45: 黒い火
「魔獣はね、ヴォル化した人間を食べて強くなるのよ」
セイラの声はよく通る。
静かな声なのに、恐ろしいほど耳に響いた。
セイラがカップをソーサーに置くと、珍しくカタカタと小さな音が鳴る。
「そんなことって……」
カイは青ざめながら、ルキとセイラを交互に見つめた。
重苦しい空気が流れる。
ルシナはふと、店内の隅に目を向けた。
先ほどまであった影は、気配を消していた。
(……? さっきまであったのに、なくなってる?)
セイラもルシナにつられて店内を見渡す。
いつもと変わらない店内。
ルシナが掃除した後は、いつも心地よい。
「セイラ……大丈夫なのか?」
独り言のような低い声で、ルキはセイラを見据えた。
「……何が、かしら?」
セイラは薄く形のいい唇を持ち上げ、妖艶に笑う。
その瞳は、冷たい。
「さぁ、明日は休息日ね。カフェもお休み。酒場もお休み。みんなゆっくりしましょ」
いつもの明るく優しい声で、セイラは微笑んだ。
「ねぇ〜それってイヤミ……? 俺、早朝から薬草取りなんだけど……」
じとっとした目で、カイがセイラを見上げる。
「ふふ……いいじゃない。アンナと一緒なんでしょ?」
セイラはカイの頭をぽんぽんと撫でる。
「デートだと思えば……ねっ」
ぱちりとウインクすると、カイは盛大にため息をついた。
「デートねぇ〜…あっでも、薬草取り終わったら、一緒にご飯食べれるか」
カイの声が少しだけ、元気になる。
「明日の休息日はルシナは、何か予定があるのか?」
ルキが体ごとルシナに向き直る。
「特に予定はないよ?」
コハナも仕事と言っていた。群生地にフーと散歩に行こうかなと思っていたが、必ず行かないといけない訳ではない。
「なら、足の採寸するか?靴の木型を作ろう」
「明日はルキも休息日じゃないの?」
その会話を聞いていたセイラが、くすりと笑う。
「あら、こちらもデートかしら?」
ルシナは一気に顔が熱くなる。
「えっ、あの……そうじゃなくて……」
『ルキのこと、好き?』
『ルキの作ったハイヒールを履いてダンスだなんて……ロマンティックじゃない?』
以前、セイラに言われた言葉を思い出し、ルシナの目が泳ぐ。
「セイラ、からかうなよ。前に作るって約束したんだ」
ルキはセイラを静かな目でたしなめた。
「ふふ……そういうことにしておきましょうか」
―――
明日の早朝から薬草取りがあるカイを、カフェの扉の前で見送る。
「ルシナはもう帰るのか?」
「うん。コハナと一緒に帰ろうと思うの。だから、これからパン屋に寄るつもり」
隣に立つルキを見上げ、ルシナは微笑んだ。
「そうか……。じゃあ、パン屋まで一緒に行かないか?」
そう言ってルキは、そっと腕を差し出した。
ルシナは一度ルキを見上げ、その腕に手を添える。
「ありがとう」
ルキは少し照れたように笑うと、前を向いて歩き出した。
その様子を、セイラは扉にもたれながら見守っている。
(ルキオ、ルシナを守りなさい……。そして……)
一度振り返ったルシナに、セイラは軽く手を振った。
(目を離さないで)
――――
パン屋までの道のりでは、ルキの話は尽きなかった。
どんなハイヒールがいいのか。
ボルドーのハイヒールと同じ形がいいのか。
ヒールの高さはどれくらいが歩きやすいのか。
採寸はどうやって行うのか。
木型はどんな形にするのか。
良い物を作りたいという情熱が、言葉の端々から伝わってくる。
ルシナは相槌を打ったり、希望を伝えたり、その度にルキの視線が絡み、胸が高鳴る。
パン屋の近くまでの距離が、短く感じる。
このまま歩き続けられたら――そんな思いが胸に浮かんだ。
やがて、ミュリーの花屋が見えてくる。
閉店の時間が近いからか、店先に並んだ花の数は少ない。
ミュリーの姿は、そこにはなかった。
いつもはきれいに飾られている花も、どこか元気がないように見える。
「……ミュリーさん?」
「どうした?」
「ううん……。なんでもない……」
パン屋に着くと、ブレンダさんが明るく迎えてくれた。
「あら、ルキにルシナちゃん。いらっしゃい」
「ブレンダさん、こんにちは。コハナ迎えに来ました」
ルシナがそっと、ルキの腕から手を離す。
その瞬間、ルキの表情がほんの少し寂しそうに揺れた。
「ルキ!何か買ってくかい?」
その様子を見ていたブレンダは、温かい眼差しで声をかけた。
「……そうですね。ハニートーストと、チョコチップクッキーを」
