43: あまいのに、つめたい……
ルシナは耳にかかる息と、目に湿った感覚を覚え、ゆっくり目を覚ました。
「ぶへっ……やめ、やめてフーちゃん」
フーは満足したようにフスンと鼻を鳴らし、ベッドから降りていく。
小屋は少し肌寒く、スープの匂いがした。
コハナが朝食の用意をしている。
「コハナ、おはよう。今日は特に早いね」
「ちょっと眠れなかっただけ」
振り向いたコハナは、いつもと変わらない無表情だったが、どこか輪郭がぼんやりして見えた。
少し元気がない。
「大丈夫?」
「うん」
短い返事。
鍋をかき混ぜる音だけが、小屋に静かに響く。
ルシナはベッドから起き上がりながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
理由は分からない。
けれど――
言いようのない不安が、ふっと胸をかすめる。
ルシナはブンブンと頭を振り、頬を軽く叩いた。
「よし」
視線の先に、ボルドーのハイヒール。
ルキの作業場にもあった。
彼も眺めているのだろうか。
『前を向くための靴』
「大丈夫……なんとかなる」
そう言い聞かせるように呟く。
けれど胸の奥のざわめきは、完全には消えず、静かに残り続けていた。
「コハナ、私も準備するね」
器やスプーン、パン皿を並べる。
陶器が触れ合う、かすかな音。
コハナは頷くだけで、何も言わない。
いつもなら、もう少し目を合わせてくれるのに、今日は、それがない。
朝食はほとんど会話がなく、フーが鶏肉を食べる鼻息だけが、部屋に響いていた。
フスン。
フスン。
その音がやけに大きく感じられる。
ルシナは何気なく窓の外を見た。
空は、重たく曇っている。
朝だというのに、光はどこか鈍い。
「コハナ体調悪い?」
ルシナがコハナの目を覗くように見ると視線が一瞬合う。
「ううん。大丈夫…」
(大丈夫そうには見えないけど……。仕事やすませる?)
ルシナが声をかけようとすると、コハナはすくっと立ち上がり、フーの食器を片付ける。
皿を水で流しながら、コハナがぽつりと言った。
「……昨日」
水の音に混ざって、声は小さい。
「一緒に帰ったの、嬉しかった」
ルシナは一瞬きょとんとして、それから柔らかく笑った。
「私も楽しかったよ」
少し考えてから、自然に言葉が続く。
「じゃあさ、今日も一緒に帰ろうか」
コハナの指先が、ほんのわずかに止まる。
それから、小さく頷いた。
「うん」
曇った空の下、小屋の中だけが、わずかにあたたかい。
けれどその温度は、どこか儚かった。
―――
コハナと一緒に町に着くと、いつもと様子が違っていた。
自警団が見廻りをしている。
皆、武器を携え、厳しい目で周囲を警戒していた。
通りを歩く人々の声は、どこか抑えられている。
笑い声はある。
店も開いている。
けれど、会話の端々がひそひそと低い。
「……何かあったのかな」
コハナからの返答はない。
通りの向こうで、二人の男が言い争っていた。
「だから!!あいつが悪いんだよ!」
「お前、どうしたんだよ。何をそんなにイライラしてる?」
「イライラしてねーよ! あいつが!」
声はすぐに自警団に制され、小さくなる。
けれど、怒鳴り声の余韻だけが空気に残った。
大きな声に、体が強張る。
ルシナは無意識に周囲を見渡した。
――黒い影。
建物の隅に、ぞわぞわと溜まっている。
昨日より、明らかに多い。
怒鳴っていた男の足元にもまとわりつき、
炎のように揺れながら、黒く染め上げていた。
風が吹くと、生き物のように影が波打つ。
それは逃げるでも、消えるでもなく、ただ広がるように揺れた。
ルシナの胸が、どくん、と強く脈打ち、ざわめく。
理由は分からない。けれど、本能が何かを拒んでいた。
(……なんなの……あれは)
隣を歩くコハナを見ると、前だけを見て歩いている。
視線は一度も逸れない。
(コハナには……見えてないの?)
