41: いつも通り……のはずなのに
セイラから勤務時間の延長を提案されたとき、ルシナは、自分の働きが認められたような気がした。
カフェの常連客とも、いつの間にか自然に話せるようになっていた。
フェスティバルですれ違ったとき、手を振ってもらえたことを思い出す。
この町に、少しずつ受け入れてもらえている――そんな気がして、胸の奥があたたかくなる。
給料が増えれば、コハナと美味しいものを食べに行ける。
欲しかったものだって、きっと買える。
そう考えるだけで、足取りが軽くなった。
明るい気持ちのまま町を歩いていると、焼きたてのパンの香りがふわりと漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けると、パンと溶けたバターの甘い香りが一層濃くなる。
奥から、パン屋のおかみさん――ブレンダさんが、元気な声で迎えてくれた。
「こんにちは」
「あら、ルシナちゃん。もう体調は大丈夫なの?」
「はい。あの、ありがとうございました。コハナが作ってくれたホリッジ、美味しかったです」
ブレンダは、人好きのする笑顔を浮かべる、ふくよかな女性だ。
「そうかい。風邪のときは、あれが一番さ。コハナは今おつかいに出てるけど、待つかい?」
「いえ、今日はお礼に……。寝込んでいるあいだ、コハナがそばにいてくれて、本当に安心したので」
そこまで言って、ふと足元に視線が落ちる。
小麦粉がこぼれたのだろうか。
店の隅の影が動いた気がした。
光の加減でそう見えただけかもしれない。
瞬きをすると、それはただの影に戻っていた。
「……?」
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
けれど、ブレンダの笑い声がそれを押し流した。
「それならコハナも喜ぶよ」
明るい店内。
焼きたてのパン。
いつも通りの温かい空気。
なのに、どこかに細い糸のような違和感が残っている。
理由は分からない。
分からないまま、ルシナはパンの香りを深く吸い込んだ。
「あの、パンを買いたいんですが、おすすめはありますか?」
ずらりと並ぶパンを見渡し、目を輝かせる。
ブレンダはいくつかのパンを指差しながら勧めていく。
「元気になって良かったよ。どれもおすすめだけど、人気があるのはこれだね」
屋台にも出していたハニートースト。
クロワッサンのサンドイッチ。
ふわりと甘いクリームパン。
それぞれ2個ずつ注文をした。
パンが包まれていく紙の音が、やけに心地いい。
「またおいで。コハナに友達がいて、私は嬉しいんだ」
少し涙ぐむブレンダに、ルシナは思わず笑った。
「また来ますね」
扉を開けると、外の空気は少しひんやりしている。
紙袋から漂う甘い香りが、胸の奥まで満ちていく。
――それなのに。
ほんのわずかに、肩が重い。
影がどうしても気になってしまう。
理由は分からない。
そこまで綺麗好きなわけでもないのに。
視界の端に入るたび、胸の奥がきゅっと縮む。見なければいいのに、つい目で追ってしまう。
考えすぎだと自分に言い聞かせながら、ルシナは小さく息を吐いた。
ーーーー
パンの袋を抱えながら、カイの薬草屋の店内に入る。
乾いた薬草の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
カウンターの椅子では、カイが腕を組んだままうたた寝をしている。
その頭を、浮かんでいた妖精が――
ぱしん。
「ん……? ……あっ」
目を開けたカイは一瞬ぼんやりと天井を見上げ、それからルシナに気づいて姿勢を正した。
「いらっしゃいませ。ってルシナか! 体調大丈夫? 風邪って聞いたけど」
「うん、もう平気。心配かけちゃってごめんね」
ルシナが笑って紙袋を差し出すと、カイは目を丸くする。
「え、なにこれ」
「お礼。パン屋さんに寄ってきたの。忙しい中、ハーブティー作ってくれたんだよね。ありがとう」
袋を開けた瞬間、甘い香りが店内に広がった。
「カイ、どれ食べたい?」
パンを見せると、カイはクリームパンを選んだ。
「これ、ブレンダさんのパンでしょ?おれ、これ好きなんだー。貰っていいの?」
目を輝かせてクリームパンを袋から出す。
「心配させてしまったお詫び。あと、フェスティバルお疲れ様」
カイは、嬉しそうに破顔した。
「そうなんだよー。あの後、食べ過ぎの奴だけじゃなくて、怪我人もいてさー、薬草の調合ばっかしてて、昨日やっと落ち着いたんだー」
いつも通りの間延びした話し方を聞くと、ルシナはなぜか安心した。
「だからさー、居眠りしてたの、内緒にしてくれる?アンナの耳に入ったら大変だからさっ」
頬を掻きながら、部屋の隅を見るカイに思わず笑ってしまう。
そのときーー
店の隅、干された薬草の影が、わずかに揺れた。
風はない。
けれど、黒い煤のようなものが床を這うように動き――
ルシナが視線を向ける。
ほんの一瞬、胸の奥がひやりとした。
次の瞬間、それは音もなくほどけるように消えた。
「……?」
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
そう答えながらも、胸の奥に小さな波紋だけが残る。
(ここにも……?)
