがたくさんあって美味いなー。パンの表面がカリカリなのもいい」
「レモンとクリームのバランスがいいわね!これも美味しいわ」
コハナは、二人の感想をメモを取る。
「ルシナはブラックコーヒーかしら?コハナは何を飲む?」
「私もコーヒー」
セイラはコーヒーをカップに注ぎ、カウンターにそっと置いた。
「町が動き出したみたいで嬉しいです。心なしか、皆さんの笑顔も増えましたね」
「あぁ。赤目の魔獣も倒されたし、町の変な噂も少なくなってきたしな……」
マージはカフェの外に目を細めると、コーヒーを一口飲んだ。
「まぁ……何人かはな。領主様の発令を聞かずに、噂を広めたり、特定の人を責め立てて回って……ヴォル化したみたいだな」
「……?ヴォル化って、噂の被害にあった人がなるんじゃないんですか?」
たしか、ミュリーは根も葉もない噂に苦しんで、ヴォル化になりかけていたはずだ。
「いいや……被害者も加害者もないさ。あれは、人の心の闇に住み着いて増殖するのさ。過剰な正義感、排他的思考、被害者意識、自傷思考……あげたらキリがないな」
マージは天井を見つめながら、ため息をついた。
「人との関わりを一時減らす……それだけでも、対策にはなるだろうから、領主様の発令も理にかなってたんだよ。どれも、誰かがその話に乗ったり、周りにいる大勢から感情をぶつけられるから、燃え上がるんだ」
「……それって、誰にでも起きる可能性があるってことですか?」
ルシナは、背筋が凍った。
誰かに罵られ、裏切られる……。
ぴくり、と足が痛んだ。
胸の奥が、きしむように悲鳴をあげる。
ルシナも、裏切られ、罵られ、足を切られた。
おそらく——。
その記憶は、箱の中に雁字搦めになって、深く沈んでいた。
セイラが爪を弾く。
小さな音が、悲痛な叫び声のように響いていた。
——だが、その音が聞こえていたのは、コハナだけだった。
「あぁ……。誰にでも。耐性の強弱はあるだろうけどな」
「そうね……正義感と優しさの使い方、ね」
「セイラ……さん?」
セイラの声に珍しく覇気がないことに、ルシナは違和感を感じた。
「まあ、何はともあれ赤目の魔獣は、自警団が倒したらしいから、明日にでも領主様から新しい発令があるだろう」
静かになったカフェの空気を打ち消すように、マージは明るく膝を叩いて立ち上がる。
「いやー酒が飲めるな!家で飲むと、かみさんが睨んでくるんだよ」
あはは、とマージは笑うと、セイラに銅貨を数枚、渡す。
「マージさん、飲み過ぎには注意してよ〜。道端で寝ちゃだめだからね」
セイラは、ふふっと揶揄うように笑い、銅貨を受け取ると、店の入り口まで見送る。
「ルシナちゃんも元気そうで良かったよ。じゃあ、また!」
マージは店を出ると、声をかけてきた町の人と話しながら、通りへと消えていった。
セイラはカウンターの中に戻ると、コハナにパンの発注書を記入させると、小さく、ため息をひとつついた。
「この町は伝承もあるし、メンダヴォルが襲ってこないと思っていたけど……そもそも、どこにでもいるのね」
「他の地域では、よくあるんですか?」
「よくはないけど、珍しくはないわね。人が多い方が、発生しやすいのかも……。この町の規模なら、コミュニケーションの制限だけでも効果があったみたいだし」
「赤目の魔獣を倒すだけで、解決って訳じゃないですよね?」
「そうね……まあ、町の機能が休んだままでも、どうにもならないのは事実よ」
「赤目の魔獣を倒したのは、自警団……じゃないですよね?」
「……カイに会った?」
「はい、ここにくる前に……」
「そう……。領主様が、自警団が倒したと言えば、自警団が倒したことになるのよ。私たちが踏み込めるものではないからね……この話はここまで……ね」
セイラは言葉を切ると、ルシナとコハナのカップにコーヒーを継ぎ足した。
「明日また、来てもらえる?マージさんが言っていたように、新しい発令があると思うの」
「わかった」
ルシナより先に、コハナは短く答えると、カゴの中のパンを食べ始める。
甘いリンゴのジャムが乗せられたパイ生地のパンから、ふわりと甘い匂いが漂っている。
「コハナ、明日からパン屋始まるんじゃない?」
ルシナが問いかけると、コハナは首を傾げたまま、ゆっくり頷く。
「ルシナが来てくれれば大丈夫よ。このあと、ブレンダさんに確認してみて」
「わかった」
セイラはパンを頬張るコハナを見て微笑むと、自分も同じパンをカゴから取り出して、ひと口かじった。
いつも品の良い仕草のセイラが、パンをそのままかじる姿に、ルシナは少し驚きながらも、カゴの中からレモンクリームのパンを取り出すと、同じように大きくひと口かじった。
甘いクリームの中に、爽やかな酸味が広がり、鼻に抜ける。
少しだけ、心が満たされる気がした。
「コハナ、どれも美味しくて、感想が“美味しい”だらけになりそうだね!」
そう言うと、コハナは目を細めて、静かにルシナを見つめ返した。
「そうだ、ルシナ。ルキの店には行った?」
「これから行こうかなって思ってて……」
「良かった……ルキ、今町を出てるの。仕入れに行くって」
「今、いないんですか?」
「えぇ……ルキが仕入れで不在っていうのも、珍しいんだけど……」
ルシナは一瞬、表情を曇らせ、がぶりとパンをかじった。
「ふふ……すぐに戻るわよ」
セイラは最後の一口を口に入れると、穏やかに微笑んだ。
コハナは、銀の腕輪をそっと撫でる。
ルシナを見つめて、静かに目を細めた。
それは、どこか安心感のある表情だった。