コハナはルシナの手を握ると、歩調を速めた。
引かれるように、ルシナも足を動かす。
ただその場から、直ぐにでも離れたくて、足の痛みも、痺れも構わず、飛ぶように、滑るように、足を動かした。
カフェに着くと、コハナはセイラにパンの注文を聞き、直ぐにパン屋へと向かおうとする。
「コハナ大丈夫なの?」
「うん。平気」
朝食時は、いつもより影が差していた。
けれど今は、いつもの無表情だ。
“だいじょうぶだよー”
“ぼくたち、ついてるのー”
妖精たちは相変わらず、コハナの周りを飛び回っている。
“るしな、またね〜”
明るい声。
軽い羽音。
小さな笑い。
その賑やかさが、かえって胸の奥をざわつかせる。
どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
ルシナは、自分でも分からないまま小さく息を吐いた。
「ルシナ、勤務時間増やしてくれてありがとう。助かるわ。コハナは体調悪いの?」
振り向くと、セイラがいつも通りの笑顔を向けていた。
きれいな髪を後ろで一つに束ね、落ち着いた所作で客にコーヒーを運んでいる。
「今日は、少し元気がない気がして……」
「そう?いつもと変わらないと思うけど……。体調悪そうだったら、ブレンダさんが休ませてくれると思うわよ」
「……そうだと良いんですけど」
ルシナは店内を見渡す。
何も変わらないはずの光景。
けれど――
今日は客の声が少し大きい気がした。
笑い声も、食器の触れ合う音も、どこか落ち着かない。
いつもなら静かな時間帯なのに、店内は思った以上に混み合っている。
椅子を引く音。
食器の音。
少し大きめの話し声。
落ち着かない空気が、ゆっくりと広がっていた。
「今日はなんだか、賑やかですね。すぐ支度しますね」
「ありがとう。お願いね」
バックヤードへ入る。
扉を閉めた瞬間、店内のざわめきが少し遠くなる。
ルシナは深く息を吸った。
エプロンを身につけ、髪をひとつに結ぶ。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。
なのに、どこか落ち着かない。
エプロンの上から、ボルドーのカーディガンを羽織る。
胸元に銀のプローチを留めると、かすかな冷たさが指先に触れた。
(大丈夫)
自分に言い聞かせるように、小さく頷く。
扉を開けると、ざわめきが一気に戻ってきた。
「今日はこの時間なのにお客さん多いですね。何かあったんですか?」
「昨日、酒場で乱闘騒ぎがあったの。自警団も出てきて大変だったみたい。酒場が閉められていて、話をしたい人が集まってるって感じね」
セイラは卵を焼きながら店内を見渡している。
サンドイッチやパンケーキのオーダーが入っており、忙しそうだ。
(早めに出てきてよかった……。セイラさん一人だったら大変だったかも)
「ルシナ、あの二人にコーヒーを運んでくれる?」
ルシナは「分かりました」と短く返事をすると、二人組のテーブルへコーヒーを運んだ。
カップを置きながら、自然と会話が耳に入る。
どうやら一人は、昨日の酒場にいたらしい。
「昨日さ、酒場でよ。隣国から来た奴が薬草を買い占めてるらしいって話してた奴がいたんだ」
「買い占め?」
「ああ。それ聞いて、たまたま隣国の奴が店にいてよ。そんなことしてないって、いきなり暴れたんだ」
聞いていた男は鼻で笑う。
「図星だったんじゃねぇの?」
「だよなー。俺もそう思うぜ」
「しかし、なんで薬草?」
「知らねーよ。まぁーなにか隣国で起きてるんじゃねーの?」
「まじか!この町のものがなくなるってこと、ねーよな?」
「分からねーぜ。早いとこ、確保しておいたほうがいいかもな」
その言葉に、ルシナの手がわずかに止まる。
雰囲気がーー
空気がーー
重い。
男の足元で、黒い影がじわりと広がる。
怒りは、そこにはない。
噂話を超えたざわめき――。
人の心に落ちた影が、静かに広がろうとしていた。
「コーヒーお持ちしました」
ルシナは胸の奥の緊張を飲み込み、笑顔でカップをテーブルに置く。
ふと足元を見ると、黒い影が、もそり、もそりと移動を始める。
「あぁ……ありがとう、ルシナちゃん」
客は、わずかに肩の力を抜いた表情を見せる。
「サンドイッチも出来ましたよ」
後ろから、セイラが美しく盛り付けられた皿を運んできた。
「もう、お父さんたち。酒場もいいけれど、たまにはカフェにも来てくださいな。嫌な噂話も、うちのサンドイッチを食べれば吹き飛ぶって評判なんだから」
大きな瞳を輝かせ、セイラは二人を見つめる。
「ね?」
ぱちり、とウインク。
妖艶な微笑みに、二人は思わず背筋を伸ばした。
先ほどまで足元にまとわりついていた影はすすっと形をかえる。そして、セイラの存在に照らされるように、薄くほどけていった。
それでも――
二人の会話を聞いていた別の客たちが、ひそひそと声を潜める。
「隣国って、何の話だ?」
「薬草、もう減ってるらしいぞ」
「自警団も動いてるって……」
小さな声。
その数はポツリ、ポツリと増えていく。
テーブルからテーブルへ。
椅子の影から影へ。
黒いものは消えていない……。
ただ形を変え、移動している。
ルシナの胸の奥が、また小さく脈打った。
(……この空気は何?何が起きてるの?)
それでも目の前の仕事に集中する。
ルシナが動くたび、影は、もそり、もそりと形を変えて動きだす。
ルシナはオーダーを受けたり、コーヒーを配る。
セイラはパンケーキを作り続けた。
やがて、一人、また一人と店を後にする。
「ありがとうござしました。また、お越しくださいませ」
ルシナが会計をしながら、丁寧に客を見送っていく。
まとわりついていた、黒い影はいつの間にか、薄くなり、客たちは笑顔で帰っていく。
それでもーーー
外に出るとまた、影は忍び寄る。
もそり、もそり動き出す。
カウンターの奥で、セイラが静かに視線を上げる。
ルシナは、店の隅を懸命に掃き掃除をしている。
(……始まったのね)
包丁の刃に映った瞳は穏やかに細められ、僅かに口角が上がっている。
その瞳は、甘いのに冷えていた。