店の中は、変わらずハーブの香りが漂っている。
乾いた葉の匂いも、棚の並びも、以前と何ひとつ変わらない。
――だからこそ、落ち着かなかった。
ルシナは小さく息を整えると、視線をカイへ戻した。
「フェスティバルのアンナ、かっこよかった。自警団って騎士たちなの?」
気を取り直すように、話題を変える。
「んー、騎士ではあるかな」
カイは腕を組み、少し悩んでから続けた。
「いろいろなんだ。若い男なら自衛のためって言って訓練に参加するしさ。得意不得意もある。俺は戦闘向きじゃないから、結界とか薬草で後方支援だし……。アンナは元々、王都で騎士をやってたからな。ここでも重宝されてるよ。他にも何人かは王都で魔法部隊だった奴とかもいる」
そこで一瞬、カイは天井を見上げた。
「……最近は特に、な」
「最近?」
ルシナが首を傾げる。
カイはすぐにいつもの調子に戻り、手を振りながら続けた。
「あーいや、魔獣の目撃増えてるだろ? 念のためってやつ。町も物騒だからさ」
いつもと同じ軽い口調。
店内は変わらず、薬草の匂いが満ちている。
「そういえば、騎士さん達って、みんな髪が長いの?」
ルシナは騎士たちが皆、長い髪を後ろでひとつに束ねているのを思い出した。
「あぁ、それこそ王都の連中だな」
カイはクリームパンをかじりながら答える。
「昔からの習わしらしいよ。遠征の前とか特に髪を伸ばしておくんだってさ」
「どうして?」
ルシナが首を傾げる。
カイは一瞬だけ視線を落とした。
「……帰れなかった時のため、って聞いたことある」
それ以上は説明せず、肩をすくめた。
「まっ。ここで命を落とすってことはないけどね!」
カイはクリームパンの最後の一口を口に放り込み、少しだけ大きめに頷いてから笑った。
「ルシナ、ありがとう。ご馳走様!」
少し間を置いて、思い出したように続ける。
「ルキの店にはもう行った? あいつも心配してたから、顔を出してあげて欲しいんだ」
「はい。これから行く予定です」
ルシナが少し顔を赤らめると、カイはにっこり笑う。
「そうしてくれ、あいつ最近、仕事に手がつかないみたいだから、喜ぶよ」
店内を見渡した。妖精たちがカイの頭の周りを飛んでいる。それ以外は、いつもと変わらない薬草屋だった。
「それじゃまた来ますね」
「またね〜!パンご馳走様〜」
“またね〜”
妖精たちも手を振っている。
(いつもと変わらない……よね)
カイの軽い挨拶を聞きながら、店を出て外の空気を深く吸う。
――変わらない、はずなのに。
胸の奥に残っていた小さなざわめきだけが、消えずにいた。
ーーーー
カイの店からルキの店へ向かう途中、
視界の端で、黒いものがざわりと動いた。
思わず足を止める。
それは地面を這うように滑り、まだ開店前の飲み屋の扉の隙間へ、するりと消えていった。
風は吹いていない。
それなのに、背筋だけがひやりとした。
ルシナは無意識に歩幅を速めた。
気付けば、ルキの店へと足早に向かっていた。