ルキはブレンダの視線から逃げるように、並んだパンの中からそれを選んだ。
「コハナ、お疲れ様。帰ろっ」
バックヤードから出てきたコハナに、ルシナが手を振る。
コハナはふっと目を細めた。
「ブローチ……。似合ってる。よかったね」
そう言って、無表情のままルキを一度見つめると、コハナはルシナの隣に立った。
「あぁ……。よく似合ってる。つけてくれてありがとう」
ルキはそう言いながら、ルシナの胸元のブローチにそっと触れる。
「私こそありがとう。お気に入りなんだ」
そう言ってルキを見上げると、
ルキはブローチに触れた手を口元に運び、照れたように俯いた。
「あらまぁ……。ふふふ」
ブレンダは穏やかに微笑む。
「じゃあ、コハナ。明日はゆっくり休んで」
ブレンダはバケットサンドをコハナに持たせると、手を振った。
「うん。ありがとう」
コハナは短く答え、ルシナたちと共に外へ出る。
少しだけ冷たい風が吹いた。
町は静かだった。
影もない。
それが、かえって不気味に感じられる。
影があることが、いつの間にか当たり前になってきている。
そのことが、ルシナの胸に重くのしかかり、不安を呼び起こした。
「じゃあ、また明日」
ルキに手を振るとコハナと並んで崖下へと向かう。
ルキは二人が見えなくなるまで静かに見送った。
―――
崖下に着くと、コハナがピタリと立ち止まり、銀の腕輪をそっと触れる。
「ルシナ、忘れ物した」
そういうと、町の方向を振り返る。
「忘れ物?一緒に行くよ。パン屋?」
「花屋」
コハナは短く答える。
「花屋?ミュリーさんの?」
「うん。フーのご飯。ミュリーがくれるって言ってた」
いつもの鶏肉は、ミュリーさんの愛犬もよく食べるものらしい。
コハナがフーのご飯を、ミュリーさんから買っていることを、ルシナは初めて知った。
「ミュリーさんって花以外も売ってるんだね」
「…… 」
ルシナの問いかけに、コハナは答えない。
やがて花屋が見えてくると、先程と変わらず店先に少しの花たち。そして、萎れて元気がない。
ミュリーの姿は、そこにはなかった。
店の奥から、ぶつぶつと話し声が聞こえる。
「違う……売ってない。薬草なんて……」
「隠してない……隠してない……」
「花しかない……花しかない……」
同じ声で、同じ言葉を、ずっと繰り返している。
「隠してない……隠してない……」
「花……はな……」
コハナは迷いなく店の中へ入ると、バックヤードの扉を大きく開けた。
黒い影が、もわっと広がる。
開け放たれた扉から入った風に煽られ、炎のように舞い上がった。
中は、萎れた花が散乱している。
その上に、ミュリーが座り込んでいた。
コハナは炎のような黒い影の中を、迷いなく突き進む。
「ミュリー?」
コハナが名前を呼ぶと、ミュリーは顔をあげる。
「はな……はな……」
その顔は能面のように青白く、目は充血していて赤い。
泣いているのか、頬に涙の跡が残っている。
黒い火はミュリーを焼き切るようにまとわりついている。
(なに……これ。黒い火……メンダヴォル……)
苦しんでいるミュリーを、すぐにでも助けたい。
けれど――
関わるのは危険だという本能が、足を止める。
体の右と左で、思いが違う。
助けよう――
逃げよう――
進め――
危険――
ルシナの頭と足が、急激に痛む。
めまいと吐き気が襲う。
助けよう――ミュリーを
逃げよう――コハナを連れて
それでも、私は――
ルシナは、飛ぶように滑るようにミュリーの側に移動する。
コハナは目を大きく開き、一歩、二歩と下がる。
黒い火に包まれたミュリーをルシナは抱きしめた。
黒い火はルシナが触れたところから、水蒸気のように飛散していく。
ルシナを避けるように……。
細かく形を変えて散っていく。
火は完全には消えない。
散った黒い火は、
部屋の隅へと集まり――
影となって、もそもそと、うごめいている。
(何が起きてるの?)
「うぅ…」
ミュリーが小さく唸り声をあげると、視線が合う。
「ルシナちゃん?……。私…」
ミュリーの顔に色が戻り、真っ直ぐにルシナを見た。
「なんだか、恐ろしい夢を見ていたみたいだわ」
そう呟くとミュリーは、そのまま倒れ込み意識を手放す。
部屋の奥で小さく震えていた、くるくるとした毛並の茶色い小型犬が、ゆっくりと様子を伺うように近寄ると、ミュリーの顔をペロリと舐めた。
花屋の外では――
黒い大型の狼が、ひっそりと佇んでいた。




